満たされない私たち

「自分で自分をしっかり満たしてあげる」ということが、どれほど大事なことであるか、このところますます強く実感しています。

私たちは、自分の中に「満たされ無さ」を抱えていると、居ても立ってもいられなくなります。そして、非常に多くの場合、私たちは「自分の外側にあるもの」によって、この「満たされ無さ」を手っ取り早く埋めようとする傾向がある。

たとえば、お腹が減っているわけでもないのに、食べ物を次から次に食べてしまうとか、落ち着かなくてイライラしてくると、タバコやアルコールに引き寄せられてしまう人もいます。ゲームや映画、テレビやスマホ、他人との中身のない空疎なおしゃべりに夢中になる人もいる。多くの人は「こんなことをいつまでも続けているわけにはいかないな」と時には思いながらも、ついついやってしまう。

もし仮にこういった「娯楽」を一切取り上げられてしまうと、私たちは途端に落ち着かなくなります。たとえば、何も物が置いていない個室に、通信機器も本も無しで、半日一人きりで居なければならなくなったとしたら、多くの人は次第にイライラしてきて、不機嫌になるでしょう。別に、半日くらいなら飲まず食わずでも死にはしないし、嗜好品も電化製品も利用できず、おしゃべりをする他人が誰も居なかったとしても、半日くらいならそれほど害はなさそうなものです。でも、私たちは多くの場合、そのような環境にうまく耐えることができません。

現代の平均的な都市生活者であれば、おそらく何も無い個室に手ぶらで入ったら、15分以内にソワソワし出すと思います。これは人から聞いた話ですが、世の中には「一人きりになったときにスマートフォンを1分間操作しないでいるだけでも苦痛を感じる」という人もいるそうです。現代的な生活に慣れきった人には、何も無い「空白の時間」はひどく耐えがたいもののようです。

 

こういった「空白」を外側から「誰か」や「何か」によって埋めてもらおうとする心性が、私たち現代の日本人には広く、深く浸透していると日々感じます。それは、「自分で埋めるもの」ではなく、「どこかの誰かが用意したものによって満たすもの」だと、多くの人が思い込んでいる。

この「自身の空虚さは外から埋めることができる」という思い込みが、私たちの社会に「娯楽」というものを果てしなく作り出してきたのだと私は思っています。文明化した社会には多種多様な「娯楽」が溢れかえっていますが、それは「文化的な成熟」を必ずしも意味しません。「文化的な成熟度」は、たとえば「歴史を超えて人々を心の底から感動させるほどの質の高い芸術作品が創造されたかどうか」とか、「普遍的で深遠な洞察を含んだ哲学的思考が生み出されたか否か」とかいった点で見られるべきであって、「娯楽」の過剰はむしろ「文化的な退廃」と、その社会に住む人々の「心の貧しさ」を示す指標だと思います。というのも、「娯楽」がどこまでも発展していくのは、「娯楽無しでやっていけない人々」が社会の中にかなりの割合で実際に存在しているからであり、そういった「娯楽無しでやっていけない人々」は、「新しい文化を創造する」ということはせず、むしろ「既存の文化をどんどん食い散らかして消費する」ということにしか興味を示さないからです。

「文化を消費する人々」は、たとえ千年前から読み継がれてきた文学作品であっても、それを「娯楽」の文脈の中でしか見ることができません。言い換えれば、「それが自分にとって面白おかしいかどうか」という点から見るのです。それゆえ、本を読むときも、まるでファーストフードを胃に流し込むときと同じように、「読み込む」というよりは、「消費する」という感覚に近くなります。そして、うまく「消費」できないものは「つまらない」ので、見向きもされなくなりやすい。結果として、現代においては、古典的な文学作品よりも、時流に乗って短期間で書かれたと思われる浅薄な本のほうがよく読まれますが、それらもすぐに捨てられます。というのも、そういった「誰でも読める面白おかしい本」というのは、「娯楽を消費し続ける人々」にとって、結局のところ、一時の暇をつぶすための「ただの消費財」に過ぎないからです。

いったい誰が、「一年前に食べたあのファーストフードのハンバーガーが本当に美味しくて、今でもその体験が忘れられない」なんて思うでしょうか?

一度「消費」してしまったら、そんなもののことはさっさと忘れて次の「消費財」に向かって突き進む。それが、現代的な都市生活者というものです。

 

しかし、人間の心は「消費財」によっては決して真に満たされることがありません。どれほどその「量」を増やしても、「消費財」によっては、私たちの胸の「空虚さ」は本当には埋まることがない。むしろ、「消費財」を大量に消費すればするほど、「虚しさ」がこみ上げてくることのほうが多いです。というのも、誰か他人に用意してもらった「消費財」を外から取り入れるだけでは、私たちは自分の「満たされ無さ」を一時的に誤魔化すことしかできないからです。それはあくまで「対症療法」であって、本当の意味での「治療」には成り得ない。

でも、私たちのほとんどが、「誰かが用意してくれた『娯楽』によって空虚感を一時だけ誤魔化す」というやり方しか教えられてきませんでした。これでは、「虚しさ」を誤魔化すために摂取する「娯楽」の量をどこまでも増やしていく以外に手がなくなってしまいます。まるで、「痛み」を一時的に抑えるために使い出した鎮痛剤に耐性がついてしまって、効果を出すために必要な鎮痛剤の量がどんどん増えていっているかのような状況に、現在の私たちは陥っています。もちろん、「耐えがたい痛み」というものはあるでしょうし、当人に残された時間が少ない場合などには、「鎮痛剤によって一時的に痛みを抑えることで、より有意義に死ぬまでの時間を過ごせる」という利点もあるでしょう。

でも、ちょっと「痛み」が現れただけですぐさま鎮痛剤を投与して、効かなくなったら量ばかりがんがん増やすというようなことを続けたら、遠からず「薬」も「毒」に変わります。そして、現代に生きる私たちにとって「娯楽」というものは、既に「薬」というよりも「毒」の域に達しているように私には思われるのです。

 

浅薄なもの、面白おかしいもの、時間のかからないものなどが、今の時代では好まれています。

そして、「娯楽」は「質」を深めるよりは「量」を増やす方向に向かっており、人を深いところから揺り動かすような、言い換えれば「感動」を呼び起こすようなものよりも、「あっ」と驚かすような大仕掛けのほうが世の中には増えています。書店に並ぶ新刊本の多くはその内容が総じて薄っぺらになり、アミューズメントパークの機械仕掛けはどんどん大仰になっていく。何かの映画を観て涙するときも、その涙の前後で当人の人間性にはあまり変化は起こらず、むしろ「涙を流す」という出来合いの身振りを「消費」することでより身軽になり、次の「面白おかしいもの」をせっせと探し出す人のほうが多い印象が私にはあります。

こういった「薄っぺらな体験」にいつも取り囲まれてきた人が、自分の中の埋めがたい「満たされ無さ」に苦しんで精神的な不調を訴えるようなケースが、今の世の中にはけっこうたくさんあるのではないかと思います。でも、どこにいっても「本当の満たし方」を誰も教えてくれない。「少し休養して、疲れを取った方がいい」ということはよく言われますが、それで仮に疲れが抜けても、そのあと戻っていく先が、結局「浅薄な娯楽」しかない世界なら、「そんなのこれ以上もういらない」と思ってしまう人だって、中にはいると思います。

 

たしかに、疲れていれば休養は必要です。でも、その休養が、「再び娯楽を消費できるようになるための休養」でしかないなら、「満たされ無さ」の真の原因は手つかずのまま残ってしまいます。それでは同じ事の繰り返しですし、しかも、同じ事を繰り返せば繰り返すほど、当人の中の「他にどうしようもない」という絶望感は深まっていってしまいます。

このような状況に風穴を開けるためには、「他人に満たしてもらう」という前提を一度すっぱり捨てるしかないと私は思います。「他人が自分のために何をしてくれるか」を気にすることをやめて、「自分はいったい何をしたいのか」を考えるのです。他人が何かをもたらしてくれるのを待つのではなく、自分自身から動いていくわけです。

 

もちろん、いきなり「自分から動く」ということができる人ばかりではありません。特に、他人が消費する「娯楽」を誰かに命令されてイヤイヤ作り、別の他人が用意した「娯楽」をただ消費しては日々を誤魔化すだけの「軽薄な生活」に疲れ切ってしまった人には、まず一定の期間休養をしてエネルギーを再充填することがどうしても必要です。疲れ果てている人にとって、いきなり「自分から積極的に動いていく」ということは、十中八九難しいでしょう。

それから、休養によってエネルギーがある程度補充されてくると、多くの場合、「何をしたいか」を感じる前に、まず「何をしたくないか」を鋭敏に感じる時期がやって来ると思います。実際、一度でも心底疲れ切るところまで頑張った人というのは、「何をしたくないか」については実に明確に感じ分けることができるものです。「あんなことだけは二度とやりたくない」というくらい、きっぱりと「やりたくないこと」が見えてくる。

そして、「やりたくないこと」のリストが自分の中で長くなってくるに従って、「やりたいこと」が徐々に見えてきます。そもそも何かを心底「やりたくない」と思う場合、その「やりたくないこと」の中には、当人にとっての「やりたいこと」を否定するようなものが多かれ少なかれ含まれているはずなのです。だから、「やりたくないこと」を明確にしていくことによって、「そうか、そもそも自分はこういうことをやりたいと思っていたからこそ、あれに我慢がならなかったんだ」ということが段々とわかってくるようになるのです。

 

この地点、自分が心から「やりたい」と思えることが見つかるところまで進んだとき、人は初めて自発的に何かに取り組むことができるようになります。

ここより前の段階で何かに取り組むと、必ず外側に動機を求めるようになります。「他人からやるように言われたから」とか、「本で紹介されていたから」とか、「何となく流行になっているから」とか、自分の外側に「やる理由」ができてしまう。しかし、この状態だと、外側の誰かから自分のやっていることを少しでも否定されたり、自分の考えと反対の意見がどこかで紹介されていたりすると、すぐにやめてしまいます。「やる理由」が外側にあるので、「やめる理由」も外側にある。そして、外側には外側の都合があるので、それにばかり合わせていると、「自分のやりたいことをやりたいようにやる」ということがいつまで経ってもできません。

 

たとえささやかな規模や範囲であったとしても、自発性を持って自分が「やりたい」と思うことを、心を込めてやりきれば、「やりたいこと」に取り組んでいる一瞬一瞬に、人間は深い喜びと満足とを感じることができるものです。それによって他人からまるで評価されなくても、たとえお金が儲からなくても、それは大して重要ではなくなります。というのも、本人にとっては、「やりたいこと」をやりきっている全ての瞬間が喜びと満足とに溢れており、それが既に十分な報酬になっているからです。

それゆえ、いつも「自分のやりたいこと」をやりきって生きている人というのは、「やりたいこと」をやった後になって、「もっとたくさん報酬が欲しい」とは思わないものです。そういう人は、むしろ「自分が欲しかったものはもう十分貰っている」と感じていると思います。だから、そこには見返りを求める欲深さも、他人からの感謝をねだる押しつけがましさもない。曇りも濁りもない「行為」だけが、そこにはある。

 

でも、本当を言えば、「行為」さえも自分を満たすために必ずしも必要とはなりません。

たとえば、私たちはみんな生きています。寝ている間も呼吸が続き、心臓は一時も止まることなく鼓動し続けている。私のように、自分や他人の身体をある程度の期間にわたって観察してきた人間には、そういった生命現象の一つ一つは「奇跡」みたいに思えます。

そして、この世界があるということ、これもまた一つの「奇跡」です。太陽が在り、空が在り、風が吹き、花が咲き、水が流れ、あちらでは何かが死に、こちらではまた何かが生まれている。瞬間瞬間に、「世界」が在る。

一日のどこかで、この事実を深く感じるための「何もしない時間」を毎日5分確保するだけでも、きっとその人の内側は、少しずつ豊かに満ちてくるものと思います。

でも、多くの現代人は「頭でっかち」になってしまっているので、「全ては奇跡だ」という言葉を暗記し、口に出して繰り返すことはできても、感覚のレベルでそれを体験することができないでいます。それがどれほど不幸なことであるか、世の中の多くの大人は子ども達に教える術を持っていません。なぜなら、大人達自身が、臓腑の底から「全ては奇跡だ」と感じるような瞬間を体験したことがないからです。

むしろ、この感覚については、幼い子ども達のほうがずっと詳しいでしょう。なぜなら、まだ生まれて間もない彼らにとって、「世界」はあまりにも新鮮で、あまりにも色鮮やかなものに感じられるからです。

 

私の見るところ、たしかに、世界は「奇跡」です。

私もそう言いますし、いにしえの賢人・哲人も同じ事を繰り返し言ってきました。きっと今世に出回っている浅薄な自己啓発本にも同じような事がたくさん書いてあるでしょう。

でも、「言葉」では役に立ちません。自分自身で「体験」しなければ、「言葉」だけいくら繰り返しても、何も変わらない。

私は、たとえほんのわずかでも、そのような「体験」を他の人たちと共有したいと思ってクラスを開催しています。もちろん、私には「私なりのやり方」があり、「それでは役に立たない」という人も世の中にはいると思います。

それでも、私は「私の体験」を通して伝えたいと思っています。それがどれほど普遍性のあるものかわかりませんけれども、私は「他人の語った言葉」よりも「自分の体験」を大切にしたいと思っていますし、クラスに参加する全ての人にも「その人自身の体験」を大切にして欲しいと願っています。

なぜなら、「自分の体験」を自力でどこまでも深めていくことこそが、現代人を蝕むこの「終わりのない満たされ無さ」から真に当人を救う道だと、私個人が深く信じているからです。

 

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