自分で感じ、自分で考える(後編)

前回からの続きです。

「自分で感じ、自分で考える」ということの実践上の「ヒント」と「注意点」について書いていたのでした。

 

感じることについては、まず「身近で簡単なところ」から始めるのがよいと思いましたので、食事と睡眠について、その質を自分で感じてみるということを私は書きました。

どういう食事を自分は美味しいと感じるのか、どういう睡眠を自分は心地よいと感じるのか、そういうことを丁寧に点検していって、「他人の理論」によってではなく、「自分の感覚」に基づいて食事と睡眠の質を向上させていく。家族と同居している方は、食事と睡眠についての自分の「感じる練習」に協力してもらうよう(せめて過剰に干渉してはこないように)家族の人たちを説得することが必要になるかもしれませんが、それができれば、自分にとっての自然な食事と睡眠がどのようなものであるかが、次第にわかるようになっていくと思います。

そして、そこを「ベース」にすることで、他のことについても「丁寧に自分で感じてその良し悪しを判断する」ということを徐々に実践していきます。

 

ただ、対人関係に関して実践していく場合には、注意が必要です。というのも、私たち日本人は「自分が感じていること」よりも「場が要請していること」のほうを敏感に感じ取りやすい特性を非常に強く持っているからです。

たとえば、誰かが自分に向かって微笑みかけてきたときに、私たちは反射的に微笑み返してしまうことが多いと思います。相手が微笑んでいることに対して自分が何を感じているかが無視されて、「微笑み返す」という反応をしてしまう。

「それの何が問題なのか?」と思う人もいるでしょうけれど、「習慣化した反応」を反射的に繰り返していると、感覚というものは次第に鈍磨してしまうものなのです。

 

たとえ表面的には同じように見える「微笑み」であっても、人によってその内実は千差万別です。内側では何も感じないままで単に儀礼的に微笑んでいる人もあれば、こちらに媚びを売るために微笑んでいる人もいる。場を取繕うために無理して「微笑みの表情」を作っている人もいるし、ただただ嬉しくて微笑んでいたところにこちらがたまたま居合わせたという場合もあるでしょう。こういうそれぞれの経緯と状況を全く無視して、「相手が微笑んでいたら反射的に微笑み返す」ということを続けていると、個々の微笑みが持っている「固有の質の違い」を識別する力が、徐々に減退していきます。言い換えれば、「目の前の相手が何を理由にして微笑んでいるのか」を理解する力がなくなっていくのです。

他にも、何を聞いても反射的に「なるほど」といって相槌を打ったり、すぐに愛想笑いをして話を繋ごうとする人がいますが、こういった態度を取る人は、基本的に「こちらの話を聞いていない」と判じて間違いありません。そういう人は、「丁寧に相手の話を聞く手間をできることなら省きたい」という欲求と、「なるべく場の雰囲気を険悪にしたくない」という付和雷同気質とによって、そのような「相手の話を聞き損ない続けるスタイル」を自力で作り上げたのです。そして、そのような「スタイル」を貫く限り、その人の「傾聴するスキル」が育つことがないということは、誰でもわかると思います。

 

私たち日本人は、「自分が感じている本音」を引っ込めて、「世間が要求してくる建前」を重視する傾向があります。相手が微笑みかけてきたときに、私たちがつい何の考えも無しに微笑み返してしまったり、相手の言っていることをまだ十分に理解できていないのに「わかっている振り」をしてしまったりするのも、「場の空気」がそういった「反応」を要請しているように私たち自身が感じるからです。

このような、「個人の考え」よりも「場の空気」が優先するという傾向は、たとえば武道の道場にも色濃く存在していて、合氣道でも「お互いに技がかかってもいないのにかかった振りをし合う」という「馴れ合氣」(馴れ合いと合氣を掛け合わせた造語です)が、いたるところで散見されます。しかも、初心の人の受けは満足に取らないのに、先輩や師範の受けだけは技がかかってなくても取るという人が、私の見るところ非常に多い。しかも、このような場合、「技がかかっていないのに受けを作っている」という自覚が本人にはほとんどないのです。

これは「微笑まれたので反射的に微笑み返す」という場合と同じで、「場の空気」が壊れないことを優先するあまり、「今ここでいったい何が起こっていて、自分はそれに対して何をすべきなのか」が考えられなくなっている状態と言えるでしょう(反対に、私はある先輩の技を受けたときに他の人たちのようには「かかった振り」をしなかったために、その人からまるで悪魔みたいに見られて、遠回りに「呪縛をかけられた」と言われたことがあります)。

そして、これが別に「道場での稽古」だけでおさまる話ならいいのですが、私たち日本人はこの「馴れ合氣」と全く同じ心性で戦争に突入した民族でもあるのです。日本人がかつて、「とても反対できる空気ではなかった」とか「世間のみんながそれを望んでいたから」とかいったような、「反射的に口をついて出る言い訳」によって、権力者の決定に反抗する可能性を自分から進んで放棄してしまい、「最も致命的な仕方」で戦争に踏み切った歴史を持っているということを、私たちは決して忘れないほうがいいと思います。

 

ちょっと愚痴っぽくなりましたが、今ここにおいて「自分の本音」を優先するべきなのか、「場の空気」を優先するべきなのかについては、その時々で個別に考える必要があるということを私は言いたいと思って書いています。いつもいつも「場の空気」を壊す必要はないし、かといって毎回「場の空気」を最優先にしないといけないわけでもない。

どっちを優先するのかは、他人に決めてもらうのではなく、その時その時に自分で決める。私たち日本人は、そういう「自立した在り方」を自分の中で意識的に育てていくのでなければ、容易に無謀で無残な戦いの中に突き進んでいってしまうほどに、たいへん「未熟な民族」なのです。

 

では、どうやって「自分で決める」ということができるようになるのか?

これが私が繰り返し繰り返し言っている、「自分で感じ、自分で考える」ということによってなのですが、その「感じる力」の高め方について、私は前回の記事でいくつか「ヒント」の提示を試みたのでした。そして、この「感じる力」が「こういう時にはこうしなければならない」といったような多くの思い込みによって、ずいぶん歪められているということも前回いくらか書きました。

私たちの頭の中は外から吹き込まれた「他人の意見」でいっぱいになっており、これが私たちの「感じる力」を厚い雲のように覆ってしまっている。「自分が感じていること」に耳を澄ませようとしても、「他人の意見」がすぐ介入してきて、「自分の感じ」を否定してしまいます。まるで親が子どもにお説教をするときのような口調で、「あなたはそう感じるとしても、こういう場合だってあるじゃないか」とか、「そんなことは世間の常識から外れている」とかいった声が頭の中で絶え間なく鳴り響いており、私たちは自分の感覚に耳を澄ませている間中、一時も頭を休ませることができません。

 

こういった「他人の意見」によって作り出された「偽りの思考」の渦は、瞑想法などを実践して、静かにジッと坐っているとはっきり現れてきます。身体の動きを止めてしまって、あらゆる誤魔化しを自分に対して禁止してしまうと、いつもは忙しく身体を動かし続けているために見えない「思考の流れ」がはっきり現れ出てくるのです。

このような私たちの絶え間ない思考の渦巻きは、古くから「モンキー・マインド」と呼ばれてきたようです。「猿のように跳び回り続けて休むことがない」というその特性が呼び名の由来です。実際、私たちはほんの五分だけでもジッと動かないで坐っていると、自分の思考が絶え間なくあっちこっちに走り回ることに気づきます。

また、私は「跳び回り続ける」ということの他に、さらにここに「猿知恵」という性質を付け加えたいと思っています。というのも、動かずにジッと坐っていると、私たちは「こんなことをして何になるのだろうか?」とか「もっと楽して上達する手段がこの世のどこかにはあるんじゃないか?」とかいった「実利的なこと」ばかり考え出すからです。私は別に「実利的なこと」を考えることが「悪い」と言うつもりはありません。「そういうことを考えることが役立つ場合」も当然あります。ただ、そうやって「実利的なこと」を考えるあまり、「ここではないどこか」や「今ではないいつか」に気持ちが彷徨い出すと、本来であればジッと坐っていることによって熟成していくはずの静寂と明晰さとが、いつまで経っても析出してこなくなるという事実を指摘しておきたいのです。つまり、「どうしたらもっと楽して得ができるだろうか?」といった「猿知恵」を働かせることによって、その人はせっかく現に自分が行っている瞑想の行を、まるごと無駄にしてしまっているということです。

 

私たちの「思考」は、自分で思っているほどに「自分のもの」になっていません。私たちはあまりにも「他人の意見」に考えを左右されてしまっていて、自分が「他人が言ったことをそのままオウム返しにしているだけ」であることにしばしば気づきません。自分で自発的に考えているように思えて、実は「他人の意見」に従って考えることを強いられている。外から与えられた仕方に則って、考えさせられている。

世の中には「結局のところ、『自分の意見』というようなものはどこにも存在しなくて、人間にできることは『他人の意見』を受け売りすることだけだ」と思っている人もいますけれど、私はそうは思いません。「自分で感じ、自分で考える」という在り方を徹底して誠実に続けて行くならば、ある程度の期間はかかりますが、必ず人は「自分の意見」を持てるようになります。

こういうことをはっきり言う人が今の世の中にはあまりいないように見受けられるので、これについては、私は特に声を大にして言いたい。「他人の意見」にいつまでも寄り掛かっていないと生きられないほどに、人間は決して弱くはない、と。

 

しかし、「自分の意見」を持つに至るまでの道程は、時として険しい物でもあります。「自分の思考だ」と思っているものを、一個一個丁寧に洗い直して、本当に自分は「それ」について自分で感じ、自分で考えたことがあるのかどうかを問うていく必要があるからです。そして、その過程で、「場の空気に適応した振る舞い」を一回止めてみるということが必要になる場合もあります。

たとえば、上で書いた例で言うと、「いつも反射的に微笑み返してしまう」とするならば、その「反応」にいったん待ったを掛けて、「微笑み返すときに自分はいったい何を感じているのか」を丁寧に見つめる時期をある程度作らないと、「自分の感じ」にしっかり潜っていけないという事情がある。

また、そのような過程を経る中で、「反射的に微笑み返す」という身振りをひたすら繰り返すことによって、自分がこれまでいったい何を守ろうとしていたのかも、徐々に明らかになっていくでしょう。それはつまり、「自分が何を優先して生きてきたのか」ということに対する理解が深まっていくということです。

このような理解は大きな力となり、当人のことを支えてくれます。というのも、「自分が得たいと望み続けていたもの」が何であったかを一度自分で理解できれば、「それ」をこれからも求め続けるのか、あるいは「それ」はもう捨てて、「別な動機」で生き始めるのかを、その人は自分自身で力強く決意して選ぶことができるようになっていくはずだからです。

もちろん、その代償として、周囲からは「あの人は最近どうも変だ」と思われたり、「場の空気を読まない迷惑なヤツ」と思われることもあるでしょうけれど、どちらを取るかはその人の自由です。「自分で感じ、自分で考える生き方を確立する」か、「他人が望み、世間が要請する生き方に自分を合わせ続ける」か、どちらかです。

もちろん、周囲との軋轢をなるべく生まないような進め方もあります。その一つが、「食事と睡眠の質を感じることから始める」という、前回の記事で私が提案したアプローチなのです。

 

そして、そういった「感じる練習」と並行して、自分の中で絶えず跳び回っている「モンキー・マインド」にも光を当てて、それらの無数の思考について、どれだけ自分自身で感じたり考えたりしたことがあるかを個別に見ていきます。そうして丁寧に見ていくと、自分では「知っている」と思っていたことを実はよく知らなかったり、「わかっている」と思っていることをよくわかっていなかったりすることがわかってきます。それについても正直に認めてしまう。知らないものは知らないのだし、わからないものはわからないのです。それについて偽っていると、自分が何のために何をしているのかも明晰に思考することができなくなっていきます。というのも、「嘘」を強化することを優先すると、人は目の前の現象をそのまま見ないで、「自分のついている嘘」を傷つけないように、必ず「事実」を歪めて認知するからです。

だから、知らないことについてははっきり「知らない」と認め、わからないことについては「わからない」と公表することが、明晰に思考するための近道です。明晰に考えるために思考力を鍛える必要は、実はそれほどありません。もともと「思考する力」は人間に内在しているものですから、きちんと考えるためには、「考える力」が働くのを邪魔しているものを一個ずつ取り除けばいいだけです。

そうして、「知らない」と認め、「わからない」と気づく中で、それでも「知りたい」と思うことについては自分で調べてみたらいいし、「わかりたい」と思うことについてはじっくり時間を掛けて考えていけばいいと思います。

そして、いったい自分は何を知るべきで、何を理解したいと望んでいるのかも、やがては感覚が指し示してくれるようになります。出会うべき本には出会うべき時に出会うものですし、師もまた同じです。本も師も、「知」を探し求めるその人自身が「自分の感覚」に深く潜っていくことによって、結果的に導かれるように出会うようになっているからです。

その理由について、私には論理的に説明する術がありませんけれど、経験的には確かにそうなのです。

 

私は今日、「自分で感じ、自分で考える」という在り方を育てていくために、どうやって「感じる力」を高めるかについて、また、いかにして「感じる力」を歪める「他人の思考」から自由になるかについて、いくつかの「ヒント」を書きました。

どうしても「他人の意見」に振り回されてしまう人、「他人の顔色を窺うこと」が人生の最優先事項のようになってしまって苦しんでいる人にとって、いくらかでも参考になる部分があれば幸いです。

 

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