「個性的」とはどういうことか

「個性的である」というのは、いったいどういうことなのでしょうか?

誰かのことを評して「あの人は実に『個性的』だ」と言うような場合、人はいったいそこに何を見ているのでしょう?

 

そもそも私たちは、幼い頃から「人間は一人一人みんな違うもので、それぞれが掛け替えのない存在なのだ」と言われて育ちます。

「掛け替えがない」というのは、つまり「取り替えがきかない」ということですが、何で取り替えられないのかというと、どうも「同じ人間はこの世に一人もいないから」というのが理由らしい。某アイドルグループが「ナンバーワンよりオンリーワン」と歌っていたのも、きっと同じ事を前提にしているのでしょう。

私たちは耳にタコができるほど、この「全ての人はみんなお互いに違っており、あなたと同じ人はこの世のどこにもいないのだ」といった言説を聞かされます。でも、子どもの頃にそう言われても、ほとんどの人は「なんでそんなことをわざわざ言う必要があるのだろう?」と疑問に思うのではないでしょうか?

なぜなら、「みんなそれぞれに違っている」ということは、「取り立てて特別なこと」ではなくて、「至極当たり前のこと」のように子ども達は感じるからです。

むしろ、子ども達は大人達が「みんなそれぞれに違っているのだ」と言うのを聞いたとき、大人の側が全然自分の言っていることを信じていないように見えるので、混乱することのほうが多いのではないかと思います。というのも、「いいか、人間というのはな、みんなそれぞれに違うんだぞ」と大人の側が口を酸っぱくして言う割には、家では「他の子と同じようにしてないとみっともないでしょ」と叱られたり、学校では「どうして他の子と同じように勉強しようとしないんだ」と言って怒られるからです。家でも学校でも、他の子と違ってはならず、学校の成績もみんな「同じ基準」に則って一律に評価され序列化されます。

そういう状況に子ども達を落とし込んでおいて、「人はみんな違うんだぞ」なんて、「嘘」もいいところです。子ども達はそこで「大人ってみんな『嘘つき』なんだな」と内心では感じるわけですが、もし他に見習うべきロールモデルが近くに居ないと、そういう「嘘つきな大人」を模倣していくことによってしか、子ども達には成長の道筋が見つけられません。そして、やがてその子ども達が大人になると、かつて自分が言われたのと同じ種類の嘘をつくように自然となるのです。

 

じゃあ、「人はみんなそれぞれに違っている」ということそのものも、誤りだったということになるのでしょうか?

実際に私たちの目の前で起こっていることは、「人はみんなそれぞれに違った掛け替えのない存在なのだ」と口では言いながら、内心では「そんなのホントは大嘘なんだけどさ」と思っている大人がいっぱい居るということであって、そういう意味では「みんな、おんなじように『嘘つき』だ」ということなら言えると思います。要するに、みんな実に「嘘のつき方」が似たり寄ったりだ、ということです。

それならやっぱり「人はみんな違っている」というのは間違いで、「嘘の付き方まで似てしまうくらい、みんなに大した差なんかない」ということになるのでしょうか?

 

私はそうは思いません。そもそもみんなの「嘘のつき方」がいつもそっくり似ているのは、「一人一人がその本質において同じような人間だから」ではなくて、「社会が人間を歪める仕方が時代や国を問わず似ているから」です。

いつの時代も、どこの国でも、社会は私たちを「ありのまま」でほっておこうとはしません。子どもが生まれ落ちるやいなや、社会はその子の上に覆い被さって、彼/彼女を「社会にとって何か有益な存在」に無理やり変えてしまおうとします。

社会に害をもたらさないように、社会の存続に役立つように、子ども達は多くの大人達によって、その「生まれ持った資質」をねじ曲げられます。そして、いつの時代も、社会は「掛け替えのない個人」ではなく、「いくらでも代替可能な部品」を欲してきました。というのも、自分で感じ、考え、行動する「個人」という存在は、体制の側が要求することに必ずしも従うとは限らず、むしろ、それまで常識だと考えられていたことをひっくり返してしまうかもしれない「危険分子」ともなり得るので、基本的に社会はそういう人間を許容しないのです。

 

しかし、それならどうして「人はみんな掛け替えがない」なんていう「嘘」を、社会は子ども達につくのでしょうか?

「あなたたちはみんな、この社会を存続させるための『単なる部品』になるために生まれてきたのだ」と、正直に思っていることをどうして言わないのでしょう?

それは、本当に「単なる部品」になってしまうと、いささか社会のための役に立たなすぎるからです。「自分の頭で考えることを完全に放棄して、なにもかも全部他人任せ」という人ばかりになってしまうと、やっぱり社会というのは立ちゆかなくなってしまいます。それも困る。

だから、「あなたたちはみんな固有の価値を持った存在なのだ」と口先で言ってみせることによって、「社会に反抗はしないけれど、それなりに自分で考えたり判断したりできる人間」を一定数確保しようとするわけです。親や教師や上司の言ったことには従順だけれど、そこそこ内省する力や自己判断能力を持った人間が一定の割合存在していたほうが、「無思考の機械」ばかりの組織になってしまうよりも、生産効率が良い。だから、「あなたたちはみんな掛け替えがない」という「嘘」をわざわざついて、部分的に「個人の尊厳」を認めるような振りをするのです。

 

これが私の見るところの、「嘘」が生み出されてくるカラクリです。

社会というものは、その本質において「個人」を決して許容しない。しかし、全員が「完全に無個性」になってしまったら社会そのものが崩壊してしまう。それを避けるために、こんなねじくれた嘘が「発明」されたのです。

 

ここまで来れば「個性的な人」がどういう人かも自動的にわかります。

それは、体制の側が押しつけてくる価値観や考え方を決して鵜呑みにしたりせず、どこまでも自分で感じ、自分で考え、自分自身で選び取ることを優先しようとする人のことです。

そういう人は、表面的な見た目の平凡さとは裏腹に、周囲の人々とは非常に異質な存在になります。一見すると「どこにでもいる当たり前の人」に見えるのだけれど、どうも「周囲の空気」に馴染まない。どこに行っても彼/彼女は「他の人々の背景」から浮き上がってしまうのです。

 

感受性や批判的な精神を豊かに持っている子ども達ほど、このような「周囲から浮き上がってしまう状況」に成長の過程で陥って、ひどく困惑するものです。もし大人からの理解や共感を得ることができなければ、「自分はひょっとして『異常』なんじゃないか」とか、「自分は何か『間違ったこと』をしてしまっているのではないか」とかいった不安感や罪悪感が昂じていき、「自分はきっと周りにまったく馴染めない『ダメな人間』なんだ」といったような劣等感を、深く心に染め付けてしまう場合もあるでしょう。

そのようにして「個人の芽」は人生の早くに摘み取られてしまうことが非常に多いわけですが、それでも、中には理解ある大人との出会いに恵まれ、少しずつ自分の心に水をやることで、大人になってから芽を出し、花を咲かせる例もあります。そして、そういう人たちの言動が、なんと当たり前にして同時に個性的であることか。

彼らには「他人と異なろう」というような意識は微塵もありません。ただ、自分自身に忠実であろうとすると、結果的にどうしても他人と違ってしまうことになるというだけなのです。

でも、どうして「自分に忠実であろう」とすると、その言動が個性的になってしまうのでしょうか?

 

それは、「人間というものは、誰もがみんな、その本質において他の人とは違う個性を持った存在だから」です。

そうです。私もまた社会が告げるのと同じように、「人間はみんなそれぞれに個性を持っている」と主張します。でも、私がそのように主張する理由は、社会がそれを主張する理由とはちょっと(というかだいぶ)違います。

社会の側は、「反体制的にならない範囲で個性的な人間=安全で有益で従順な人間」を一定数確保しようと思ってそう主張するわけですが、私は「人というのものは、もし本当に『自分で感じ、考え、選び取ろう』とするならば、必ずその人なりの独自の仕方で生きるようになる」と経験的に知っているのでそう言うのです。

 

「個性的である」というのは実際のところ「どういうこと」なのか?

多くの人はこの世のどこかにこの問いの答えがあると思うでしょうけれど、「個性」とは、「個性というのはこういうものだ」と他人から教えてもらっている限り、決してわかるようにはならないのです。

 

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