「本物」と「偽物」

「本物」と「偽物」との違いはどこにあるのでしょうか?

たとえば、映画の広告なんかで「本物の感動!」とかいったフレーズを目にする度に、私たちは奇妙な違和感を覚えます。「本物の感動」があるというならば、「偽物の感動」もあるということです。そして、その映画広告が主に訴えていることが、「これだけたくさんの興行成績を挙げています」とか、「これだけ有名な映画評論家も絶賛しています」とかいうことだったりすると、「別にそんなことによって保証してもらわなくても、『本物』はやっぱり『本物』だろう」と私たちは感じてしまいます。むしろ、そんな風に外から保証してもらわないと「これが本物です」と言えないなんて、すごく「偽物」っぽいと感じてしまうかもしれない。

 

どれが「本物」でどれが「偽物」かということについて、人々は実にたくさんの意見を戦わせます。「これこそが『本物』だ。お前らが『本物』だと思っているものは全然価値のない『偽物』だ」と人々は互いに言い合って、一歩も譲ろうとはしない。

仕舞いには「そんなくだらない物を『本物』だと勘違いしているお前らは頭がおかしいんだ」といったような人格攻撃にまで発展することもあります。でも、もしそれが本当に「本物」ならば、そういった人々の意見に左右されるということもないのではないでしょうか?誰か人から支持されないと「本物」であれないというならば、それこそやっぱり「偽物」っぽいです。

だとしたら、「これこそが『本物』なのだ」と主張してやまない人々が、本当に主張したいことは何なのでしょうか?

 

思うに、彼らは「これこそが『本物』なのだ」と明言した誰か他人の意見の尻馬に乗っかっているだけなのです。本当に「本物」を見分ける目を持っている人は、実にはっきりと断言します。「これこそが『本物』だ」と、そういった「真の目」を持った人は、誰の意見も聞かずに即座に言い放ちます。

でも、周りの人たちにはどうしてそこまで確信を持って断言できるのかがわからない。わからないのだけれど、「わからない」と正直に言ってしまうと、「そうか、君にはこれが『本物』であるということがわからないのか…」と言われてしまうような気がして恐くなる。それで「裸の王様」に出てくる大衆おなじく、「私にもわかります。まさにこれこそが『本物』です!」と叫ぶように告げるのです。

もしも「これが『本物』かどうか自分にはわからない」ということがばれてしまうと、自分が「偽物の人間」だということまでもが他人にばれてしまいます。それを避けようとするときに、人は自分に嘘をつきます。「これは『本物』だ。自分にはわかる。自分には確かにそれがわかる!」といった具合に、まるで自分を催眠術にでもかけるかのように、彼らは内側で呪文を唱え始めるのです。

 

そして、私の見るところ、そうした「偽物の人々」だけが、「これこそが『本物』だ」と言って譲らない論客となるのです。というのも、「これこそが『本物』だ」と自分自身でわかっている人は、別にそれを他人に証明する必要を自分の内側に感じませんが、「これが『本物』かどうかを自分は判断できる目を持っていない」と思っている人は、何とかして他人を否定したり論破したりしないと、「これは『本物』だ。間違いない!」と言って、自分で自分についた嘘を持ち堪えさせることができないからです。

 

「本物」を理解できるのは「本物」の人間だけです。その表面を「嘘」で塗り固められた人々には、決して「本物」は理解できない。彼ら「偽物」の人間達は、ただ、他人が「本物だ」と言うのを聞いて、それに乗っかって騒ぎ立てることしかできません。そして、彼ら自身もそのような「自分の嘘偽り」に、実は深いところでは気づいているのです。

だから、彼らの言動はどうしても強迫的になります。だって、彼らの嘘はいつだって自分の目の前に貼り付けてあるのです。それにもかかわらず、自分の嘘から目を逸らし続けないといけないとなったら、それは強迫的になるしかありません。盲目的になって、攻撃的になって、自分の感覚や判断能力を麻痺させて、彼らは自分の言っていることの非論理性に気づかなくて済むところまで、自分で自分を愚鈍化させます。なぜなら、もしも彼らの知性が内側で花開くことを許したら、彼らは自分の嘘に見ない振りを続けることなんて絶対できなくなるからです。

 

よって、「本物」を理解する人というは、必ず知性的な人です。

彼/彼女は他人の意見に盲従したりせず、自分で考えて、自分で判断することができるからです。

他人の意見に乗っかって何かを言うというようなことは、「本物」を知る人には耐えがたい。また、「自分は『本物』を知っている『本物』の人間だ」ということは、本人が自分でわかっていたらそれで済む話なので、わざわざ他人に吹聴して回ることもしたいと思わないものです。

むしろ、そうやって他人にわざわざ「自分は『本物』だ」と言うとしたならば、「そういった『さもしい身振り』によって、自分は『偽物』になってしまうだろう」と、その人は感じるはずだからです。

 

「本物」を理解する人は、ある種の普遍性に通じています。

人類全体を支える地面の下で滔々と流れ続けている「或る何か」に彼らは通じている。

それは世の人々が普段「客観性」と呼んでいるものとは似ても似つかないものです。「客観的に見て私はこう思うぞ」とか、「もっと客観的に物事を見ないと、足元をすくわれるぞ」とかいった仕方で、人々は「客観性」という言葉を使いますが、そう言うその人は「君にとっての『客観』であるところの僕の『主観』からはこう見えているぞ」と告げているのだということに、あまり自覚的ではありません。自分では「客観的に物事を見ている」といくら思っているとしても、そうして見ているその人自身にとっては、それはどうしても「主観」であるしかない。

そう言う意味で、私たちはみんな、「自分自身の主観の世界」でしか生きることができないのだと言うことができます。「客観性」といったようなそもそも存在していないお化けのような言葉に人々はずいぶん寄り掛かってしまっていますが、私の「主観の世界」から見れば、この世には「主観性」と「普遍性」しか存在していません。「客観性」という言葉はきっと、「『主観』をどこまでも深めていくことによって『普遍性』に到達する」ということに失敗してしまった人々が、自分の「主観」の浅さを糊塗するために発明した「防具」の一つであろうと思います。

 

自分にとっての「主観」から、私たちは抜け出すことができません。

だとしたら、私たちにできるのは、「自分の『主観』をどこまでも掘り下げていくこと」だけということになります。どこか外に意見を求めたりせずに、自分の足元をひたすら掘り返し続けるしかないわけです。

そうして掘り進んでいく途中、私たちは色々なことを経験します。世の中の人々が自分とまったく異質な存在に感じられてきたり、「自分は何か間違った道を進んでいるのではないか」という疑いが起こってきたりします。また、他人からは「外の世界には宝の山が溢れているのに、あいつはいつまでも自分の足元なんか掘っている」と嘲笑される可能性もあります。「自分の足元」から「真実の宝」が出てくるなどと、人々はまるで信じていません。というのも、「もしも『本当の宝物』が自分の足元に埋まっているのだとしたならば、どうして世の中の多くの人々がこんなに不幸であるのだろう?」と彼らは感じざるを得ないからです。

「もし『最も大切な物』を自分が既に『今ここ』において持っているとするならば、どうして自分は今も不幸なのだろう?」というわけです。

これが彼らの論理です。「『真の宝物』は『いつかどこか』にあるのであって、『今ここ』にはあり得ない。自分は『それ』を外側に探し求め、これから見つけなければならないのだ」と、彼らは思ってしまうことになるのです。

 

ですが、彼らがどう言おうと私はこう思います。「私たちはみんな既に『自分が居たかった場所』に居る」と。問題は、「『自分が居たかった場所』に既に居る」ということを私たちがすっかり忘れてしまっているということです。自分の足元をわざわざ掘らないといけないのもこのためです。

私たちは生まれてから育っていく過程で、社会によって色々な思い込みを植え付けられます。そして、それらが多くの嘘を生み出し、彼/彼女の持っている「真実」を覆い尽くしてしまうのです。

それゆえ、人は「自分の真実」を覆っている無数の嘘を丁寧に取り外していく手順を踏まねば、「そこ」に到達することができません。実際には「もう既に到達している」のですが、それに気づくことができない。

なぜなら、それに気づくことができないほどに彼/彼女の目は、嘘と疑いでいっぱいだからです。そして、「嘘と疑いでいっぱいの目」には、「真実」を見通すことは決してできません。これはもう何千年も前からそうなのです。

 

ですから、大事なことは「『本物』とは何か」を他人に聞くことではありません。それを「自分自身で知ること」こそが大切なのです。

そうでなければ、人は自分の嘘を肥やすばかりで、「かつて生まれたばかりの頃は、全ての人間が『本物』だった」という「真実」に、いつまで経っても気づくことができないのです。

 

次の記事へ

前の記事へ