クラスへの参加を考えている方へ

この一週間、各クラスにぽつぽつと参加者が集まりました。

数としては多くありませんが、正直、「まだしばらく(少なくとも今月いっぱいは)誰も来ないだろう」くらいに私としては考えていたので、いささか驚きました。

なので、ひょっとしたら、既にこのブログを読んでいる人で、「実際に参加しに行こうか迷っている」という方も中にはいるのかもしれないと、前より真面目に考えるようになりました。だとしたら、そういった方向けにメッセージを書いておくのも、あながち無駄とは言えません。

PLATFORMの各クラスへの参加を検討されている方は、参考までに以下の文章をご一読くださいませ。

 

まず、私は今のところ「弟子」というものを取り、長期にわたって育成するという考えを持っていません。「弟子」とまではいかなくとも、数年単位で続けてワークをしてもらう関係を前提にクラスを開催していないのです。

というのも、私はそう遠くないうちに関西から引っ越すつもりだからです。どこに行くかはまだ具体的に決めていませんが、山と川の多いところに行くつもりです。移った先でPLATFORMの活動は続けていくつもりですが、クラスの開催地が今現在の私が拠点としている西宮からかなり遠くなるでしょうから、西宮近辺に住んでいる人にとって、私が引っ越した後も通い続けるということはいささか難しいと思います。

そういうわけで、本格的な「弟子」や「生徒」の育成といったことについては、私は引っ越した先でやっていこうと思っています。西宮においては、毎回「一期一会」と思って、たまさか出会った人達とのその場限りの「分かち合い」を大事にする心持ちでクラスを開催しています。

ですので、クラスへの参加を検討されている方で、「長期にわたってこの人の元で学びたい」という想いが強い人は、今一度考え直されたほうがよろしいかと思います(逆に、「一度でいいから参加してみたい」という人は、急がれた方がよいかもしれません)。

 

また、私に何かしらの「正解」を出してもらうことを求めて参加を希望されている方に対しても、参加するかどうかの再検討をおすすめいたします。

これは、既に実際にクラスへ参加されている方たちの何人かにも直接言っていることですが、私は基本的な方針として、参加者が現に直面している問題や課題に対して、当人の代わりに「答え」を出すということはしません。ですから、「どうか『答え』を教えてください」というような質問を持ってこられると、私の「応え方」はたいへん曖昧で煮え切らないものとなります。

もちろん、私には「私なりの答え」というものがありますが、その「私なりの答え」が相手にとっていくらかでも意味があるかどうかは、ケース・バイ・ケースです。もしかしたら、私が「自分なりの答え」を提示することによって、「そういう考え方もあるのか!」と感じて質問者の発想が前より柔軟になるかもしれないし、人によっては「そういう考え方をしないといけないのか…」と思い込んで、よりいっそう発想が不自由になる場合もあるかもしれません。それは受け取る側のマインドセット次第です。

それゆえ、もし「私なりの答え」を提示することで相手の発想がより自由になると私が判断した場合には、「これは私個人の意見ですが」という前置きをしてから、何か「答えらしいこと」を言うかもしれません。また、質問者が「私個人の考え」をまるで「真理」みたいに受け取って、「従うべきマニュアル」にしてしまう可能性があると判断した場合には、私はまず「あなたはなぜ『正解』や『マニュアル』を欲してしまうのか?」ということを丁寧に自問してもらう地点へと、質問者を導くようにしています。というのも、「正解」や「マニュアル」をいったい何のために使おうとしているのかが本人の中で明確になっていないと、私がたとえどんな「答え」を与えても、それによって「新たな混乱」が質問者の中に作り出される結果にしかならないと私が思っているからです。

 

普通、混乱している人は「他人の意見」を集めて回るものだと思います。

たしかに「他人の意見」も多少は役に立ちますが、「最後の最後でどうするか決めるのは本人である」という点はどうやったって動かせません。場合によっては他人に代わりに決めてもらうこともできなくはないけれども、そうやって「この人の言う通りにしよう」と決めたのは、やっぱり本人以外にはあり得ない。たとえ「何でもかんでも他人任せにする」という場合であっても、その人は「何でもかんでも他人任せにする」という在り方を、自分自身でいつも選んでそうしているのです。

そこでは「何でもかんでも他人任せにする」ということが「本人の原則(プリンシプル)」となっているわけですが、誰でもご存じのように、「他人」というのは必ずしもこちらの期待に応えるわけではありません。なぜなら、この世の誰も、「他人の期待」に応えるために生まれてきたわけではないからです。「他人は私の期待に応えるために生きている」と思っている人は、たぶん自分以外の人間を「家畜」か「ロボット」みたいに考えています。というのも、その人は他人のことを「あらかじめこちらの役に立つように作られたものだ」と思っているわけですから。そういう考え方はたいへん暴力的だと、私個人は思います。

 

いくら「暴力」を振りかざしても、「他人」は決して支配できません。他人もまた「自分の意志」を持って「自分の人生」を生きているのだからです。

ですので、「何でもかんでも他人任せにする」ということは、「絶対に支配できないもの」の上に自分の軸足を置くということでもあります。これだと始終グラグラして当然です。そして、もしそんな風にグラグラするのが不快だったら、その人は「おい、こっちの許可も無く勝手に動くんじゃない!」と自分の足元にいる他人に命令し続けないといけません。でも、その命令を聞くかどうかは他人が決めることであって、自分一人で決められることではありません。

もし何が何でも命令を聞いてもらおうと思ったら、騙したり、脅したり、賄賂を送ったりといった「政治」が必要になってくるでしょう。こうなると、やがてその人は自分の軸足を安定させるための日々の「政治的取引」だけで精一杯になってしまって、自分の軸足を安定させた上で「自分がしたいこと」をするという選択が不可能になってしまうと思います。そこまでいくと、もう「やりたいこと」をやるだけの時間も無ければ、気持ちの余裕も無くなっているからです。

そして、このような「政治的取引」は、そこに係わってくる他人の数が増えれば増えるほどより高度化・複雑化していきます。これでは、もともと「何かをする自由」が欲しくて「政治」を始めたはずなのに、気づいたら「政治」のために奔走している内に人生が終わってしまったということにもなりかねません。

 

もちろん、「政治」が好きな人はそれのために生きればいいと思いますけれど、全員が全員そういう訳じゃないと思います。逆に、もともと「政治」が別に好きなわけでもないのに、いつの間にかそれに絡め取られてしまって、「自分がしたいこと」ができない、あるいは、「自分はいったい何がしたいのか」についてじっくり考える時間も気持ちの余裕も持てないということになっているならば、思い切って自分の「政治力」を弱めるということも必要になってくると思います。

「他人の意見を集めすぎないようにする」ということも、「政治力」を弱める一つの方針です。そもそも、自分がどうするかを決めようとして、あまりにもたくさん「他人の意見」を集めてしまうと、私たちは身動きが取れなくなります。なぜなら、意見を収集すればするほど、「最終的な決定に先んじてお伺いを立てないといけない相手」がどんどん増えていってしまうからです。

たとえば、実際に会って話した相手であれば、「あの人の言った意見をまったく無視してしまったら、今後いったいどう思われるだろう?」ということが気になり出すし、本で読んだ意見であれば、「本に書かれるくらいだから、きっと何か『正しい』部分があるのだろう」と思って、それに反することを言ったり考えたりすると気が咎めるようになってしまいます。これでは、物事を決めるために他人の意見を集め始めたはずが、そうやって他人の意見を集めれば集めるほど、何も決められなくなっていってしまいます。

 

これまでの私自身の経験から言って、私に「正解」や「マニュアル」を求めてくる人は、多かれ少なかれ以上のような「不決断状態」に陥って困惑しています。

そういう場合、困惑している当人は、他の意見を全て無視しても気が咎めないほどの「絶対的に正しい意見」というものを欲して、私に質問しに来ることがあります。きっとそういうものが手に入れば、もう他人の意見に惑わされなくなると期待するからでしょう。

 

さて、それでは私はそういった状態にある人へ、「正しい答え」を与えるべきでしょうか?

もしかしたらその人は私が与える「正解」に満足して、これを金科玉条とするかもしれませんが、それもまた私という「他人」が言ったことに過ぎません。だとしたら、やっぱり「政治」はまだ継続しており、しかも「私が言ったこと以外に対して耳を閉ざす」という硬直化した姿勢までそこに新たに加わることになります。

また、「私の言ったこと」を質問した当人が「他人の意見コレクション」の中に付け加えるという場合であっても、「それまでなかった新たな問題を作ってしまう」という点では、やっぱり同じ話です。というのも、もしその人が「自分の代わりに他人に何が『正しい』か決めてもらいたい」と思って質問したのであるならば、そこに私の意見が付け加わることによって、今度は私の顔色まで窺わないと物事が決められなくなってしまうからです。

 

以上のように私自身は考えるので、「湯浅に何が『正しい』かを自分の代わりに決めてもらいたい」と思って質問する人は、ほぼ例外なく「肩すかし」を食らうことになると思います。なぜなら、そのような動機から質問する人に対しては、たとえ私が何を「答え」として与えても、「それまでなかった新たな問題」をその人の中に作り出す結果にしかならないと、私自身が思っているからです。私はあくまでも相手を手助けしたいのであって、「余計な問題」をしょいこませたいわけではありません。もちろん、世の中には「余計な問題」を生徒の中に作り出し、それを利用することで相手をまるで奴隷にみたいにこき使っている指導者もいますけれど、私はそういうことはできたらしたくありません。

 

それが「私なりのささやかな思い遣り」ではあるのですが、質問してきたほうからしたら、「湯浅はこっちの質問に対して明確な答えを示さず逃げてばかりで、なんてズルイやつなんだ」と感じることもあるかもしれません。

別に相手からどう思われても私としてはさして気にしませんが、せっかく自分の時間とお金を使って私のところにやってきたのに、「質問をはぐらかされて時間とお金を無駄にした」となったら、参加者自身にとってはあまり喜ばしい結果とは言えないでしょう。

ですので、私に対して何かしらの「答え」を求めて参加を検討されている方は、思いとどまられたほうが、時間とお金を無駄にしないで済みます。もちろん、自分の時間とお金をどう使うかは参加者自身の問題なので、私としてはどちらでもよいのですが、念のためご忠告申し上げます。

 

私にとって関心があるのは、相手が「自分なりの答え」が出せるよう手助けすることです。

「私の答え」は私のものであり、「相手の答え」は相手のものです。どっちが上も下もないです。

もちろん、私自身がこれまでダンスや合氣道を稽古してきた経験から、心や身体の使い方について、他の人があまりしないような仕方でワークを提供できるという部分はあると思いますけれど、それは別に私のやり方が絶対「正しい」という話とは違います。ただ、心や身体の在り方について無自覚に生活している人たちよりも、私のほうが「具体的で実際的なアドバイス」や、「明確な目的意識をもって実践可能な稽古の仕方」を考案しやすいというアドバンテージがあるだけです。

そして、そういったことに価値を見出す人ならば、きっと私のところに来ることにも少なからぬ意味があるはずだと自負しています。

 

PLATFORMのクラスへの参加を検討されている方は、以上のことをいま一度お考えいただけますと幸いです。

では、よろしくお願いします。

 

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