自分で感じ、自分で考える(前編)

「自分で感じ、自分で考える」ということを私は非常に重視しているわけですが、いったいどうやって感じ、考えたらいいのかわからない人もいると思います。ですので、今回は「自分で感じ、考える」という在り方を深めるための具体的な実践の「ヒント」と、実践していく中で誰もが陥りがちな「落とし穴」について書いてみようと思います。

 

ちなみに、ここで私が「ヒント」という言い方をするのは、決して私が書くことを「従うべきマニュアル」にしてほしくないからです。もし私が書いたことを「マニュアル」として受け取ってしまうと、きっとその人は「マニュアル」に寄り掛かって、「自分で感じ、考える力」をかえって弱めていってしまうでしょう。というのも、いつも「マニュアル」に従っていると、徐々に「決められたことから外れる」ということが恐くてできなくなっていくからです。「マニュアルに従ってさえいればOK」と思っていると、その人は「いま何が起こっていて、自分は何をするべきなのか」をいちいち考えなくなっていくでしょうし、「マニュアルから逸脱しない」ということにこだわり出すと、自分が感じたり考えたりしたことを「既存のマニュアル」に合致するよう無理やりねじ曲げる可能性があります。実際には感じても考えてもいないことを、「自分が信奉するマニュアルにはそう書いてあるから」という理由から、あたかも「自分が感じ、考えていること」のように思い込んでしまうわけです。

 

「自分で感じ、自分で考える」という在り方を貫くことは、「即興的に生きる」ということと同じです。生きていく中で起こるあらゆることに対して、そのつど丁寧に感じ、考えることによって、何かを選び、他のものを捨てていく。そこには「これが自分自身の選択である」という「責任の感覚」が必ず生じてきます。

しかし、他人から与えられた「マニュアル」に従っていると、「言われた通りにしなければ」という「責務の感覚」は生じてきますが、「この選択の結果として生じるものを自分は全て受け容れよう」という「責任の感覚」はむしろ消えていきます。「従うべきマニュアル」をたくさん抱えれば抱えるほど、「果たすべき責務」が増えていって、「背負うべき責任」が減っていく。こうなると、「やること」はどんどん増えていくのだけれど、生き方そのものは「無責任」になります。これも、「自分で感じ、自分で考える」ということを実践していく上での、ありがちな「落とし穴」の一つと言えるでしょう。

 

私がここで書いていることも含めて、「他人が言ったこと」を絶対にそのまま「自分の決まり事」にしないこと。これが「自分で感じ、自分で考える」ための唯一のルールです。他に何もルールはないし、やり方のマニュアルもありません。

しかし、それは「全くの無方針」ということではありません。「自分で感じ、自分で考える」ということをある程度の期間続けて行くことで、その人の中に「方針」は必ず生まれてきます。他人から言われた「責務」を果たすのではなく、自分から何かに挑戦し、自分でその結果を一つずつ引き受けていくことによって、「自分なりのルール」や「自分だけのマニュアル」が少しずつですが作られていくのです。

そして、やがては「たとえ他人がどう言おうとも、自分はこうする」という確固とした「芯」が、徐々に当人の中に結晶化してきます。それは「意固地になって譲らない」というのとはちょっと違います。というのも、そこには「自分としてはこうとしか在ることができない」という必然性の感覚が伴っているからです。

しかし、このような「芯」を少しずつ内側に作り上げていく手間のかかる過程を飛ばそうとして、外から持ってきた「マニュアル」で手っ取り早く代用しようとすると、その人の「芯」の感覚はかえってどんどん弱まっていってしまいます。そして、「芯」が弱まれば弱まるほど、「他人が言ったこと」に振り回され続け、「自分が何をしたいか」も「この人生で何をすべきか」もわからなくなってしまう。他人からもらった「マニュアル」に従っていると、「他人が自分にどう生きて欲しいと望んでいるか」はわかるようになるかもしれないですけれど、「天はいったい何を望んで自分をこの世に創ったのか」は決してわかるようにはならないのです。

 

それでは、実際に「自分で感じ、考えるためのヒント」をいくつか書いてみたいと思います。

まず「自分で感じる力」をどう育てるかですが、日常的に誰もが必ず繰り返すであろう食事と睡眠が、「練習」にはうってつけだと私個人は思います。

最初は「簡単なところ」からスタートするのがいいと思います。というのも、いきなり「仕事の大事な局面」とか、「複雑に絡まった人間関係の処理」とかいった「難しいこと」に対して、「自分の感じ」に基づいて判断するとなると「リスク」が大きすぎるからです。人間というものは「リスク」があまりにも大きいと、「本当に自分が感じたことを信じていいのだろうか?」という疑いが生じてきやすいものですし、結果として失敗した場合に致命的なダメージを負ってしまうと、「もう二度と自分で感じたことを信じるのはよそう」と考えることに繋がる可能性もあります。

のちのち、当人の「感じる力」が高まってくると、たとえ目に見える「リスク」があったとしても「自分で感じたこと」をはっきりと信じることができるので、あまり結果について余計な心配はしなくなります。しかし、もしまだ「自分の感じる力」を十分に信じることができていないと、結果に対する心配がどんどん大きくなってしまって、内側で生起する不安や恐怖が「自分の感じたこと」を濁らせたり歪めたりすることになりがちです。こうなると、余計に勘が鈍って大きな失敗をしやすくなるし、「大きな失敗をすることが自信の喪失に繋がり、自信がなくなることで不安と恐怖が亢進してますます勘が鈍る」という「悪循環」が生まれてきてしまいます。

ですので、「良い循環」を生み出すためには、あまり「難しいところ」から始めないことが一つのコツになります。「簡単で、失敗してもリスクが少ないところ」から始めて、慣れてきたら他のところにも手を広げていくやり方のほうが、「金輪際、自分を信じることをやめよう」と決意してしまう「致命的な失敗」を犯すことなしに、「有意義な小さい失敗」を積み重ねていくことができると私は考えます。

 

なので、食事と睡眠から始めることをひとまずオススメしたいと思います。

食事と睡眠だったら、「それらと全く無関係な人」はこの世に一人もいないでしょうし、それに関する失敗の影響も、ある程度自分でマネージすることが容易にできると思うからです。

まず食事についてですが、「自分が今何を食べたいか」を折に触れて感じようとすることが第一歩になります。「自分はいま何を食べたいのだろう?」と感じてみる。たとえば、定食屋さんでメニューを見るときに、頭で考えないで身体で感じてみます。その味を想像し、胃におさまる感じを想像してみて、それがどれくらい「しっくりきそうか」を自分で丁寧に点検してみます。

また、スーパーに行って食材を買う際にも、作るメニューをあまりあらかじめ決めてしまわずに、「自分を呼んでいる食材」を探してみる。そうして「自分の身体が何を欲しているのか」を丁寧に見つめながらスーパーを巡回していると、「今日はこの食材を食べてみたい」とか「今回はこれを使って料理をしてみたい」とか思うようなものに巡り会えるものです。そのようなものに巡り会えたら、その「巡り会った食材」を中心にしてメニューを考えていきます。

実際に調理をするに際しても、ちょっとだけ手間を掛けてみます。時間のあるときは、インスタントの粉末ダシを使わず鰹節や煮干しからダシを取ってみたり、材料の切り方や盛りつけ方にも少しだけ気を使ってみる。そして、そのように少しだけ手間を掛けることで、作っている過程の充実感や手応え、食べる際の喜びや味わいがどれくらい変化するかを、自分自身で感じてみるのです。

 

こういったことは、ひょっとすると人によっては難しく感じるかもしれません。単純に「いちいち感じている時間がない」という人もいるでしょうし、「感じようとしても身体から何の声も聞こえない」という人もいると思います。いずれの場合にしても、「感じる力」が十分に育っていないことが原因と考えられます。というのも、「感じる力」が高まってくれば、身体からの声もはっきり聞こえてくるようになるし、その結果として、自分が何を食べたいかも瞬間的にわかるようになるので、あまり時間を掛けて何を食べるか迷ったりしなくなるからです。

慌ただしい現代の都会生活者にとって、食事は「本当はしたくもないけれど、エネルギー切れになりたくないし、仕方ないからする」といった「燃料補給」に近い行為になってしまっています。もし「燃料補給」でしかないならば、味も素材も食べ方も全て「どうでもよい」ことになってしまい、「必要なカロリーさえ摂取できればそれでOK」ということになってしまう。これでは感じるどころではありません。

このようなケースに限らず、私たち現代人の食事は、身体の感覚からあまりにも切り離されてしまっています。たとえば、「いつもいつも決められた時間通りに食事を取らなければいけない」という思い込みも、身体の感覚の無視を助長しています。たとえば、「朝ご飯は毎日食べないといけない」という風に思って、お腹が空いていなくても、食欲がなくても、食べて「美味しい」と感じるものでなかったとしても、とにかく胃に何か詰め込まねばならないという強迫的な想いから、私たちは食事をする場合がある。同じように、お昼の十二時とか午後の一時くらいになると、「お腹が減ってきたような気分」になる場合があります。いつもいつもその時間にお昼を食べているので、時計を見て時間を確認したときに、たまたま現在の時刻がお昼ご飯の時間だったりすると、それだけで「自分はお腹が空いている」と思い込んでしまう場合がよくある。時計を見る前までは別にお腹が空いていなかったのに、時間を確認したらお腹が空いてくる。つまり、時計を理由に私たちは自分の「空腹」さえ作り出しているのです。

栄養学的な知見も、あまり過剰になってしまうと当人の「感じる力」を萎えさせてしまいます。「この食材にはこれこれという栄養素が豊富だから毎日取らねば」とか「これには何とかという有害な物質が含まれているらしいから食べちゃいけない」とかいった仕方で食べるものを選別し、まるで「栄養素だけで構成された化学物質」を摂取するかのように食事をしている人もある。この場合も、私たちは食べるという行為を通して何かを感じることから離れていってしまいますし、食べ物を味わうことや食事を楽しむことも難しくなっていくでしょう。

かように、現代に生きる私たちの食事は「時間」や「栄養」といった観念によって、身体の感覚から遊離してしまっているところがある。

 

睡眠についても同じことが言えます。

「何時間寝なければならない」とか「何時には床に入らないといけない」とかいった決まり事がたくさんあって、「今自分がどれくらい眠いのか」とか「起きたときの爽快感はどれくらいあるのか」とかいったことが無視されがちです。眠いときには何時だろうと眠いのですし、起きたときに爽快感があるならば、いつもより寝る時間がたとえ少なかったとしても、「その日はそれで適正だった」ということです。

しかし、私たちは睡眠に関してもよくよく「教育」されています。子どもの頃には、たとえ眠くなくても親が決めた時間になると寝かされます。ワクワクするようなことがあったり、気になってもっと読みたい本があったりしても、「時間だから寝なさい」と言われて横になることを余儀なくされます。

私自身も、保育園に行っていたときに毎日三時の「お昼寝の時間」というのがあったのですが、あれが本当に嫌いでした。だって、私はいつも全然眠くなんかなかったからです。他の子達は不思議と眠っていましたが、私は保育園に通っていた数年間で、覚えている限り二回しか眠れたことがありませんでした。それ以外の全ての日、私は眠くも何ともないのに、横になって布団の中で一時間ジッとしていました。起きたら怒られるからです。

お昼寝の時間が近づく度に、私は憂鬱になったものです。まだまだ走り回っていたい幼い子どもにとって、「一時間何もせずにジッとしてないといけない」というのは拷問に等しい。私は布団の中で毎日毎日色んな空想をして時間をつぶしたものです。

 

こんな風に、「寝たくもないのに寝かされる」というだけでなく、「起きたくもないのに起こされる」という場合もあります。むしろ、こっちのケースのほうが、大人になってからも長く続く習慣となるでしょう。というのも、成長してから独り暮らしなどをして入眠時間は選べるようになっても、起きる時間については仕事や学校の始まる時間に合わせないといけないからです。

「この社会で生きていく以上、それは仕方のないことだ」と言われることはわかっていますが、私たちが時計というものを所持することで、反対に「決められた時間割」によって所有されたかのような奇妙な状況に陥ってしまっている現状は、人類の歴史全体からいったら、本当にごくごく最近になって現れてきた「例外的な状況」なのだということは確かなことだと思います。「外から決められた時間に合わせて寝たり起きたりする」ということが自然とできるように、人間の身体はまだなっていない。これからさき、何万年もこういう生活が続いたら、「身体の自然」よりも「時計の必然」が優先されるように私たちの身体が順応していくのかもしれませんが、まだそこまで行っていません。

「起きたくないのに起きねばならない」というのは、今の人間の身体にとっては非常に不自然なことだ、ということは覚えていた方がいいと思います。というのも、「社会生活の必要上、起きねばならないので無理やり起きている」ということがはっきり自覚できている限りは、自分の身体の声に蓋をしないで済むからです。ここでもし「お前はこの時間に起きねばならない」という社会からの要請の声が大きくなりすぎると、「そっちの都合に合わせてこっちは無理して起きてるんだぞ」という身体からの抗議の声が聞こえなくなってしまう。こうなると、ますます私たちは自分の身体を通して感じることから遠ざかって行ってしまうことになります。

 

そういった事情があるので、睡眠については、食事よりも練習が難しいところがあります。

「寝る時間」は自分で選べても、「起きる時間」を自分で好きに選べる人ばかりではないからです。ただ、翌日が休みだったりして「起きる時間」も好きに選べるのであれば、事情の許す限り、「起きたくなるまで起きない」ということを試してみるのも一つです。「そうはいっても、あんまり寝過ぎるとかえって後でだるくなる」という人もいますが、その場合には「時間の問題」だけでなく「質の問題」が絡んでいると思います。つまり、「時間としては十分に寝ているはずなのに、寝た気がしない」というならば、「睡眠の質」が悪いのです。「では、なぜ質が悪いのか?」ということになると、今度は「考える」ということが必要になってきます。「自分が感じたこと」を元にして、自分なりに考えていくのです。

そうして考えた上で、色んな事を試しに変えてみます。たとえば、寝室の温度や湿度を変えてみたり、寝るときに着ているものを変えてみたり、寝る前にしていること(読書や運動)などを変えてみたり、寝る前に心配事や悩み事を布団の中で考えていないか点検してみたり…等々。できることは無数にあるので、それらについて一つ一つ自覚的に実験してみる。実際に色々変えてみた結果、起きたときの「だるさ」や「爽快感」がどのように増減するかを自分で感じてみるのです。そして、そういった「自分の感じ」に基づいて、不満があれば、次は何をどう変えてみるかを考えていきます。

 

こういった「考える作業」を行っていく際に、他人が考案した「睡眠の理論」が参考になることもあるかもしれません。でも、そういったものはあくまで「参考」にしかならないものです。「理論」でいくら「この時間にこれだけ寝るのが『正しい』」ということになっていても、その通り忠実にやってみてあまり「質の良い眠り」が訪れなかったように感じたなら、少なくとも、今のあなたにとってその理論は「正しくなかった」ということです。最終的に判断する基準はあくまでも「自分の感覚」であって、「他人の理論の整合性」によって自分の睡眠の出来・不出来を判定することは、身体からしたら無意味です。

たとえば、理論的にいくら「辛い」と言われていても、あなたが食べて「甘い」と感じたならば、少なくとも、「今のあなた」にとってそれは「甘い」のです。後になって、「あの時は甘いと思っていたけど、今は辛く感じるから、当時は舌がおかしかったんだな」と思う日が来たとしても、そう判断する理由は「今の自分には辛く感じられる」ということにあるのであって、「かつて理論的に辛いと証明されていたから」ではありません。この場合、「他人が語った整合性のある理論」と「現時点の自分の感じ」とが、「辛い」という点で今のところたまたま一致しているだけです。

ですから、もしも食事や睡眠の質を良くしていくことにあなたが関心があるならば、「自分の感覚」をとにかく大事にしてみてください。「他人(私を含む)が何を言ったか」は関係ありません。もちろん、「自分が感じたこと」が「間違っている」という場合も多々あります。でも、「ちゃんと自分で感じたこと」に基づいて犯した間違いならば、人間は二度と同じ過ちを繰り返さなくなるものです。

反対に、「他人が言ったこと」に従っていれば、確かに「間違い」は減るでしょうけれど、「自分はどのような間違いを犯しうるか」という自己知が全く深まりません。そして、「自分のこと」がわからなくなればなるほど、私たちは「他人の言ったこと」に依存するようになり、「自分以外の全て」に振り回されることになるのです。

 

話が長くなってきましたので、ここでいったん区切ります。

次回は、「自分で感じ、自分で考える」ということを私たちが実践していく際に、どのようにして「思考」が「感覚」を濁らせるか、また、どのようにして「自分の思考」が「他人の意見」によって歪められるかについて書いてみようと思います。

 

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