「自由」について

昔、私が専門学校でダンスを専攻していたときの恩師である櫻井郁也先生が、「勝手は知ってるけど、自由は知らない」とおっしゃっていたことがありました。

「勝手」と「自由」。

これらはどう違うのでしょうか?

今回はそれについて考えてみたいと思います。

 

私がこの問題を強く意識するようになったのは、私がダンスの専門学校に在籍して、その一年生最後の進級制作展でソロダンスの作品を上演したときのことでした。

当時は櫻井先生が私のソロダンスの制作を手伝ってくれたのですが、私はたいへん大きな不安を感じていました。

そもそも、それまで私は「ダンス」というものを「ダンスのテクニックのことだ」と思っていました。たとえば、「ブレイクダンス」の技術を使って身体を動かせばブレイクダンスになり、「ヒップホップ」のテクニックを使えばヒップホップになる、と言った具合に、それぞれのジャンルで「基本」とされている身体の使い方を行っていれば、それでそのまま「ダンス」になると思っていたのです。

 

「え、そういうものじゃないの?」と思う人もいるかもしれませんけれど、実際にある程度以上、何かの芸を修めていくと、技術だけでは誰しも壁にぶつかることになるのです。

たしかに技術を習得することによって、「上手く」はなっていきます。ですが、そうして「上手く」なればなるほど、本人は一種の「物足りない感じ」というか、「『上手く』なったからって、それがいったい何なのだろう?」といったような疑問に取り憑かれるようになるのです。

「『上手く』なったからって、それが何なのだろう?」というこの疑問は、「『上手く』なることに意味はない、そんなの無駄だ」と技術全般を切り捨てているようにも見えますが、本人はそれで技術というものそれ自体から離れ去って、新しい何かをすぐに始められるかというと、そうもいかないのです。彼/彼女は自分が身につけた技術に「縛られている」と感じてはいますが、そこから先にどうやって進むべきかがわかるようになるまでに、少なくはない時間がかかります。

 

何らかの芸を修め始めた最初の頃、入門者は「その芸の世界を表現するための文法」とでもいうべき「技術体系」に、大いに魅せられるものです。初心のうちは何を見ても、「こんな身体の使い方がこの世にあったのか!」といった風に驚き、好奇心に駆られてそれをもっともっとたくさん見て、自分自身で身につけたいと思うようになります。

彼/彼女はそのようにして、今まで見たこともなかった新しい世界に、一歩ずつ参入していくことになります。

 

しかし、だいたい1年か2年ほど続けていると、始めたばかりの頃に目新しかった動きも、段々見慣れてきてしまいます。そして、先生が前で手本を見せていても、「ああ、これは知ってる。例のアレだな」と思って、最初から最後まで真剣に見なくなっていきます。

始めたばかりの頃は、目を見開いて少しでも先生や先輩の動きを真似しようと懸命に見ていたわけですが、いつの間にか「またそれか、もう飽きたなぁ…」という気持ちが強くなってくるのです。

それでも、「芸の道は長く険しいものだ」ということがだいたいどこでも言われますので、始めてから1、2年の「中級者に足がかかるかどうかくらいの技術段階」に至る頃には、「自分は今の時点で既に飽きてきているというのに、これをこの先、何年、何十年と続けなければいけないの?」と思って、「じゃあ、やーめた」となってしまうケースがしばしば見受けられます。

 

と、他人事みたいに書いてますが、かく言う私がまさにそうだったのです。

15歳でダンスを始めてから19歳までの約4年で、私はずいぶんと色んなジャンルをかじりました。

一番最初はブレイクダンスだったのですが、それからロックダンス、ポップダンス、ヒップホップ、ハウスといった、いわゆるストリートダンスの諸ジャンルを練習しました。ブレイクダンスが一番長く続けていましたが、それでも、2年ほどする頃にはもうだいぶ飽きてしまっていました。

それからダンスの専門学校に通って、クラシックバレエやモダンダンスといった、いわゆる劇場向けのダンスを稽古するようになって、そこで再び「踊り始めたばかりの頃の新鮮な感じ」を一時的には取り戻したのですが、それもたったの1年で綺麗さっぱり消えてしまいました。

 

私はブレイクダンスからクラシックバレエまで遍歴を続けてきて、すっかり失望してしまっていました。そのとき私は「たしかにこれからも続けていけば、上手くはなるだろう。でも、既に飽きてうんざりしていることを、自分はどんな動機で続けて行ったらいいのだろう?」と思いました。

自分の腹の底では「面白くない」と感じているのに、「それでも長く続ける理由」が「少しずつでも上手くなっていくため」ということ以外に、当時の私には見つけられなかったのです。

「上手くなったところで、そこに面白みを感じることはできない」という確かな実感がありながら、「じゃあ、どうすればいいのか」ということがわからない。さらには、周りの仲間や先生達が、自分のような「倦怠感」や「不満足感」を全く抱いていないように見えるので、余計に混乱してきます。

「なんでこんな面白くも何ともないことを、この人達は平然と続けていられるのだろう?」と思い、「きっと自分の感受性のほうがおかしいんだ。自分は飽きっぽくて何でもすぐに止めてしまうから、きっと何にも物にできないんだ」と考えて、私は自分のことを一種の「落ちこぼれ」のように感じながら、多くの教師の下を去って行ったのです。

 

ですが、「疑問を持たずに平然と続けられる人たち」と「どうしても疑問に取り憑かれてしまい、続けることそのものが苦痛で仕方ない人たち」の、いったいどちらの感受性が「異常」なのかということについては、そう簡単に結論を下すわけにはいかないと思います。「人数が多い方がすなわち『正常』なのだ」とついつい私たちは考えてしまいがちですが、たとえ世界中のほとんどの人が「こっちが『正常』」と思う場合があっても、ちょっとした時代の変遷で、そんなのは簡単にひっくり返ってしまうものです。

そういう意味で、「人数が多い=正常」というのは、多数派と少数派のそれぞれについての丁寧な分析を欠いた、いささか短絡した評価とも言えます。

 

私は別に「疑問に取り憑かれてやめていく人のほうが『正しい』」と言いたいわけではありません。

そうではなくて、「どうしてもそういう疑問を持って続けられなくなってしまう人というのは、疑問を抱かずにずっと続けられる人たちとは違う何らかの『資質』を、その内に持っているのではないか?」と考えたいのです。

 

では、その「資質」とは何でしょうか?

まず、「どうしてもすぐに飽きてしまう」ということについてですが、これを「飽きることができる」という風に言い換えてみると、「飽きる」という現象の見え方が変わってくると思います。

そもそも「飽きること」の何がそんなにいけないのか。「お前は本当に飽きっぽいなぁ」と親から言われたことのある人もいるかもしれませんけれど、そういう時に、私たちは自分がどことなく批難されているように感じるものです。まあ、「何をやってもすぐやめてしまう子ども」を育てる側からしたら、「このあいだ買ったばかりの習字道具がもういらなくなっちゃうのかよ」とか「せっかく高い入門費用を払ったのに、またやめちゃうの?」とかいったことを多かれ少なかれ感じてしまうでしょうから、「できたら続けて欲しいのになぁ」と思って言い方が非難がましくなるのも致し方ないのかもしれません。

ただ、そうやって「お前は本当に飽きっぽいな」と非難され続けると、本人もだんだん「何でもすぐに飽きてしまうということは、やっぱり『いけないこと』なんだ」と感じるようになっていきます。それが、私たちが何かに飽きてしまったときに、何となく罪悪感を抱く理由であろうと思います。

 

ですが、「飽きる」ということは本当に「いけないこと」なのでしょうか?

もう一度きっちり考えてみましょう。

まず、さっき上でも書きましたが、「飽きてしまう」というのではなく、「飽きることができる」と考えてみる。すると、その反対の「飽きることができない」という状態は、「何かを『詰まらない』と感じることができない」ということなのではないか、という風に見えてきます。

とすれば、「飽きずにずっと同じ事を続けている人」というのは、「飽きてしまうことがない凄い人」なのでは必ずしもなく、単に「何かを『詰まらない』と感じることができない人」なのではないかということが考えられてきます。

 

ところで、私たちが何かを「詰まらない」と感じるのはいったいどういうときでしょうか?

誰しも思いつくのはきっと、「自分に興味のない物事に半ば仕方なく係わっているとき」ですね。

「好きの反対は嫌いではなく、無関心」という言い方もありますが、私たちがどうしても興味を抱けないものというのは、それが「嫌い」だからそう感じるわけではありません。むしろ「好き」じゃないから「どうでもいい」と感じるのです。

ということは、「詰まらない」と感じている場合、その人は「これは自分が心から求めているものじゃない」ということを知ってか知らずか感じているということになります。

 

また、「結局は同じ事の繰り返しじゃないか」という風に思うときにも、人は「詰まらない」と感じるものです。

たとえば、親の説教が毎回同じ文句だったりすると、子どもは説教されることにすぐ「飽きて」しまいます。「ああ、これはさっきも聞いたやつだ」と思うと、子どもはあっという間に耳の回路をオフにします。

ですが、実際にはこの世界に「同じ事」は二度と起こりません。昨日会った人に今日もう一度会う場合でも、その一日の間にお互い色んな事を感じたり考えたりしているだろうし、食べたり寝たりして新陳代謝もしているのですから、「昨日と同じ人間同士が会っている」とは到底言えないことになります。

それにもかかわらず、「これはさっきと全く同じだ」と感じる場合、それはその人が、それぞれに違う在り方をしているあれやこれやの中の、「さっきと変わっていない部分」を敏感に捉えているからなのではないか?

つまり、「表面的には違うように見えても、実はその深いところで普遍性を持って存在している何か」に気づいているからこそ、その人はあれを見てもこれを見ても「同じだ」と感じるのではないかと思うのです。

 

これこそまさに、私がダンスのたくさんのジャンルを練習していたときに感じていたことでした。

こう言うとひどく生意気に響くと思いますが、「色々やってみたけれど、結局どれも同じじゃね-か」と私は思っていたのです。

ある先生について技術を習得し、そこからさらに長く稽古をして、それらを徐々に洗練していく。

たしかにそういういことが「好き」な人もいるでしょう。でも、私はそういうことを繰り返すごとにウンザリしていきました。なぜなら、その道をどこまでいっても「先生のコピー」を目指す努力が行われているだけに思えたからです。

もちろん、私のその時々の先輩達の中には、「オリジナリティ」のようなものを醸している人が、いなくもありませんでした。でも、彼らは共通して「先生から非難されない範囲内でオリジナリティがある」というに過ぎないように私の目には見えました。それゆえ、そこには「先生」と「先生の劣化コピー」と「先生に許してもらえる範囲で個性的な人」しかおらず、色彩としては「わずかなグラデーション」があるだけでした。「サイケデリックな色彩」が、そこには全く存在しなかったのです。

 

そんな中、櫻井先生だけが違いました(もう読者の方達は忘れてしまっているかもしれませんが、この記事の一番上で書きました、私の専門学校時代の恩師です)。

専門学校の「似たり寄ったりなレッスン」で気持ちを腐らせていたそのときの私に、櫻井先生は「今度の進級制作展で、湯浅はソロダンスやらないのか?」と聞きました。私は「まあ、やろうという気持ちがないこともないのですが…(むにゃむにゃ)」と曖昧な返事をしてやり過ごそうと思っていたのですが、いつの間にか先生の中では「湯浅はソロダンスをやる」ということになっていたらしく、次の週の同じ舞台制作の授業で、櫻井先生の前で私は何か踊ってみせなければならない状況に置かれてしまいました。

 

このときです。まさにこのとき、私は「ダンスというものをまったく誤解していた」と痛感したのです。

それまで私は、「ダンスというのは、自分が習った技術を反復するだけのものだ」と思っていたのです。だから、「詰まらない」と思った。

でも、「ダンス」は、「芸術」は、そんなものじゃありませんでした。

「ダンス」を「そんな程度のもの」にしてしまっていたのは、実のところ、私自身だったのです。

 

櫻井先生から「何でもいいから動いてみて」と言われ、私は自分が丸裸になったように感じました。それまで自分を守ってくれていたものがみんな消えてしまい、私は突然「独りぼっち」になったように感じて、心の内側で震えだしました。

私は得体の知れない「恐怖」に心臓を捕まえられ、その「恐怖」を振り払うために、先生の前でバタバタと動き回りました。それは、私がそれまでに身につけてきた「テクニック」とは似ても似つかないものでした。だって、実態としては「ひどく恐いのに、どうしたらいいかわからなくて暴れていた」というだけなのですから。

 

櫻井先生の前では、「技術」は意味を持ちませんでした。

少なくとも、当時の私にとってはそうです。櫻井先生の前で踊らねばならないときはいつも、「あなたはなぜそれをするのか?」と問われているように感じたものです。

その時の私にとっての「技術」というものは、教師や仲間達から評価され受け容れられるための、単なる道具にしかすぎなかったということに、私はソロダンスの練習をする中で次第に気づいていきました。

私は「上手いねぇ」と誰かから褒めてもらうために技術を使い、「あの人の動きは美しい、綺麗だ」と言ってもらうために先生から習った通りのことを繰り返していたに過ぎなかったのです。

 

私は櫻井先生の前で、もはやそれまでと同じように技術を使うことはできませんでした。なぜなら、櫻井先生の前で踊っていると、「あなたはなぜ今ここにおいて、あえてその技術を使うのか?」という問いを、否応なく突きつけられるからです。

そして、その問いに対する私の答えは「他人から馬鹿だと思われたくない」「『綺麗な動きをする人だ』と、できたら他人から思ってもらいたい」といったような、なんとも「みっともない」ものだったのです。

 

櫻井先生に限らず、「他でもないあなたは、どうして今ここでそれをするのか?」という問いを、非常に深い仕方で提示する能力を持っている人がこの世界には一定数存在します。

彼らのような人たちの前では、私たちは「自己欺瞞」や「浅薄な嘘偽り」が全てはぎ取られてしまいます。そして、自分の表面を飾っていた「嘘」が全て落ちると「真実」が出てくるしかありません。

ここで言う「真実」とは、「非常に切迫した状況に置かれた時に明るみに出る、その人の真の実態」とでも言うべきものです。つまり、櫻井先生のような人の前では、「嘘」を全部取っ払った後に残る「実際の自分自身」がどれほどのものなのかを、人は己の一挙手一投足によって表現せざるを得なくなるのです。

 

19歳のとき、櫻井先生を前にしてソロダンスを踊りながら、私は無力感と羞恥心を強く感じました。私は自分で思っている以上に「底の浅い人間」で、「本当の自分」を四六時中隠して生きている「臆病者」だと感じました。そして、私が櫻井先生の前で踊れば踊るほど、私の一挙手一投足が自分のそういった「底の浅さ」と「臆病さ」を否応なく表現してしまうのです。

これは当時の私にとって、非常に辛いことでした。しかし、今思い返してみても、櫻井先生ただ一人だけが、「それを踊るあなたはいったいどういう人間なのか?」と聞いてくれたように感じられます。他の教師達は誰一人、私にそうは聞かなかった。他の教師達は「あなたは何ができるのか?」ということ以外には、ほとんど何も私に聞かなかったのです。

少なくとも、私はそのように感じました。

 

櫻井先生はあるとき、「勝手は知ってるけど、自由は知らない」と呟くように言いました。

そのときにはわかるようでわからない言葉でしたが、今はいくらかそれについて自分なりに考え、何らかの答えを提示することができると思います。

私は専門学校を卒業した後も、ときどき一人で踊りました。プロのダンサーになる道を諦めていた(というよりも、そこにはっきり納得できる「意味」を見出せなかった)私は、劇場で踊ることはなくなりましたが、それでもときどき、夜の公園や昼の河原などで、一人きりで踊ることがありました。

私はもうレッスンを受けてダンスの技術を習得するということをまるでしていませんでしたし、毎日決まった時間に踊るというようなこともしませんでしたから、決して「上手く」はなっていきませんでした。踊る気分にならないときは、2、3年くらい全く踊らない時期もあった。

それでも、やっぱりときどき思い出したように、誰に見せるわけでもなく、私は一人で踊ったのです。

 

私は相変わらず自分がなぜ踊るのかわかりませんでした。

でも、そうやって「ときどき一人で踊る生活」を10年くらい続けた頃、不意に、「ああ、これでいい」と思えるような動きが、自分の内側からポツポツと出てくるようになってきたのです。

それが他人から見て「綺麗」かどうかは私にはわからないです。でも、「これでいいんだ」というたしかな実感が、ほんのわずかではありましたが、私の中に降り積もり始めたのです。

そして、その「これでいい」という感覚は、次第次第に私の内側で育っていき、私を導き始めました。私は自分の身体がこう語るのを、耳にするようになっていったのです。

 

「そっちじゃなくて、こっちに行きたい」

「今は動かないで、じっとしていたい」

「そうじゃなくて、こういう風に動きたいんだ」

 

身体は私に色々なことを告げているように、私は感じ始めました。そして、その導きの声に従えば従うほど、私の中で「これでいい」という感覚はさらに育っていったのです。

 

いつからか、私にとって「踊る」ということは、「身体を上手くコントロールして技術を再現すること」ではなく、「身体が告げる声に耳を澄ませて、『その時だけの軌跡』を描くこと」へと変わっていきました。あいかわらず、ごく稀にしか踊らないので、誰かから「湯浅さんってダンスをやってるんですか?」と聞かれる度に返答に窮してしまうのですが、ただ、私はやっぱり踊るのが好きです。

 

さて、「勝手」と「自由」はどう違うのか?

私の答えはこうです。

 

つまり、「勝手」とは、自分の心や身体といった天から与えられたものを、まるで道具みたいに使って自己利益の増大をはかろうとする在り方のことです。

そして「自由」とは、天が自分に与えたものを、それが望むような仕方で表現するよう意識的に努める在り方のことです。

そういう意味で、いつまでも「勝手」なことを続ける人は、やがては自分で自分を貶めてしまい、上っ面だけの浅薄な人間になっていきます。

反対に、「自由」を重んじる人は、少しずつ少しずつ「自分はいったいこの世で何をするために生まれてきたのか?」という問いへと導かれていきます。つまり、「天命」へと向かって進んでいくことになる。

 

「勝手な人」も「自由な人」も、どちらもこの社会には存在しています。

でもきっと、「自由な人」は数がとっても少ないです。「勝手な人」のほうがよく目立ちますし、そういう意味でも、「自由な人」は世間に埋もれてしまいやすい。

しかし、もしも「自由な人」が全くこの世からいなくなったら、私たちはこの宇宙そのものが発している「根源的な声」を聞く機会を、失っていくように思います。

「そんな一銭にもなりそうにない『個人の妄想』なんて、別に失ったって構うものか」ときっと人々は言うでしょうけれど、「個人の妄想」を己の一挙手一投足で日々表現しているのは、むしろ「勝手な人たち」のほうだと私は思います。

 

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