「私」を掴んで「私」を去る

私はこれまでに「自分自身になること」の重要性を何度も書いてきました。

他人の意見に寄り掛からず、人の顔色窺いばかりするのをやめ、自分で感じ、自分で考える。そのような「自立した在り方」を確立するための道筋について書き、その途中で多くの人が陥りがちな落とし穴について書きました。

ですが、「自立した在り方の確立」は、決して「ゴール」ではありません。むしろ、全てを始めるための前提となる「足場」なのです。

 

そもそも「自分自身であること」は、生まれたばかりの頃だったら誰でもできていたことです。

そこには他人からより多くのものを得るための駆け引きもなく、他人から容易に奪われたり傷つけられたりしないように策略を巡らせる必要もなかった。他人から気に入られるための「偽りの仮面」をまだ持っていなかったし、他人を騙して自己利益を増やすための「嘘」もまだ語れなかった。私たちはみんな「そのまんま」だった。

でも、遅かれ早かれ赤ん坊は「政治」を体得します。どうすれば大人達がもっと喜ぶか、どうしたらもっと手厚く保護してもらえるか、赤ん坊は学びます。そうして、全てが「偽り」になる。「自分がしたいこと」よりも、「自分がそれをしたら他人が喜びそうなこと」を優先するようになり、行為そのものの中に喜びや充実感を得ることよりも、何かをして他人から褒めてもらうことを優先するようになる。

 

私はこれまでに、まだ2歳か3歳くらいの小さい子どもが、周りの大人達によって「狡猾な政治家」にされる様子を何度か目撃したことがあります。たとえば、子どもが手に持ったゴミを(大人の目から見てゴミだと思えるものを)ゴミ箱に入れると、周りの大人達はそれを見て非常に大げさにその子を褒めることがあります。「よくできたわね!」「こんな年でちゃんと自分でゴミを捨てられるなんて、えらいぞ!」と言った具合に。

でも、そうやって褒めちぎる大人達は、いったいどこまでわかっていたでしょうか?その子が、自分自身では何のために何をしているのか全然わかっていなかったということを。

子どもの側は、たまたまある大人の振る舞いを真似してみただけだったのかもしれないし、誰か保護者にあたる人から「このようにするように」と繰り返し命令されたのかもしれない。いずれにしても、それが「えらいこと」で「すごいこと」だなどと、子どもの側は最初は全く思いもしなかったはずです。

でも、一度それをして褒められると、子どもは大きな満足感を覚えます。というのも、褒められている間は、人々の注意が子ども自身に集まるからです。

人間の子どもは非常に無力な状態で生まれてきて、少なくとも十年以上にわたって年長者による保護を必要とします。それゆえ、「自分より力のある者」の注意を集めることができないと、生きていくことができません。つまり、彼ら無力な子ども達にとって、大人の注意を集めることはそのまま「生き延びる術」でもあるのです。

 

子どもの目には「ゴミ」と「ゴミで無いもの」とを区別することがまだできないかもしれません。大人が「これはゴミだ」と言うので、「そうか、これはゴミなのか」と思ったとしても、それを「宝物」のように大事に感じる子もどこかにいるかもしれない。でも、大人の側は「これはゴミであり、捨てないといけない」という自分の価値観を押しつけて、子どもに捨てるよう命令します。そして、その命令に従うと子どもを褒める。

こうして、「褒めてもらうこと」を目的にしてゴミを捨てる子どもが出来上がります。彼らは他人が見ていないと自主的にはゴミを捨てないし(見ていないところで捨てても誰も注目してくれないから)、場合によっては一度捨てたゴミをもう一度取り出してまた捨てたりとか、不必要にゴミを作り出しては捨てるということを繰り返したりもします。こうなってしまうと、「ゴミを捨てる目的」は、「場を清浄に保つ」とか「他の人が怪我をしたり不快な想いをしたりしないようにする」とかいったことにはなくなります。彼らにとって、「ゴミを捨てる」という行為は、自分に注意を集めるための「取引道具」に過ぎません。だから、思うように注目が集まらないと、彼らの身振りはだんだん大仰になり、他人に見せるためのこれ見よがしなパフォーマンスとしての性質を帯び始めます。

ここまで来ると、大人の側もいちいち褒めるのが煩わしく感じられて、子どものやっていることを無視するようになることが多いのですが、こうなると子どもは自分に注意が集まらないものだから、「きっと自分のアピールが足りないんだ」と勘違いして、よりいっそう「とんちんかんなゴミ捨て行為」を発明し始めます。それでも自分に注意が集まらないと、今度はすねて泣き出します。

大人の側は、どうして急に泣き出したのかがわからないので困惑しますが、その根っこを育てた原因は大人にあります。大人の側が望む仕方でゴミを捨てたときにしか子どもに注意を向けず、子ども自身が本当に注意を欲して懸命に努力と工夫をしていたときに、その振る舞いを無視したからです。

 

一度このような「政治的取引」のメカニズムが根付いてしまうと、それは何十年も残存することがあります。三十代や四十代、場合によっては五十代や六十代になっても、自分に注目を集めることを主目的にして、何らかの行為を手段として使う癖が残ってしまう。

たとえば、ボランティア活動をしている人や、芸術的な仕事をしている人の中に、そういったタイプの人を見かけることがたまにあります。本来であれば、ボランティア活動は「困っている誰かを手助けすること」が目的となるはずであり、芸術活動は「作品を通して自分という人間を表現すること」が目的となるはずですが、「幼児の頃の癖」が残っている人はそういった活動を、「自分の満たされなさを埋めるための手段」として利用しようとします。そういう人がボランティア活動に従事すると、実際にそれほど困っていない人のところまでおしかけ、要らぬお節介を焼いて迷惑がられることがあるし、芸術的な表現をする場合には、自分が苦労して習得した技巧を強調することばかりに腐心し、それによって観衆からの敬意と賛辞をねだってはうっとおしがられたりします。

このように、「他人からの関心を集めること」を目的にしている限り、その人が何をしてもそれは「偽物の行為」になります。「本人の動機」が変わらない限り、善行をしても「偽善」になるし、たとえどれだけ施しをしても、それは「愛」ではなくて「政治」になる。

 

私たちは「偽り」でいっぱいです。しかし、この「偽り」が、私たちを社会に繋ぎ止め、仲間達との親密な関係を保つことを助けてくれてもいます。私たちはお互いにお互いの「偽り」を強化し合っている。

というのも、「偽り」というものは生まれてから後に人為的にくっつけられたものなので、日々意識して強めていないと徐々に蒸発して消えてしまうからです。

「ありのままの自分自身であること」には特に努力が要りません。社会や世間で「異邦人」のように見られる可能性がありますが、「それでも構わない」という勇気が持てるのであれば、「自分自身であること」に努力は必要ない。

でも、「偽りの自分であること」には不断の努力が必要になります。私達はいつも、「実際には自分が感じていないこと」をあたかも深く我が身で感じているかのように演じねばならず、「自分では納得もしていないし、じっくり考えたこともない意見」について同意しているかのような振りをします。そういうことを毎日毎日繰り返し続けないと、「嘘」というものは保持することができない。一度立ち止まって「自分自身」を見つめると、「嘘」はどんどん蒸発して消滅していってしまう。

 

多くの人々が瞑想の実践中に不安感や恐怖を抱くのも、同じ理由からです。

瞑想は、その人を「自分自身」と直面させます。すると、徐々に自分の表面を覆っていた「偽り」が落ちていって、「真実」が現れる。ですが、きちんとした準備がまだできていないと、人は「真実」に耐えることができません。「嘘偽りを落とす」ということは、「もう一度生まれたときの真っ裸に戻る」ということです。来る日も来る日も「嘘」という衣服によって着飾ることをしてきた人は、「裸になること」に恐怖を覚えます。

そんなことをしたら、自分はあらゆるものから切り離されてしまう。社会からも、仲間達からも切り離されて、独りぼっちになってしまう。そんな風に思うので、瞑想中に深く自己へと潜っていくと、まだ初心の頃の瞑想者は強い恐怖と不安を感じるのです。

「裸の人間」を、社会も組織も基本的には許容しません。ですから、「裸になること」「生まれたときに持っていた嘘偽りのない顔を取り戻すこと」は、どうしても「独りぼっちになること」を結果としてもたらすことになりがちです。それは物理的な意味で「他の人たちとの交わりが途切れる」ということでもあるし、また、「他の人たちの生き方を、理解はできるが共感できない」という心理的な孤独感が当人の中で深まっていく経験でもあります。

 

成熟した人間の大人だけが、この時、選択することができます。

これからも「嘘」を肥えさせて自分を騙しながら生きていくのか、それとも、「嘘」を溶かして「真実」に生きるのか、人間の大人だけが選ぶことができる。

動物と人間の赤ん坊には、選択の余地がありません。彼らは「自然」で「ありのまま」ですが、それを彼らは自分で意志して選んだわけではないからです。

それゆえ、彼らの生きる姿はたしかに美しくはありますが、その在り方がより高まって輝いたり、より深まって強くなったりはしない。

特に、人間の赤ん坊の「自然さ」というものは、上でも書きましたように、大人の側の「教育」によっていとも簡単に曇らされてしまいます。赤ん坊にはまだ、「自分自身」を自力で選び取るだけの準備ができていないからです。

 

「自分自身」を己の意志で選び取った人というのは、実に強いものです。

彼/彼女は誰の奴隷にもならないし、誰のことも奴隷にしようとはしない。

「嘘」や「偽り」を使って他人をコントロールする術に熟達した人の権謀術数をもってしても、このような人は支配できない。そういう人に対しては、褒めても貶しても、泣いても怒っても効果がありません。むしろ、支配しようとすればするほど、相手を支配しようとして躍起になっている当人は、己の無力さを感じて腹が立ってくるものです。

そういう事情もあって、「自分自身」を己の意志で選び取った人というのは、だいたいにおいて迫害されます。こういった人は「政治的な取引」によって操作することができないので、「他人を操作することに関心がある人々」の手によって、暴力的に、物理的に排除されるのです。

そして、そうなることがなんとなく予想できるので、ほとんどの人は「『嘘』か『真実』か」という選択肢を前にして、「あと一歩」というところまでいっていながら、「自分自身」に背を向けて、「嘘偽り」のほうへと戻っていってしまうことになる。

 

私は、こういう状況をできたら変えたいです。

「自分自身であること」によってその人が迫害されるということが世の中からもっと減れば、きっとより多くの人々が「嘘」を捨てる勇気を容易に持てると思うからです。

しかし、今のところ、まだ私たちの住むこの世界は「嘘」のほうが優勢です。人はいつも「ここではないどこか」に駆り立てられていて、「ありのままの自分にくつろぐこと」は無駄なことであり、悪徳であるとさえ思い込まされています。

「今ここの自分」を否定し、誰もが「あるべき理想」へ向かって努力し続けなければならない。「今の自分のまま」に留まることは精神的な堕落とされ、「そのような状態に甘んじる人間は生きているに値しない」とまで考える人もいます。

でも、そのように主張する人は、あらゆる「理想」を捨てて、人が「ありのままの自分」に心底留まったとき何が起こるか知らないのでしょう。

もはや「行くべき場所」がなくなり、「達成するべき課題」が全て消え去ったとき、その人は有り余るほどのエネルギーが自分の中で沸き立つのを発見して驚愕します。これまでの人生で、他人の顔色を窺って「あれをしなければ」「これができなければ」と躍起になっていたことで、どれだけの生命力を自分が無駄にしてきたかが、そのとき初めてわかる。

 

私たちには既に十分すぎるほどの「宝の山」が与えられています。しかし、私たちは幼い頃、大人から保護してもらう代償として、それをすっかり売り払ってしまったのです。

でも、「売り払った」とは言っても、それは決してなくなったわけじゃない。もし完全になくなったのであるならば、とっくにその人は死んでいるはずだからです。

生きている人は全て、「生きるエネルギー」の塊です。そして、そのエネルギーは「非常に大きなもの」と交流して、瞬間瞬間活動しています。その「大きな何か」を宇宙と言ってもいいし、天地と言ってもよし。神でも仏でも同じことです。

とにかく、本当の意味で「無力な人間」なんていやしません。この世にいるのは、「自分がこの世界に持ってきた力を忘れてしまっている人」と「自分自身を思い出した人」の二種類だけです。

 

「自分がこの世界に持ってきた唯一のもの」を思い出した人は、初めて心から自発的に「自分のこと」をし始めます。それはもはや他人から気に入られるためにするのではないし、世俗的な成功や金銭的な利益を目的にするわけでもありません。結果的に成功したりお金が儲かったりする人もたまにはいるでしょうけれど、それはただ、そのときの時代の流れが当人が従事している「天命」と偶然一致したからに過ぎません。

 

ここで私はどうしても「天命」という言葉を使いたくなります。

というのも、そこには「私が何かをする」という意図や計らいが無いからです。

私はこの記事の最初に、「自分自身を確立すること」は決して「ゴール」ではないと書きました。むしろそれは、全てを始めるための「足場」となるのだと。

 

もう一度話を整理してみましょう。

人は生まれたときには「選択の余地なく自然」ですが、それは自分で意志して選び取ったものではないがゆえの「弱さ」を内に持っており、大人達の「教育」によって否応なく一度は破壊されます。

その後、生きていく過程で自分の表面に「嘘」や「偽り」が降り積もっていき、人は自分自身を見失っていきます。このような状態であれば、たとえ何をしたとしても、全ては「偽り」となる。

やがて、一部の人々は自分を覆う「嘘」と「偽り」によって息が詰まり、耐えられなくなります。内省的な力や豊かな感受性を持っている人は特にそうなりやすい。

そして、ここで選択肢が現れる。これからも「嘘」をつき続けるのか、もう一度「真実」を見出すのか、人は選択を迫られる。

かつて、赤ん坊だったときは選択の余地がありませんでした。まだ十分な準備ができておらず、無力だったからです。しかし、今や大人になっており、肉体的にも精神的にも自立する準備ができています。だから、今度は自分で選ぶことができる。

どちらを選んでも「得るもの」と「失うもの」があります。「嘘」を選べば社会や隣人達によって手厚く保護してもらえるし、「真実の自分と向き合う」という骨の折れる作業を先延ばしにできます(とはいえ、そうやって先延ばしにできるのは「自身の死が訪れる間際」までですが)。

反対に、「真実」を選ぶと実にたくさんのものを失いますが、得るものはたった一つだけです。ですが、それは多くのものを捨ててでも得る価値のあるものだと私は思います。

そのたった一つのものが「自分自身」です。ここに至って初めて、私たちは「何かのために行為する」のではなく、「行為のために行為する」ということが可能になります。行為を「何かを得るための手段」に貶めることなく、「ただ純粋に行為する」ということができるようになる。

つまり、「自分自身になって、それでおしまい」なのではなくて、むしろ、そこでようやく全てが本当に「始まる」のです。

 

「自分自身」になって行為そのものに没入するようになると、次第に「私」という意識は消えていきます。不思議なもので、「自分」というものは一度しっかりと掴むと自然と消えていくようにできています。反対に、いまだ「自分」というものが掴めていないと、「私」という意識は決して消え去りません。それは心の深い闇の中に抑圧されて、歪んだ形で生き残り続けます。

まだ「自分」を掴んでいない人は、「他人に振り回され続ける」という仕方で「私」がありません。また、はっきりと「自分」を掴んだ人もやがては「私」を去っていきますが、そこには決定的な「質的違い」があるのです。

「自分がないがゆえに他人に支配される状態」を「低次の無私」、「自分がないがゆえに誰からも支配されない状態」を「高次の無私」と呼ぶとするならば、「自分自身を確立すること」は「低次の無私」から「高次の無私」へと至るための必須のプロセスであると言えます。

そして、もし本当に愛や平和をこの世に実現できるとしたら、自己保身や自己利益のために内側で策略を巡らせ続ける「低次の無私」を離れ去って、溢れ出す自身の活力を惜しみなく他者に分かち与えることのできる「高次の無私」を、私たち人類が達成したときだろうと思います。

もちろん、それは簡単な道のりではないでしょうけれど、不可能ではないと信じています。

ひょっとしたら、実現するまでにこれから何千年もかかってしまうかもしれないですけれど、もうこれまでだって何千年もかかっているのだし、多少時間がかかっても仕方がないと私は思います。

 

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