合氣道で学んだこと

私は約8年半くらい前から合氣道の稽古を続けているのですが、稽古を続けていると本当に色々なことがわかるようになります。合氣道とは一見まったく関係がないと思われるような日常のちょっとした問題に対しても、合氣道の稽古で得た知見が非常に有効であることも多いです。

 

私たちは、部分部分で生きているわけではなく、一つの全体として生きています。

だから、「一事が万事」ということにどうしてもなります。もし私たちが「部分部分の寄せ集め」でしかなかったら、合氣道の稽古では合氣道の技術が身につき、日常生活では日常生活の問題に対処し、という具合に、その場その場で別の人間であるかのように振る舞うようになるでしょう。

でも、実際には私たちは自分が係わる全ての物事に対して、いつも同じ仕方でしか振る舞うことができません。

たとえば、「他人から嫌われたくない」と強く思っている人は、合氣道の稽古でも日常の生活でも八方美人に振る舞うし、「権威に寄り掛かっていたい」という想いが強い人は、合氣道の稽古では師範や先輩にだけいい顔をして後輩や初心者を一個の人間として見ようとせず、日常生活でも偉い先生が言っていたこととか有名な本に書いてあったこととかに盲従して自分の頭で考えません。

人間というものは、その人の意識の一番深いところ(「潜在意識」とも言います)に入っているメッセージしか発信することができません。だから、「潜在意識」で「どいつもこいつも馬鹿ばかりだ」と思っている人は、たとえどれほど表面的な言動を取繕っても、自分の一挙手一投足によって「どいつもこいつも馬鹿ばかりだ」というメッセージを全方位に発信してしまいます。そういう人は、相手を褒めているときでさえ相手を馬鹿にしています。

だから、その人が何を言っているかとか、何をしているかとかは別に大事ではないのです。見るべきはそれをする「仕方」だけです。

私の経験から言って、「仕方」を見れば、その人の「潜在意識」を見抜くことが容易になります。言い換えれば、その人が何を目的にして生きているのかがわかるのです。

 

こういうと一種の超能力みたいに思う人がいるかもしれないですけれど、これは別にそんな特殊なものではありません。人間なら誰もが生まれながらに持っている能力です。ただ、教育の名の下に、生まれ持った感覚を閉ざされてきたことで、一時的に感じることができなくなっているだけです。それゆえ、私たちは他人の潜在意識を見抜けないだけでなく、自分自身の潜在意識についてさえ、たいへん無自覚になってしまっています。

 

たとえば、こんなことは経験ありませんか?

あなたが電車に乗っていると、途中でいささか奇抜なファッションをした数人の若者グループが同じ車両に乗ってきた。それで周りの視線も気にせず、大声でわめくように雑談をし始めたとします。

こういうとき、自分のことをよくよく観察してみるのです。彼らに対する非難の気持ちがないかどうかを。

別にそういった人たちのことを非難するのが、善いとか悪いとかいう話ではないのです。ただ、私たちは自分の内側(潜在意識)に非難する気持ちを持っていると、それを必ず何かしらの形で表現してしまうものだということを感じてもらいたいのです。

あなたはきっと口では何も言わないでしょう。「うるさいから黙れ!」と思っていても、なかなか面と向かっては言えません。

そこで、「潜在意識」はこの「うるさい黙れ!」を口で言うのとは違う仕方で表現しようとするのです。

 

あなたはひょっとするとあからさまに嫌そうな顔をするかもしれません。または、彼らから必死で目を逸らそうとするかもしれない。呼吸が少し荒くなるかもしれないし、貧乏揺すりを始める人もいるでしょう。他の人にも聞こえるような仕方であえて溜め息や咳払いをすることによって、「言いたいことを自分は言えていない」ということを表現しようとする人も多いです。

 

こういった様々な反応をじっくり観察してみると、「自分が本当に発信したいと思っているメッセージ」を見誤ることが少なくなります。

ひょっとすると頭(「顕在意識」とも言います)では「いや、彼らだって掛け替えのない生きた人間なのだ。彼らの生き方もある程度は尊重しないといけない…」といった風に思っているかもしれませんが、いくら頭でそう考えて、口でもそう言っていたとしても、それとは反対の意味を持った反応が多く観察されるなら、本当に言いたいと思っていることは「うるさい黙れ!」のほうであることになります。

普段、私たちは頭(顕在意識)で思っていることにばかり敏感で、心の奥深く(潜在意識)で思っていることには鈍感です。それは言い換えると、「自分が最も発信したいと思っているメッセージ」について無自覚に生きているということです。これはけっこう恐いことだとは思いませんか?

多くの人々は口では愛について語りながら、実際には憎しみに突き動かされて行動します。口でいくら「もっと人々を愛しましょう」とか「私は愛情深くありたい」と言っていても、潜在意識で「愛なんて嘘っぱちだ」「自分は誰からも愛してもらえなかった!(だから、誰か自分を愛しておくれ)」と思っていたら、どうしても「愛情深い他人の振る舞い」に対して冷笑的な態度を取ってしまうし、与える前に奪うことを優先するようになってしまいます。潜在意識を書き換えでもしない限り、こればっかりは本人にはどうすることもできないのです。

 

だから、「一事が万事」です。別に、ある人のことを理解するのに、多くの事例は必要ありません。一つの事例をじっくりしっかり観察すれば、そこに「その人が言いたいこと」が全部書いてあります。

特に合氣道では、「この人はどういう人なのか?」ということが非常にくっきり現れやすい。ダンスでもそうです。

人は何かを表現するときに、「自分が何者なのか」を否応なくさらけ出すことになります。何もさらけ出さない人でさえも、それによって「『本当の自分』をさらけ出すことが恐くて『嘘』を演じながら人生を生きている人である」ということをさらけ出してしまうわけなのですから、何かを表現する以上、逃げも隠れもできません。これは本当に恐いことだと思います。

 

私の見るところ、多くの人の潜在意識は、教育の名の下にグチャグチャに歪められてしまったことに対する憎悪で煮えくりかえっています。「自分らしく生きること」を許してもらえなかったことに対する怒りをかなり溜め込んでいる。

さらに、そういった怒りを頭=顕在意識が「善くないもの」として抑え込みにかかると、怒りさえも萎びて「命の力」が枯渇します。もはや潜在意識は、声を上げることさえできなくなってしまう。結果として、生きることが色あせ始め、死への誘惑が立ち現れてきます。

つまり、人は「自分らしく生きること」を否定され続けることで、もともとそこにはなかった「怒り」という感情に支配されるようになり、それでいながら親や教師などによって「怒るな」と何度も言われ脅され続けることによって、「自分の被った暴力に対して怒りを露わにする機会」まで奪われてしまうことがあるのです。こうなると本当に悲惨です。

しかも、こういう仕打ちをした当の大人達が「もっと主体性を持って自分のしたいことをしなさい」なんて言って、子ども達に得意顔でお説教をしている。ひどいです。

 

とにかく、合氣道の稽古を続けていると、段々と「人を見る目」が鍛えられてきます。

「この人は口数は少ないけれど信頼できるな」とか「この人、口ではもっともらしいこと言っているけど、なんか信用できないな」とかいったことが、わかるようになってくる。

そこで大きな問題になるのが、武道の道場に必ずと言っていいほどある「段級位制」だと私は思っています。「師範が一番偉くって、長く稽古している先輩の門人のほうが段位や級位が上で優れている」という前提をあまりにもカッチリ決めすぎてしまうと、師範が間違ったことを言ったりやったりしていても、「いや、きっと自分の修行が足りないからそう感じるのだ」と思って、「本当に見えている実相」を自分で否定してしまったり、「先輩のほうが自分より優れているはずだから、先輩の意見と自分の意見が異なった場合には自分が間違っているに違いない」と考えて、先輩の門人から明らかに理不尽な扱いを受けても黙々と従うような心性が、初心者の中に根付きやすいです。

私ははっきり言いますが、師範であっても先輩であっても、間違っているときには間違っていると思うし、「心の卑しい人間」はたとえ社会的地位や名声をたくさん得ていて、立派なことを言ったりやったりしているように見えても、やっぱりその根っこの部分は「卑しい」と思います。

 

私たちは、自分の「人を見る目」をもうちょっとだけ信じてあげてもいいんじゃないでしょうか?

もちろん、それを信じることができるようになるためには、ある程度の長い期間にわたる「修行」が必要不可欠です。でもそれは、師範や先輩の意見に盲従して、自分で感じることをやめてしまっていると、いつまで経ってもできるようにはなりません。

まず自分自身から始めることが大事です。自分の潜在意識が語っていることによく耳を澄まし、たとえそれが暴力的で幼稚で利己的で、受け容れがたく感じられても、そっちのほうが今の自分にとっては「真実」なのですから、それを否定するのではなく、なぜそういったものが自分にあるのかをよく理解し、そのまま受け容れることが大切です。

暴力性や未熟さや利己的な傾向は、自分の「真実の姿」をありのままに見つめることで少しずつ溶けて、別の物へと変わっていきます。自分の中に「暴力性」があるとしたら、それにはちゃんと理由があるのです。きっといつか過去に「イヤだ!」と言いたかったのに言えなかった経験があったのでしょう。だから、それがいつまでも潜在意識に残って、かつて表現しそこなったことを完結させようとしているのです。

未熟さがどうしても残ってしまうとするならば、きっといつか過去に「本当に心から愛して欲しい」と思いながらその希望が満たされなかった経験があるのでしょう。だから、かつて満たされなかった自分を心を、いまも誰かに先に満たして欲しいと思ってしまう。その人は、自分が相手を満たすより前に、相手によって満たされることを願わずにはいられないのです。

また、利己的であることは、別にそんなに「悪いこと」じゃないと私は思います。人間は誰だって「自分の人生」を自分らしく生きるために生まれてきたのですから、私たちが利己的になるのは当たり前です。だから、ちゃんと「必要な分だけ利己的」になって自分を優先して満たしてあげないと、いつまで経っても「もっと利己的でありたい」という執着から解放されません。「自分らしく生きたい」という私たちの根源的な欲求に蓋をしておいて、表面だけ利他的に取繕っても、それはより微妙な仕方で表現された「暴力的な利己主義」にしか成り得ない。

 

このように、私たちは自分の潜在意識に残っている「未完結の想い」に一つずつ光を当てていくことによって、徐々に潜在意識を書き換えていくことができます。そして、この書き換えが時によっては一瞬で進行することもある。

その場合、周囲の人は「あの人は最近人が変わったようだ」と感じ始めます。というのも、潜在意識が書き換わると、自動的にその人の一挙手一投足が発信するメーセージが変更されるからです。そういうのは、頭=顕在意識で「こういう人間になるためにこの習慣を自分に課してみよう」といったような仕方で行われる自己変革とはまったく次元の違う変化を引き起こします。それは頭で考えて「起こそう」とする変化ではなく、潜在意識が書き換わることで「自然と起こる」ような変化です。

そして、このような変化だけが永続性を持ちます。潜在意識が「以前のまま」なのに、表面の振る舞いだけをいくら変えても、そういうのはすぐ「元の木阿弥」になってしまうのです。

 

合氣道の稽古をしていると、たまに「鏡」のような人に出会うことがあります。その人と組んで技をしていると、まるでそこに「自分の姿」が映し出されるような心地がしてくるのです。

そのような場面で見えてくる「自分の姿」は、普段、「これが自分だ」と思っているものよりも、より「本質」に近いものなのではないかと思います。そういう時、人は不意に自分が何を見失ってしまっていたのかを、「鏡」に映る自分の姿を通して知ることになるのです。

「鏡」のような人というのは、数は少ないですが、確実に一定数存在します。そういう人に出会ったら、社会的に大した地位がなくても、道場ではほとんど段位も級位も持ってなくても、最大限の敬意を持って接するほうが「修行」は早く進むと思います。なぜなら、「鏡」に映る自分と対話していくことによって、その人の潜在意識は徐々に書き換えられていくからです。

 

もし潜在意識が少しでも書き換えられたら、その人の技は全部変わります。技術的に「このときの足の位置がどうの」とか「この場合の手の角度がどうだ」とかいった些末なことをいくら積み重ねても起こせないような大きな変化が、本人の中で爆発する。

これは一度自分で経験するとはっきりわかりますから、潜在意識の書き換え方がわかったら、もう技術的に細かいことをあれこれ気にすることはなくなっていきます。

もちろん、「技術的に細かいことを研究することが無駄だ」と私は言いません。「技術的に細かいことをいくら研究しても、『本当の変化』は起こせない」ということを痛みとともに我が身で知るためにこそ、大いに「細かい技術研究」は必要であると思います。

よって、「何一つ無駄になるものはない」ということがわかります。

もし自分の足で自分の道を進んでいくのであるならば、全ての失敗は「成功のための土台」になり、全ての失望は「希望への飢餓感」を根付かせてくれます。失敗も失望も、「もっと深く進みたい」という本人の自発性を育ててくれる大事な大事なパートナーです。

無駄なものは一つもないのです。

 

ここで、最後に一つ、この記事を読んで「実際に合氣道を始めてみよう」と思った方がいたならば、差し出がましいですが、その方に忠告です。

仕える師は、時間をかけて慎重に選んだ方がいいです。目に見えるその人の言動や、世間的な評判をいったん脇に置いて、その人の一挙手一投足が発している「心の最も深いところにあるメッセージ」に耳を澄ませてみてください。

もし時間をかけて観察してみて、「この人が一番言いたいことは『オレの言う通りにしろ』ということだ」と感じたならば、そういう人には絶対に師事してはいけません。その人はきっとあなたのことを「便利な道具」に変えて利用しようとするでしょう。

反対に、「この人が一番言いたいことは『あなたはあなた自身を見つけねばならない』ということだ」と感じたならば、その人は「師の候補」に加えてもいいと思います。きっとその人はあなたが生まれたときに持っていた「資質」を開花させられるように、手助けしてくれると思います。

もちろん、それでも相性はあります。「弟子が『自分自身』になることを手助けしようとする師」というのは、その人自身も「自分自身の資質」を開花させた人であり、それゆえ非常に個性的である場合が多いです。

そうなると、その師の「生まれ持った資質」とあなたの「生まれ持った資質」の相性が果たして良いかどうかが問題になります。

 

でも、これはきっとそこまで大きな問題にはならないでしょう。

というのも、あなたを「あなた自身」に投げ返そうと努める師は、決してあなたを無意味に傷つけるということをしないからです。

もしあなたと師の相性が優れていない場合には、師のほうから「ここではなくて、別の師があなたには相応しいだろう」と言って、きっと他の師を紹介してくれることでしょう。というのも、そういった師の目的は、あなたを「あなた自身」にすることであって、あなたを自分の手元に置いて都合の良いように利用することではないからです。

 

以上、私が合氣道を稽古してきてわかったことの二、三を書きました。

合氣道に限らず、何かしらの「芸術」を修行している人には、役に立つ部分もあるかもしれません。誰かの参考になりましたら幸いです。

 

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