「力」の使い方

PLATFORMでは「呼吸と瞑想のクラス」というものを開催しているのですが、主宰である私がどういうことを大事にしているかについて、ちょっと書いておこうと思います。参加を検討されている方は、参考までにご一読ください。

 

私がこれまで稽古してきた合氣道においては、相手を投げたり固めたりといった体術の練習だけでなく、呼吸法や瞑想法が稽古の中に取り入れられていました。これらの修行法がどうしてそれほどまでに大事にされているのか私には長らく疑問だったのですが、今なら理解できることもあります。

まず、呼吸法というと、一般の人はどういうイメージを持たれるでしょうか?

ヨガのスタジオなどで眉間にしわをよせながらフーフー息を吐いているイメージですとか、あるいは、静かに坐ってゆったりとした呼吸を続けているイメージなどを持たれるのではないかと思います。

と、こう書いてみると、いかにも矛盾したイメージが「呼吸法」というものに同時にくっついていることに気づかされます。「頑張って呼吸法をマスターして健康を増進しよう!」といったような「スポ根的な呼吸法の取り組み方」もあれば、「ゆったりした呼吸をすることで自律神経を整えましょう」といったような「調和的な趣を重視するもの」もあります。

実際、今の世の中には呼吸に関する無数のメソッドが溢れかえっており、玉石混淆の状態を呈している。こうなると、「いったいどれが『正しい』のだろう?」という風に誰でも自然と思います。

 

しかし、呼吸法の種類は数あれど、私の見るところ、全ての呼吸法の目的は「いかにして自分の生命力を高めるか?」というところにあると思います。

たとえば、単に「呼吸を深めよう」というのでも、それによって酸素と二酸化炭素の交換がスムーズになれば、身体がより活き活きすることが期待できます。また、呼吸をコントロールしていくことによって、心の状態にアプローチする場合もあります。自分で観察してみるとわかりますが、怒るときにはそれに相応しい呼吸のリズムというものが必要であり、「ゆったりとした呼吸を保ちながら怒る」ということは人間にはできません。ゆったりした呼吸でも、「叱ること」ならできるでしょうが、「感情的になって怒る」ということはできない。なので、呼吸を自覚的にコントロールすることによって、自分や他人を毒する可能性がある感情(怒り、憎しみ、妬みなど)が暴れ出さないようにセーブしたり、無害化して消失させたりすることができるようになっていきます。これも、「生命力を高める」という呼吸法の目的に沿った、重要な成果の一つと言えます。

 

このように、「呼吸法の効果」を列挙することはいくらでもできますが、その一番根っこにある目的意識は「生命力をいかにして高めるか?」ということに尽きます。これを目的にしていない呼吸法のメソッドというものを、今のところ私は見たことがないです。

にもかかわらず、「呼吸法を熱心におこなって身体を壊した」とか、「呼吸法に入れ揚げた結果、人間関係が壊れた」とかいった事例が後を絶ちません。これは何故なのか?

それは、私が思うに、そのメソッドを教えている指導者が「人間の生命力を高めること」を目的にして教えていなかったか、教わった側が「高まった生命力の使い方」を間違えたかのどちらかです。

最初にメソッドを考え出した人自身は、基本的に「これで多くの人の生きる知恵と力を高める道筋ができた」と思っているものです。でも、それを後から教わって他人を指導しようとする人の場合、同じように考えていないことがある。つまり、「このメソッドを教えることでもっとたくさんお金を得たい」とか「生徒を服従させて自分の虚栄心を満たしたい」とかいった理由で、開祖のメソッドを生徒に授ける場合があるのです。こうなると、メソッド自体の目的がいくら「実践者の生命力を高めること」であったとしても、その効果は「歪んだ形」で伝達されざるを得ません。

たとえば、「もっとたくさんお金を払わないと本当の効果は出てこない」といったような脅しが使われることもありうるし、そうなると呼吸法を実践する者は、脅されて心を恐怖で縮こまらせることになる。これでは当然ながら、呼吸法をやればやるほど「生命力」は低下します。

また、教える立場の人間が「命令する力」や「強制力」を使って生徒をこづき回し、それによって自分の心を満たそうとする場合、その人が教えることによって目指しているのは「相手の生命力を高めること」ではなく、むしろ「生徒がよりいっそう惨めに感じて、指導者にすがりつかざるを得なくなること」のほうです。こうなるとやっぱり、指導者から言われた通り実践すればするほど、その人の「生命力」は低下します。

このように、もしも何かしらのメソッドを熱心に行って問題が発生したとするならば、メソッドそのものに瑕疵があるというわけでは必ずしもなく(もちろん瑕疵の多いメソッドも世の中にはたくさんありますが)、教える側のマインドセットに問題がある場合が多いものです。

 

また、教える側に落ち度がなくても、メソッドを実践する側が新たな問題を発生させてしまう場合もあります。それは、ある程度メソッドを実践し続けて、「生命力が高まる」という成果が結実し始めたときに多く起こります。

多くの人々は「生命力が高まったら、それで万事OKじゃないの?」と思うかもしれませんが、「本当の修行」はここから始まるのです。

 

「生命力」が高まってくると、それまで不可能に思えたことが易々と実現可能になっていきます。

身近な例で言えば、毎朝だるくて起きられなかったのが、スパッと爽快に目が覚めるようになる。また、いつも優柔不断で物事を決めるのに時間がかかっていたのが、瞬間的にベストの選択をできるようにもなる。食べるご飯の味が前よりはっきりと感じられ、少ない量の食事で前よりも精力的に勉強や仕事に取り組むことができるようにもなるし、他人から多少乱暴な物言いをされても、あまりそれが気にならなくなったりします。

こうした「めざましい変化」を経験する内に、なんだか人生が輝いて見え始め、「これまでの自分」とは違う新しい世界が開けてくるように修行者は感じます。

 

でも、そこで一度ストップです。ここで立ち止まって、よくよく考える必要があります。

というのも、そのとき当人は溢れんばかりの「力」だけを得ていて、「その力を自分はいったい何のために使うか」という目的意識が欠けた状態にあるからです。

「生命力」が高まると、その人はよりいっそう活き活きと自分の人生を生き始めます。ですが、その時もしも自分の得た「力」を「他人を支配するため」に使い出すと、その先には奈落への転落が待っています。

私は合氣道の稽古をする中で、いかに多くの人々(私も含む)が、せっかく得た「新しい力」を「他人を支配するため」に使ってしまうか、目の当たりにしてきました。人々は、まるで以前の「無力だった自分」を振り払おうとするかのように、手に入れた「力」を他人の頭上で行使し始めます。そして、それによってせっかく得た「命の力」を枯らしてしまうのです。

一度急上昇したあと、今度は急激な落下が待っています。一度は「生命力」が高まって、不可能が可能になったのですが、それを使って他人を支配し出すと、すぐに「前より無力な状態」まで落っこちます。

なぜ「前より無力」なのかというと、一度上昇してから落っこちたことで、「自分はかつてスピリチュアルな達成を経験した選ばれた人間だ」という前にはなかった「たんこぶ」が、その人の自尊心の上にくっつくことになるからです。こうして、「無力」であるにもかかわらず「他人を見下す身振り」が次第に染みついていくことになり、結果としてその人は周囲から孤立し、よりいっそう惨めで無力な状態に陥っていくことになる。

 

ところで、なぜ他人を支配するために「力」を使うと、「力」は枯れてしまうのでしょうか?

それは、「他人を支配したい」という欲望の裏には、常に「恐れ」が存在しているからです。

相手が人間である場合に限らず、私たちが何かを「支配したい」と思うとき、そこには「恐れ」の影が必ずある。

結果を自分の思うようにコントロールしたい。

相手がこちらの意向に沿うように操作したい。

こういった想いはいずれも、「未来は不可知であり、結果は誰にもコントロールできない」という「宇宙の摂理」に反した欲望です。それは、「未来は決まっていて、結果はわかっていたほうがいい」という「安全志向」によって裏打ちされている。そして、そんな風に「宇宙の摂理」を歪めてまで「安全」を欲せずにいられないのは、その人が内心では恐がっているからに他なりません。

私たちにできることは「理解すること」までです。「理解すること」によってコントロール可能になる部分もあるにはありますが、全てを支配下に置くことはできません。

「それが恐い」となると、「全てをコントロール下に置きたい」という不可能な願いを実現するために、その人は狂奔することにならざるを得ない。

 

他人を支配するために「力」を使うと、なぜ「力」が枯渇してしまうのか?

それは、他人を支配することに興味があるのは「恐れている人間」だけであるということに起因しています。つまり、「他人を支配するために力を使いたい」と思った時点で、その人はすでに「自分が有する力のマスター」ではなく、「自分を支配する恐怖の奴隷」になってしまっているということです。

「自分の力」を支配するどころか、「自分の恐怖」に支配されている人間が、どうしてよりいっそう強くなれるでしょう?

「力」は失われるべくして、失われるのです。

 

「本当の修行」は、「力の目覚め」が感じられた後に始まります。

「その力を使って他人を決して支配しない」ということを、日々の生活の中である程度の期間にわたって実践し続ける必要がある。そして、目覚めた「力」は、他人をコントロールするために使うのではなく、自分をよりいっそう成長させるためだけに使います。そうすれば、「恐れ」に支配されることもなくなりますし、やがては自分の中で「力」が満ち満ちて溢れ出し、結果として周りの人達を益する日もやってくるかもしれません。

「生命力」が高まってきたら、それを他人に自慢して自分の虚栄心を満たそうとしたり、身近な他人を自分に都合が良いように利用しようとしたりしない。そうではなくて、自分の「生命力」がより高まるようにだけ使うのです。

そして、その結果として満ち溢れてきた「余剰分のエネルギー」しか、他人に対して使ってはいけません。というのも、まだ自分自身が満ち足りていない段階で他人と係わろうとすると、私たちは必ず「まだ足りていない分」を相手から搾取しようとするからです。

そして、そのような「相手からもっと搾取したい」という想いが、その人の「恐れ」をドライブし、せっかく高まり始めた「生命力」を虚しく浪費させてしまうことになる。

 

「力」というものは、それだけなら「善い」でも「悪い」でもありません。

それを持った人間自身が「力」をどう使うかによって、「善く」なったり「悪く」なったりするだけです。

そして、瞑想法の丁寧な実践こそが、「力の使い方」を私たちに教えてくれます。

私にとって瞑想とは、「ただ独り在る」という状態に安らぐことです。何かを得ようと追い回したり、何かから逃げようと四苦八苦したりするのではなく、「今ここ」に現れてくるものを丁寧に観察するだけです。そして、「今ここ」に現れてくるものを、「好ましいもの」も「好ましくないもの」も等しく観ていくことによって、心の上に覆い被さっていた「ホコリ」が徐々に落ちていきます。そうすれば、「自分の心が語る声」がはっきり聞こえるようになり、「今ここで何をすべきで、何をすべきでないか」も、自然とわかるようになっていくのです。

 

先月の記事でも既に散々書きましたけれど、私にとって重要なことは、「自分で感じ、自分で考える」ということだけです。「それが大事だと思う」ということ以外に、今の私には特に伝えたいことがありません。

ですが、「たった一つの伝えたいこと」に、私はありったけの全力を込めます。

呼吸と瞑想のクラスで大事にしたいのも、「同じこと」です。

私は「何か教える」ということが嫌いなので、「教える」よりも、「一緒に考える」とか「深く感じる」とかいったことを優先したいと思っています。

そういったことに興味がある人は、是非参加をご検討ください。

ただし、「実践によって得た力を軽々に他人に対して使わない」と約束できる人にしか、私は「本当のところ」を伝えませんので、それだけはあらかじめご了承ください。

 

次の記事へ

前の記事へ