「恐れ」について

私たちの「恐れ」の源はいったいどこにあるのでしょう?

私たちは、日々の生活の中で漠然とした不安感を抱えていたり、あるとき不意に激しい恐怖に駆られて、いてもたってもいられなくなってしまうことがあります。

たとえば、「自分はひょっとして他人から嫌われているのではないか?」という疑いが頭の内側に生まれてきて、その考えに支配されてしまう場合などがあります。ちょっとした何かの拍子で、自分の言動に対して他人が「異議申し立て」を行っているように感じ、「自分は何かとても『間違ったこと』をしてしまっているのではないか?」と考え始め、それを何とかして打ち消そうとあちらこちらへ走り回ってしまうのです。

こういった場合、とにかく誰でもいいから、誰かに「そんなことないよ」とだけ言ってもらいたくて、信頼する家族や友人達に自分の中の疑いをさらけ出すことも多々あります。この時、私たちはただ慰めてもらうことを欲して、そうするのです。

ですが、それで仮に「そうだな、自分は何も間違ってなんかいない。きっとただの勘違いだよな」と一時は安心するとしても、やっぱり不安感はいくらか残っています。なぜなら、そのとき自分が相談した「信頼する家族や友人達」もまた「他人の一種」には違いないわけで、いつか何かのきっかけで自分のことを裏切るかもしれないからです。

 

「恐れ」に支配されているとき、私たちは「他人の意見」というものに非常に敏感に反応します。

他人が自分を肯定するか否定するかが気になって、なるべく好意的に他人から受け容れて貰えるように、自分の言うことをその場その場でコロコロ変えたり、心理的に頼る相手を状況に応じてコロコロ変えたりということもよくします。

まるで他人に肯定してもらわないとこの世に存在していてはいけないかのようです。

それほどまでに、私たちは「他人の意見」に対してビクビクして暮らさざるを得なくなる時がある。

 

では、その「恐れ」の源はどこにあるのか?

「それ」は、自分が頼りにしていた全ての他人から多かれ少なかれ見放されて、独りきりで過ごさざるを得なくなったときに、私たちの目の前に現れます。そのとき、私たちは自分が全くの無根拠で、世界からちっとも必要とされていないように感じ始めます。自分でも抑えられないほどの震えが湧き起こってきて、「このまま自分は発狂するのではないか」と感じるまでに、私たちは心理的に追い詰められていきます。

突然、目の前に「裂け目」が出現し、そこに自分が吸い込まれて消滅するかのような感覚に襲われ、人は「誰でもいい、誰か自分を助けてくれ!」と叫ぼうとします。でも、その時そこには自分しかいません。なぜなら、他人はみんな自分から離れて行ってしまったのですから。

 

もちろん、この恐ろしい「裂け目」を見ること無しに生きている人たちもいます。彼らはありとあらゆる機会を利用して、他の人々の集まりに顔を出したがります。というのも、独りきりになったとき、彼らは自分自身が抱えている深い「空虚」が吹き出してきて、まったく抑えられなくなるということを無意識に知っているからです。

彼らは自分の「空虚」を見ないようにするために、他人の中に自分を埋没させます。他人に「自分と同じ意見でいること」を強い、「仲間で居続けること」を強要しようとします。そして、彼らが頼る相手もまた同じように彼らのことを利用しようとしたがっています。お互いに自分の「空虚」から逃げるために、相手を利用しているわけです。

それゆえ、彼らにとっての「友情」はどことなく「政治的な取引」に似てきます。「私はあなたに同意する。私はあなたを仲間として受け容れよう。だから、どうか私のことも仲間として受け容れて欲しい」といった具合に、そこにはギブ・アンド・テイクがある。「あなたは私に寄り掛かってもよい。ただしそれはあなたが私のための『手摺り』になってくれる場合だけだ」というわけです。

彼らはお互いにお互いを束縛し合います。彼らはお互いに「自分はいつか突然裏切られるのではないか?」と勘繰り合い、相手から離れることがどうしてもできません。彼らには「相手を自分の安心のために利用すること」を止めることが、どうしてもできないのです。

 

相手を利用しようとすれば、必ず相手からも利用されます。なぜなら、この世の誰も他人のために生きることを目的にして、生まれてきたわけではないからです。これが人造のロボットであれば、「人々の役に立つために生まれてきた」ということもあるでしょうけれど、こと人間に関する限り、それはあり得ません。私たちは誰もが「自分の人生」を生きるために生まれてきたのです。

そうである以上、他人を自分の人生のために利用しようとすれば、必ず相手からも同じことをされます。相手を「こちらの役に立つロボット」みたいに扱おうとすれば、その人は相手からも同じように遇されることを覚悟しなければならない。

 

そして、これこそが私の見るところ、世の多くの人たちによって美化されている「絆」というものの実態なのです。それはお互いを助け合うことよりも、束縛し合うことへと人々を向かわせます。

その結果、彼らは自分の内側にある「空虚」から目を逸らすことができ、実存的な「裂け目」に向かって落ち込んでいくことなく日々をやり過ごすことができます。こうして、「自分を最終的に支えてくれるものなど、宇宙の果てまでたったの一つもないのではないか?」という、激しい狂気を催させるような根源的な疑いに、その人は苛まれなくて済むようになるわけです。

しかし、「空虚」を見なくて済む代わりに、その人は無数の「他人の意見」が飛び交う藪の中で、「どこかの誰か」をいつも頼りにし続けないといけなくなります。そして、あるときその「どこかの誰か」が自分のことを排斥していると感じ始めるやいなや、その人は「もっと頼りがいのある別の誰か」を探して半狂乱になって駆けずり回るか、自分の「空虚さ」に耐えかねて自殺するか、だいたいどちらかの結果になるのです。

 

私たちが「他人の意見」を恐れるのは、他人が自分とは違う意見を言うことによって、こちらのことを傷つけるかもしれないからではありません。

別に他人が違う意見を持っていたって、それだけで私たちが傷つくとは限らない。「世の中にはそういう考え方もあるのだな」と思って受け流しておくことも私たちにはできます。

問題となるのは、私たちが自分の「無根拠さ」や「空虚さ」から目を逸らすために利用している当のその人が口にする意見です。それは、たとえば親であるかもしれないし、学校の先生や職場の上司であるかもしれません。または、同級生やクラブの仲間達、趣味の集まりにおける同好の士、自分が崇拝する神や教祖、傾倒している思想家や尊敬している師匠などなど、このリストはいくらでも長くすることができます。

別に私はそういった「他者」たちと係わることそのものを否定しているわけではありません。ただ、自分の足で立つことができない人は、他者を「松葉杖」のようにして利用することにならざるを得ず、その結果、そこからは「束縛し合う関係性」しか生まれてこないだろうと言っているのです。

お互いがお互いを「自分のための松葉杖」にしようとしていると、どちらかが「もうこんな非人間的な扱いを受けたくない」と言って抜け出そうとするときに、どうしても「裏切り者」として断罪されることになります。「自分の足で立てるように、あなたを『松葉杖』として使うことを止めたい」と言った瞬間に、その人は「あいつはとても血の通った人間とは思えない。あいつは私を見捨てて行ってしまった!」といった批難をありったけ浴びることになる。というのも、「あなたを『松葉杖』にしたくない」という言明は、相手からしたら、「だからもう私のことも『松葉杖』のように使ってくれるな」という風に聞こえるからです。

 

「束縛し合う関係」をどちらかが止めようと決心すると、残された側は呪詛を吐きます。

「私のことを置いていって、自分だけ『自立』しようだなんて、そんなヤツは呪われてしまえ!」といった具合に、「止める決意」をした人間はどうしても攻撃されざるを得ない。それでいて、そうやって攻撃している側のほうは、「自分は被害者だ、自分は一方的に見捨てられた」と思っています。

そして、この「自分は被害者だ」という声に屈して、どれほど多くの人たちが「束縛し合う関係」の中へと戻っていってしまうことでしょう?

だって、去って行こうとする自分の背中に、「この人でなし!お前なんて血の通った人間じゃない!人の痛みがわからない悪魔だ!」という叫びを浴び続けなければならないのですから。

そういうわけで、他人の意見に寄り掛からずに自分の足で立つ練習を始めたばかりの人などは、「ひょっとしたら相手の言うように、自分は『ろくでもないこと』をしでかしているんじゃないか?」と思って、実に容易く「束縛し合う関係」へと戻っていってしまうのです。

 

自分の「空虚さ」から目を逸らそうとする人は、他人が自立することを望みません。そんなことになったら、己の「空虚さ」から目を逸らすために利用できる人間の数が減ってしまうからです。

彼らはできたら自分のための「松葉杖」をたくさんストックしておきたがる。それで、だれかが群集の中から抜け出して、自分の足で自分の人生を歩もうとし始めると、もっともらしい理屈をつけて全力でこれを批難するのです。

 

私はこういった非常に馬鹿げた状況を、自分や自分の周りの人々の中に幾度となく観察してきました。

人は弱い。たしかにそうです。それは私も認めます。

でも、「だから、いつまでも他人の意見に私たちは寄り掛かっていてもいいのだ」という結論には、私は同意できません。もちろん、他人がそういう結論にしがみつくことを私は批難しようとは思いません。でも、それを「他人の意見から自立しよう」と思っている勇気ある人にまで強要しようとするのは、お門違いだと思います。

たしかに人は弱い。しかし、だからこそ、強くなろうとするのです。

もし「人は弱い。だから、いつまでも他人の言うことに頼っていなければならないのだ」というのであれば、そう考えるその人は、生きていくことを真に肯定的に見ることがいつまで経ってもできないのではないかと、私には思われます。

 

私たちの「恐れ」の源はどこにあるのか?

それは、「自分のことを本当に束縛できるものは、この宇宙には何一つ存在していない」ということに気づいてしまうことの内にあります。

たしかに、他人はこちらの身体を縛り付けることはできるでしょう。「逆らったらもう食べ物はやらん」とか「もしこれをしたら殺す」とか言って脅すこともできる。でも、たとえどれほど脅されても、「それでも自分は自分が『正しい』と思ったことをする」と決意するのを邪魔することができる人間は、自分自身を除いて、この宇宙にたったの一人も存在しません。

もしたとえ殺されるその瞬間になったとしても、人は「どのような態度で死に臨むか」を自分で選ぶことができ、「死に臨む態度」まで「こうでなければならない」と強要できる他人というのは、この宇宙には見事に一人もいないのです。

 

そのことに気づいたとき、私たちは「自分の在り方」を誰のせいにもできないということを悟ります。

もちろん、「自分の置かれた状況」は、他人のせいかもしれません。たとえば、事故に遭って半身不随になってしまうことも、自分が処刑されそうになることも、他人のせいであると思います。

でも、そういった外側の状況に対して、内側でどういう決意をするかについては、自分以外の誰にも責任を負わせるわけにはいきません。

しかし、それが私たちには「恐い」のです。「自分の在り方」の全てが、「自分の責任」であるだなんて、こんなに厳しいことがこの世に他にあるでしょうか?

なぜなら、人生がどのような過酷な状況を自分に課すか、私たちには前もって知ることが不可能だからです。

ひょっとしたら、治癒する見込みのない重い病にかかるかもしれないし、家族とことごとく死別して天涯孤独になるかもしれない。何かの拍子で事故に遭って、いきなり死を眼前に突きつけられるかもしれないのです。誰にでもそういった可能性があります。

 

究極的には、私たちは「死」を恐れているのです。

他人から見捨てられることも、仕事を失うことも、家族や仲間を失いことも、私たちに「死」を連想させます。「自分は独りきりで死んでいかなければならないかもしれない」という「恐れ」がそこで湧き起こってきます。それは避けがたいことです。

しかし、この「避けることのできない恐怖」と面と向かったとき、人には二つの選択肢が常にあります。どんなときにも二つの選択肢が残されている。

それはつまり、自分の置かれた状況を他人のせいにして呪うか、自分の置かれた状況を受け容れて、たとえ惨めに死のうとも精一杯誠実に生きて死ぬことを欲するか、二つに一つです。

 

しかし、この二者択一を前にして、私たちは往々にして「前者の選択肢しか自分には与えられていない」と感じるものです。そして、そこから人類の多くの苦悩が生まれ出てきます。

自分の寿命が尽きるより前に「後者の選択肢が自分にはいつでも可能である」ということを認める勇気が持てるかどうかに、その苦悩を本人が乗り越えられるかどうかがかかっています。

もちろん、苦悩を乗り越えることができずに自殺してしまった人もたくさんいましたし、寿命が尽きる直前になって「自分がこれまで何から目を逸らし続けていたのか」に気づいてしまい、世界中を呪いながら死んでいかねばならなかった人たちも多くいました。

反対に、「苦悩を乗り越え、そこから何かしらのメッセージを受け取ることに成功した人々はみな、安らかに自分自身の不遇や死を受け容れることができた」ということを、私たちの歴史は既に経験的によく知っています。

そして、そのような在り方を本当に苦しい状況においても選べるかどうか、私たちはいつも人生から己の勇気を試されているのです。

 

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