伝えたいこと

今日は午前中に「呼吸と瞑想のクラス」、午後に「ワークショップ」と、2連チャンの日でした。

呼吸と瞑想のクラスでは、初めて参加される方がおられたので、なるべくその方の話を聞きながら、その場で私があれこれとワークを考えて、やってもらいました。

午後のワークショップでは、参加者は全員、私が前から知っている方だけだったのですが、ここでも、「最近気になっていること」とか「疑問に思っていること」、「自分の課題」などについて参加者に質問して、対話の中から思いついたワークをやりました。

こういった即興的な仕方でワークを提供するのは、以前だったらできなかったと思うのですが、つい最近になって自然とできるようになりました。おそらく、ワークを提供する私の側の目的意識が変わったからだと思います。

 

以前、私は「自分を守ること」をずいぶん熱心に考えていました。

「どうすれば生徒の前で失敗しないで済むだろうか」とか、「どうしたら面目を失わずに、ある程度の尊敬を得ることができるだろうか」とかいったことを、程度の差はあれ、いつも考えていた部分があります。お金と時間を使ってやってくる生徒の側からしたら、「こういう教師」の存在は迷惑なものです。表向きは生徒のためを思ってワークを提供しているように見えて、実際には、生徒のことを「自分の自尊感情を立ちゆかせるためのつっかえ棒」みたいに考えているわけですから。

そういう在り方が、私は前々から自分自身でイヤでした。私の在り方は「嘘」を基盤に成り立っており、「表面的な振る舞い」と「深層にある欲求」とが食い違っていた。私はいつも分裂していたのです。

 

こうしたわけで、口で言って「説明している内容」と、ワークを提供する私の「仕方」とはいつも矛盾しており、教えれば教えるほど、私は自分の中に空虚さと疚しさとを感じました。

たとえばそれは、「怒ってはならない」という教えをいつも感情的に激して怒鳴りながら伝える教師の姿に似ています。こういった教師は、「言っていること」と「やっていること」とが違うわけです。ナイーヴな生徒は「言っていること」のほうを信じてしまうことがありますが、少しでも洞察力と批判的な精神がある人は、「やっていること」のほうを見るものです。そして、ほとんどの人は、「この人にとっての『本当に言いたいこと』は、『言っていること』の中にはなく、『やっていること』の中に表現されている」と実に的確に見抜くだろうと思われます。

 

教室を開いて間もない頃、私にとって本当に言いたかったことは「どうか、私をこれ以上傷つけないで欲しい」ということでした。もちろん、それだけが言いたいことではなかったのですが(そうだったらきっと誰も習いになんか来なかったでしょう)、この声、「傷つけないで!」という叫びが、私の中で小さくなることはありませんでした。

それから五年ほど経って、現在の私はいくらか「自分を守ること」に対する関心を失いました。このことが私にとってどれほど大きな救いとなったかわかりません。たしかに前よりも攻撃されやすくなったし、実際、直接・間接を問わずいくらか攻撃もされました。でも、私は私の伝えたいことを伝える、他人は(もしその欲求があれば)私を攻撃する、そのどちらも「自分の自由」を行使しているのだから、それでイーブンだと思うようになった。言い換えれば、私は「自分が伝えたいこと」を引っ込めることを代償に、「他人からの保護」をねだることはもう止めようと思ったのです。

一度こうなってみると、あとはたいへん楽です。というのも、もう自分を守るためにエネルギーを使わなくてよくなるからです。ただ「自分が伝えたいこと」を、力一杯伝えたらよいだけです。

 

今の私には、「伝えたいこと」がたった一つしかありません。そして、それさえ伝われば、別に馬鹿にされても軽蔑されても構わないと思っています。

というのも、「私が伝えたいこと」が伝わったら、そのあと、それについてどう思うかは、完全に受取手の自由だからです。「私が伝えたいこと」がちゃんと伝わって、その上で「そんなのくだらない」と思うなら、それは一つの見識だし、「それは実に素晴らしい」と思ったら、それも一つの意見です。私が伝えたことをきちんと受け取って、当人が自分なりに考えて出した結論であるなら、どっちも等しく価値があると私は思います。ただ、私が伝えたいと思っていることをちゃんと受け取らないうちから、反射的に否定したり賞賛したりするとしたら、賛否どちらの意見にも私は等しく価値を認めません。言い方を換えれば、そういうものは、はなから真面目に相手をしません。

 

結局のところ、今の私が言いたいことは「このこと」だけなのです。

つまり、「私は一個の人間であり、あなたもまたそうであるはずだ」ということです。

あなたも私も、自分の感情を持ち、自分の感覚器官を通じて感じ、自分で考える頭を与えられ、これまでの人生を自分自身で生きてきた、一個の独立した人間である、ということ。私が言いたいのは「このこと」だけです。

だから、「そんなのお前に言われるまでもないよ」と思っている人は、たぶん私のところになんかいちいち来ないと思います。でも、「そんなこと今まであんまり言われたことがない」と思う人は、なんとなく私のところに来るんじゃないかという気が私自身はしています(まあ、それこそ「どういう動機」で来るかは各自の自由であり、私個人の理解なんかはるかに超えているわけですが)。

 

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