瞑想について

先週の土曜日、8月12日に「呼吸と瞑想のクラス」と「ワークショップ」を開催したのですが、どちらも最後は瞑想をして終わりました。

瞑想といっても、別にそんなに大げさなものではなく、「目を閉じて五分間坐り、自分に起こることをただ観察する」というだけのものです。

参加者の方の中には、「なぜこの流れで、こんなことをするのか」がよく理解できなかった人もいるかもしれません。困惑した人もいるでしょうし、退屈した人もいるかもしれない。

しかし、実のところ、その困惑や退屈こそが重要なのです。瞑想について、実践している途中にも言ったのですが、「起こること」は全て必然性があって起こっています。困惑した人は困惑するだけの必然性があったから困惑したのだし、退屈した人は「退屈だ」と感じる理由があったから退屈したのです。

ですから、「困惑」も「退屈」も、どちらも「招待状をもらってやってきたお客さん」みたいなものです。しかし、「困惑」や「退屈」にかぎらず、私たちは「怒り」や「憎しみ」や「悲しみ」などといった「あまり歓迎できない感情や感覚」に囚われると、「実に『迷惑な敵』が自分の内側に忍び込んだものだ」とついつい思ってしまいがちです。「『こいつ』さえいなくなれば、自分はもっと楽に幸福でいられるのに」という風に思う。

でも、実際には「彼ら」を招いたのは私たち自身なのです。私たちの内側には、そういった「できれば来て欲しくない客」を呼び寄せる原因があるのですが、このことに多くの人は気づいていないので、「原因は外側にある」と思ってしまいます。

 

たとえば、誰かから突然侮辱されて「怒り」を感じた場合、自分を侮辱した外側の誰かが「怒りを作り出した原因」であると、だいたいの人は推論します。そして、その「怒り」を、自分を侮辱した相手に対して向けることを「正当なこと」だと考え始める。

でも、本当に「怒りの原因」は相手にあったのでしょうか?

というのも、たとえどれほど侮辱されたとしても、全ての人が必ずそれによって怒るわけではないからです。

もちろん、「怒りのきっかけ」は相手の言動に在ったのかもしれません。でも、「きっかけ」と「原因」は別のものです。よく言われるたとえですが、コップの中の水が溢れた「きっかけ」は「最後に注がれた一滴」でしょうけれど、その「原因」は「コップの中になみなみと水が既に注がれていたこと」のほうです。コップの中にそもそも水が入っていなかったら、多少水を注いだところで、決してすぐに溢れたりはしないものです。

 

私たちには「自分の中にこそ『本当の原因』がある」とはなかなか思えないものです。

しかし、もし私たちが「自分の怒りの原因」を外側に探し出すと、復讐するか我慢するか以外に道がなくなってしまいます。そして、復讐するとだいたいにおいてさらに「感情の連鎖」を作り出してしまい、自分の中により多くの「毒」を抱えることになりがちです。そして、その「毒」の原因をまた外側に求めるということをし出すと、その先には、当人にとっても他人にとっても、「悲惨な結果」が待っています。

そういったことを避けようとして、ほとんどの人はよほど「コップの中の水」が満杯でもない限り、我慢をします。「自分の怒り」が内側でたとえ燃えさかっていても、それを表現しないようにするのです。もしかしたら、表面上その人は微笑んでいるかもしれません。しかし、実際には内側で「怒り」が今にも爆発しそうになっており、表面の微笑は「偽り」にすぎない。

そして、もし「怒り」が表現されることを私たちが許さないままでいると、言い換えれば、我慢に我慢を重ねていくと、内側の「怒り」はどんどん育っていきます。こうなると、次第に自分の中で大きくなっていく「怒り」のエネルギーが暴発しないように、絶えず意志によるコントロールが必要になります。そして、「ひょっとしたら自分は何かの拍子に怒りに乗っ取られて、誰かを殺傷するかもしれない」という漠然とした「恐れ」が根付き始める。

もしここで当人がこの「恐れ」にまで蓋をしようとすれば、「怒り」や「恐れ」が自分の目から見えなくなるまで「嘘の化粧」を上塗りするしか、もう手がありません。こうして、「真実の姿」は「怒りと恐怖の塊」であるのに、表面的には「社交的な人間」が生まれてくることになる。

 

私たちは「自分の内側」を見ないで、「外側」ばかり見ています。特に現代人は、今までのどの時代の人にも増して、そういう傾向が強いと思います。

世の中の多くの大人達はこんな風に思っています。

「自分の内側」なんか見ても何にもならない。「本当の自分」なんてものはどこにも存在しない。そんな曖昧なものを求めていつまでも考え事なんか続けているヤツは、「働きたくない怠け者」か「生きるのが恐い臆病者」だけだ、と。

でも、本当に怠惰で臆病なのは、一度も「自分の内側」を真剣に見たことがない人のほうだと私は思います。なぜなら、「自分の内側」を正直にのぞき込むことほど、骨が折れ、勇気を必要とすることはないからです。

 

私たちの内側にはありとあらゆる「地獄」が詰まっています。怒り、憎しみ、恐れ、悲しみ、妬み、虚栄心、支配欲や権力欲など、およそ子どもの頃から「そんなことを考えてはダメです」と言われ続けてきたものが満載です。

何故かと言えば、子どもの頃から「そういうものが内側にあるのはいけないことだ」と誰もが言われ続けてきたからです。そう言われたって、在るものは在るのだから、子どもにはそれをなくしてしまうことなんてできません。できるのは、「表面的には無いかのように偽ること」だけです。そして、それによって大人は「よい教育ができた」と満足して、子どもを褒める。でも、こういったことを続けていくかぎり、私たちの内側では、表現されることを求める「否定された感情達」の叫び声が徐々に大きくなっていくばかりです。

そして、「自分の内側」にあるものを否定している限り、決してそれを理解することはできません。怒りも恐れも悲しみも、全て私たちが蔵しているエネルギーの「一つの形」です。それについて自分で理解できないということは、当の自分自身を生かしめている「動力」について何もわからないままに生きねばならないということです。

そして、もし私たちが「自分を生かしている力」について理解できないと、私たちはそれらのエネルギーに「使われる」ばかりで、自発的にエネルギーを「使う」ということができるようにはならないのです。

 

たとえば怒りを感じたとき、子どもには、それを全身全霊で表現するか、大人の要求に従って我慢するかという二つしか選択肢がありません。しかし、成熟した大人には第三の選択肢があります。

それが、「観察する」ということです。

「怒り」を感じたとき、それに巻き込まれて「使われる」のでもなく、怒りを感じなくて済むよう抑圧するのでもなく、怒りを我が身できちんと感じながら、同時にそれを理解しようと試みること。このような態度によって行われるのが、私の言う「観察」です。

ですから、「観察」を行う際には「何者も敵視しない」という心構えがまず必要になります。というのも、「敵だ」と思っているものについては、私たちは「そもそもまともに見ない」か「対象を自分が見たいと思うように歪めて見る」か、どちらかの態度しか取れないからです。

きちんと理解するためには、「ありのままの姿」を見る必要があり、「ありのままの姿」を見るためには、私たちは「敵対的な意識」を落とす必要がある。

「自分の内側に渦巻いているエネルギー」を理解しようと思ったら、たとえそれがどのような「表現形式」を取ろうとも、決して罪悪視しないことが肝要です。なぜなら、それらは全て「当人を生かしているエネルギー」が、「何かしらの形」を取ったものだからです。もしその「形」が気に入らないからと言って拒否してしまうと、その人は自分自身の「命」を間接的に否定することになってしまいます。

 

「内側で生起するもの」を敵視して抑圧したりせず、同時に、身体を動かしてそれを「外側の世界」において表現することもしないようにすること。

これこそが、私の言う「瞑想」です。このようにして初めて、自分の内側に存在している怒り、恐れ、貪欲などにきちんと光が当てられ、理解されます。それらが自分をこれまでどれほど損ない傷つけてきたか、また、それらによって「使われてしまうこと」を今まで自分がどうやって自分に対して正当化してきたかが、理解できるようになる。

このとき人は、それまで怒りという形で表現されていたエネルギーを、「別な仕方」でも使うことができるようになります。もともとエネルギーそのものには「善い」も「悪い」もありません。「使う仕方」が人によって違うだけです。

誰もが「生きるエネルギーの塊」です。それを持っていない人はいません。ただ、自分の持っているエネルギーについて理解できないがために、いつもエネルギーに使われてしまう人と、自分の命が蔵している可能性を知って、それを自発的に使うことのできる人とがいるだけなのです。

 

「自分の内側」で生起するものは、全て必然性があって生まれてきています。「好ましいもの」であれ、「好ましくないもの」であれ、それらが生まれてくるのはその人が「生きている」からです。

「自分が生きていること」そのものを罪悪視せず、自分の「生きるエネルギー」が働いた結果として訪れたもの全てに平等に関心を寄せ、観察すること。これは、非常に骨が折れ、勇気を要する作業です。

なぜなら、私たちは幼時からの「教育」の成果として、「自分自身を罪悪視する」ように強く条件付けられているからです。

日本での年間の自殺者が三万人を超えて久しいですが、私たちは「自分を罪悪視しない術」をほとんど教えられてきませんでした。むしろ反対に「あれをしたらもう愛さない」とか「これをしたら罰を与える」とかいった仕方で、私たちは常に自分を「罪人」のごとく感じるよう仕向けられています。

また、そういった傾向が強まり過ぎた反動からか、最近は「何をしても罰しない」とか「子どもがどんな無理な要求をしてきても受け容れる」といった「無方針な教育」も増えてきています。これは私の意見ですが、「方針(プリンシプル)」はやはり必要です。というのも、もし完全に「教育の方針」を大人の側が放棄してしまったら、子どもの生命力は次第に萎えていってしまうように私には思われるからです。

大人の側が、子どもを養い育てる際の「明確なプリンシプル」を自分の内側に持っていないと、内心では「これで本当にいいのだろうか?」と不安に感じながら、子どもを放任する結果になりやすいです。そして、「何でもお前の好きなようにやりなさい」という言葉を、大人が内心では不安に思いながら言っているのか、それともはっきりとした覚悟と自覚を持って言っているのか、子どもは的確に見抜くものです。

「自分のプリンシプル」を持たないがゆえに「好きにしなさい」と子どもに対して告げる人は、「何が正しくて何が間違っているのか自分にはもうわからないから、考えるのはやめたい」と言っているようなものです。そんなことを子どもに言われても、子ども自身は困惑するばかりです。だって、子どもの側からしたら、「何が正しいかを私の代わりに考えておくれ」と言われているに等しいのですから、「そんなこと言われてもこっちだって困る」と普通は思います。

 

「自分にとっての正しさ」を明確に持った上で、「あなたが自分で考えて出した結論について私たちには尊重する用意と覚悟がある」という態度を、私たち大人の側が子ども達に対してはっきりと示すことができるなら、日本の子ども達の背骨はもっとしっかりするだろうと思います。でも、実際のところ私たちは「自分が正しいと思うこと」を無理やり押しつけることによって子どもの背骨をねじ曲げてしまうか、それとは反対に、「何が正しいかわからなくて不安で仕方ない」といったような「背骨の弱った姿」をさらすことで、子ども達の背骨まで弱らせてしまっています。

というのも、子どもというのは、周囲の大人達の「在り方」を自分の中に写し取ることによって成長するものだからです。もしも子どもの目に映る大人全てが「背骨の弱った状態」であったなら、その子自身の背骨が強く育たないのも、ごくごく自然なことと言えます。

こうして、自分の足で立てないほどに背骨の弱った人々が生まれてくることになる。

 

世界がこういった現状であるからこそ、私たちが「瞑想」を試みると、どうしてもこれまで自分が受けてきた「教育」について、一から見直す必要が出てきます。それらの「教育」が、どのように自分を損ない傷つけてきたか、また、どれほど生命力の自然な発露を歪めてきたかを、人は見なければならなくなる。

この地点において、多くの人は「強い憤り」を感じることがあります。それは、「ちょっと道で人とぶつかってイラッとした」とか、「知り合いが約束の時間を破ったので腹が立った」とかいったのとは全く次元の違う怒りです。それは、自分が「自分自身」から遠ざけられてきたことに対する「根源的な怒り」なのです。

そして、実のところ、この内側に溜め込まれた「根源的な怒り」こそが、私たちが日常的に経験する多くの小さく浅い怒りの「本当の原因」なのです。つまり、「内側の怒りの最も深い原因」を作った真の原因は、実は「外側」に在ったということです。

 

このような「根源的な怒り」に対しては、それについて「瞑想」するということがいささか難しい場合もあります。

それは日常的に生起する「表面的な怒り」よりもはるかに根が深く、強い感情だからです。それらをちゃんと成仏させるためには、「瞑想」よりも「表現」のほうが適している場合があります。

とはいえ、そのような「強い怒り」を「自分を歪めた親や教師を殴りに行く」といった仕方で「表現」すると、余計な面倒を抱え込むことにしかなりません。そもそも、既に時間がずいぶん経ってしまっているわけですし、相手だって自分がしたことをまるで覚えていないかもしれない。先方は、こちらのことを想って、善意でおこなったことだと思っている可能性も高いです。人によっては、「自分の怒りをぶつけるべき相手」がもうこの世に生きていない場合だってあるでしょう。

それゆえ、怒りに限らず「深い根源的な感情」を「表現」する際には、いささかコツがいります。

たとえば、自分を見る人が誰もいないような山や森の奥に行って、そこで力の限り泣いたり叫んだりするというやり方があります。また、誰にも見せないノートを作って、自然と手が止まるまでそこに思いつくものをひたすら殴り書きし続けるというやり方も、人によっては有効でしょう。

いずれにせよ、「表現」はするけれども、それを「外側の誰か」に対して直接ぶつけないことが原則です。そして、その際のコツは自分のやっていることを「馬鹿馬鹿しい」と思わず、徹底的に「表現」し尽くすことです。というのも、自分の感情の根が達している深さまで届く強さで「表現」をしないと、その感情を私たちは十分に浄化できないからです。

 

このような「表現の仕方」について深めていくには、「瞑想」よりも「ダンス」が適しているかもしれません。

今のところ「ダンスのクラス」はうちには無いのですが、先々になって、「瞑想だけでは前に進めない」という人が出てきたら、何かしら手を考えるかもしれないです。

 

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