「善悪」を見ずに「事実」を観る

私は前回の記事で、「自分の中に『満たされ無さ』を抱えている人は、多くの場合、自分の外側にある『娯楽』にふけることで、手っ取り早くそれを埋めようとする傾向がある」と書きました。

そして、「真に自分を満たすこと」は、当人が心から「やりたい」と思うことに打ち込むか、あるいは、自分やこの世界が存在するということの不思議さに驚き、その「奇跡」を深く味わうことによって可能になるのだと論じたのでした。

 

ところで、その前回の記事を読んだ人の中には、ひょっとすると「娯楽は『悪いもの』であって、それにふけるのは『悪い人間』だ」という風に私が主張しているかのように感じた方もいるかもしれません。それについて、少し付け加えて書いておきたいことがあります。

前回、既に書きましたように、「外から与えられるだけの『娯楽』によっては、私たちは自分の心を真に満たしてあげることはできない」ということが、私の主張するところです。しかし、「娯楽」によってしか自分を満たす方法を知らない人にとって、それは日々を生きていく上で避けがたい「必要物」となっていることもまた確かです。この点を考えないで、「娯楽は悪いものだ」と切って捨ててしまうと、現に「娯楽」を必要としている人たちは余計な罪悪感だけを背負い込むことになってしまうでしょう。

 

「自分で自分を満たすことのできない人」には、どうしても多かれ少なかれ「娯楽」が必要です。少なくとも、今のところは。

そして、これは単なる「事実」であって、「善悪の問題」ではありません。「娯楽は『悪い』、だからそれを必要とする人間もまた『悪い』」と言って、「娯楽」にふけらざるを得ない状況に陥ってしまっている人に向かって、「娯楽」をすぐさま全部捨てることを要求するとしたら、それは「非人間的な態度」だと私は思います。

たとえば、ある人が咳がどうしても止まらなくて医者にかかりに行ったとします。すると、いろいろ問診や検査をしてみた結果、「どうもこういうことが原因らしい」ということが医者の側にわかったとする。そうした場合、もし本当に患者が治ることを医者が願っているとしたら、医者自身の見立てに従って必要な治療を施すなり、患者に向かって「あなたはこれこれこういう病気にかかっていて、咳はその症状の一つである」と説明し、患者自身が治療のために生活の中で意識できることについての助言を与えたりするはずです。そうやって病状を説明することで、患者自身が「自分はこういう病気にかかっているから、それを悪化させないためにはあれは避けて、これをするのがいいのだ」と自分で納得して養生をするならば(そして、医者の側の見立てが間違っていないならば)、自然治癒力も速やかに発揮されるでしょうし、医者が施す専門的な治療にも効果が出やすいでしょう。

でも、もしここで医者の側が「病気というのはそもそも『悪い』ものであり、今こうして病気にかかっているあなたは『間違った生き方』をしている『悪い人間』なのだ」と言ったりしたら、どうなるでしょうか?

きっと患者の側は、それまでなかった罪悪感を新たに抱えることになるだけで、自発的に「自分の生活を改めよう」という気持ちにはならないと思います。

 

しかし、医者であれば普通はしないであろう、こういった見当はずれなことを、世の「説教家」たちはしているのです。

たとえば、ある人が何か間違いを犯す。思い違いをする。何度も同じ失敗をしてしまう。

すると、「説教家」たちはこういう現場を捕まえて、ここぞとばかりに「お説教」をします。

「どうして何度も間違いを犯すのか。それはあなたが愚かだからだ。あなたの生き方は間違っており、あなたは悪い人間だ」と言って、一方的に相手を責める。そうすると、言われた相手は「自分は悪い人間、間違った人間なのだ」という劣等感や罪悪感を抱くばかりで、「そのようなダメ人間である自分はきっとまた同じ失敗をするだろう」という不安感を根付かせることにもなりかねません。

そして、不安になっている人や、失敗を恐れて怯えている人は、頭がうまく働かず、周りのことも見えなくなりやすいですから、必然的に同じような失敗を繰り返すことになりがちです。すると、またしても一方的に非難されて、ますます不安に、ますます怯えるようになっていく。

 

私の見るところ、「説教家」の人たちは、相手が自分自身の知恵と力を開花させて自然と変わっていくことを望んではおらず、むしろ相手を支配することを求めています。相手が自分のほんの一言によって縮み上がり、こちらのわずかな目の動きさえも気にかけて終始おろおろしていることを求めている。

世の「説教家」たちは、「相手を変えようとしている」という表面的な見た目とは裏腹に、相手に自発的な変化を許さず、「物」のように固定して、その自由意志を挫こうとします。

それがどれほど他人の自尊感情を傷つける暴力的な行為であるかということについて、「説教家」自身はたいへん無自覚です。むしろ、主観的には「善意で他人を導いている」とさえ思い込んでいます。

 

念のため言い添えますが、私は単に「説教家たちは『他人を支配したい』という欲望に取り憑かれている」という私の目から見た「病気の見立て」を述べているだけで、「だから『説教家』はこの世から撲滅すべきだ」ということまでは言っていないつもりです。

そもそも「説教家」たちが他人を支配したくなるのは、そうしないと恐くて仕方がないからです。人間は生物ですから、ほっておけばどんどん変化していきます。どう変化するかは個人個人の置かれた状況や、生まれ持った資質、内的な必然性などによって決定されるので、外側の誰か一人の力ではそれをコントロールすることができません。

そして、この「コントロール不能性」に耐えるだけの勇気を持てない人は、他人のことを「変化成長する一個の人間」として見ずに、「生きもしなければ変化もしないただのモノ」に変えようとします。それが「説教家」という病の「症状」なのです。

 

究極的には、私たちには他人を真に変えることはできません。人は自分自身で「変わろう」と思ったときにしか変わらない。あるいは、「別にもう変わらなくてもいいや」と自分自身で納得したときに、必然的に変わっていきます。

もし本人以外の他人が外からできることがあるとしたら、「相手が自力で変化するために必要な条件を整えてあげること」と、「相手が『新しい自分』に変わるための勇気を奮い起こせるように、そっと励ましてあげること」くらいでしょう。

「相手の病を見立てる」ということは、こういった「数少ない外側からできる手助け」のうちの一つです。それは、「自分が陥っている苦しみ」がどこから生まれてくるのか見通すことができず、「苦悩」から抜け出すための道筋が見えなくなっている人に対して、「具体的に今自分は何をしたらいいのか」を明晰に考えるための、思考と実践の足場を提供することです。

でも、「病の見立て」が本当に役に立つためには、患者自身に「自分は病んでいるのだ」ということを「事実」としてきちんと受け止めるだけの心の準備ができていなければなりません。「あなたは『病気』にかかっており、それを治すためにはこういうことが必要になりますよ」といくら言っても、患者その人が「自分は『病気』なんかじゃない!人を侮辱するのも大概にしろ!」と言って聞く耳を持っていなければ、たとえ「見立て」が正しかったとしても、全く患者の役には立ちません。

 

私が「『娯楽』によっては誰も真の満足は得られないし、むしろ『娯楽』に過剰に依存することによって、多くの人が自分で自分の心を貧しくしてしまっている」と言うのは、「現代人の多くがかかっている病気」に対する私なりの「見立て」を述べているだけです。

私には「現に病気である人」を非難するつもりは毛頭なく、「自分は病気である」ということを事実として受け止める用意のある人にとって何か役に立つことを伝えたいと思って今この文章を書いています。そして、私の「見立て」を、「善い」でも「悪い」でもなく、純粋に「事実」として受け止めることのできる人ならば、きっと私の言葉を何かしらのヒントにして、「自分の病」を克服するためにその人なりの「実践」を始めるだろうと信じてもいます。

しかし、私の書いていることを「医者の見立て」のように考えず、「道徳的なお説教」だと思っている人は、私の言葉をまるごと誤解してしまうことになるでしょう。

 

繰り返しますが、私は別に「『娯楽』に耽溺することは『悪い』ことだ」と言っているわけではありません。私はただ、「もしあなたが『満たされ無さ』に苦しんでいるとしたら、それはあなたが『いつか他人が自分の苦しみをなんとかしてくれるはずだ』と期待して待っているからだ」と言っているだけです。

「そんなことあるものか」と言って私の「見立て」に聞く耳を持たない人や、「別に『病気』のままでもいいよ、今のところそこまで苦しくもないし」と言う人に対しては、私のほうからできることは特にありません。でも、「自分はたしかに『病気』なのかもしれない」と思う人に対しては、多少は意味のあることができなくもないです。そういう人に対しては、私自身が自分の主観を通して世の中の人々を観察した結果見えてきた「事実」をお伝えすることができるからです。

 

「事実」を伝えることに意味があると私が思うのは、そもそも私たち人間が「事実」しか変えることのできない存在だからです。

たとえば、もしも自分が「病気」であるならば、それを「事実」として直視することによってしか、「自身の病」を乗り越えることはできません。「自分は決して『病気』ではない、健康で健全な人間だ」といくら思っていても、「事実」のレベルで「病気」であるならば、「自分は既に健康だ」という考えは、どこまでいっても「妄想」でしかありません。そして、「事実」から眼を逸らして「妄想」をいくら強化しても、私たちは「自分の病」を乗り越えることはできないのです。

 

しかし、これもまた私なりの「一つの見立て」に過ぎません。私は別に「妄想は悪い」と言っているわけではありませんし、「妄想を抱く人間は罪人だ」というようなことを主張したいわけでもありません。

私はただ、「自分を本当に変えようと思ったら、たとえ辛くても『ありのままの事実』を直視することから始めるしかない」と言っているだけなのです。というのも、「ありのままに見つめた事実」しか私たちには変えることができないからです。「現に病気である人」にとって、「完全に健康な自分」という観念は、どこにも実在していない「理想像」に過ぎません。「そもそも存在しないもの」は私たちには変えようがない。

「『存在しないもの』だからこそ、いくらでも変えられる」と言う人もいるかもしれないですけれど、どこにも存在していない「理想」や「夢」ばかりを次から次に取り替えても、「事実」のレベルでは、当人は全く人間的に変化も成長もしないものです。

 

私がここで本当に考えたいと思っていることは、どうやって人々の心から「罪悪感」を取り除くかという点についてです。つまり、「罪悪感を余計に強めてしまうお説教」ではなく、「無用な罪悪感を打ち消すための言葉」をこそ、私は提示したいのです。

そして、「無用な罪悪感」を抱え込んでいる人が「自縄自縛」の状態から抜け出すためには、この「罪悪感」の根っこにある「妄想」や「思い込み」を一つずつ丁寧に見直していく作業が、どうしても必要になります。自分の中の「妄想」や「思い込み」から自由になるためには、たとえ他人が「あなたは罪人であり、出来損ないだ」と言ったとしても、それをすぐ鵜呑みにして「自分は罪人であり、きっと出来損ないの人間なのだ」と決めつけたりせず、ただ「事実」だけを観察するように努めることが、とても大事です。

というのも、もしも私たちが「他人が語る善悪」を中心にして自分のことを「評価」し始めると、私たちは「事実」をそのままに観ることができなくなってしまうからです。

 

たとえば、自分の内側を見つめたとき、そこに「怒り」や「貪欲」や「卑劣さ」があったりすると、私たちはついついそれを見なかったことにしようとしてしまいます。そういったものが自分の中に在るということを、私たちはなかなか認めることができない。

しかし、私たちがそうやって「事実」を無理やり抑圧してしまうのは、幼い頃から「怒るな」「貪るな」「卑怯なことをするな」と他人から言われ続けてきたためです。「怒り」や「貪欲」や「卑劣さ」が自分の中に「事実」として存在しているとき、私たちは「そういうものが在ってはならない」と何度も言われてきたのです。

そんなことを言われたって、「事実として在るもの」をいきなりなくすことなんて誰にもできません。できるのは「まるで無いかのように振る舞うこと」、つまり「抑圧すること」だけです。

そして、「事実」を抑圧すればするほど、私たちは「現に在るもの」が見えなくなり、次第に「『現に在るもの』を見ないで済むような妄想を無限に作り出し続ける」という状態へ陥っていきます。これが、私たちを「自分の実態」から切り離してしまい、「より変化・成長していくための可能性」を摘んでしまうことにもなるのです。

 

もしも「自分のありのままの姿」を見つめたいなら、たとえ「怒り」や「貪欲」や「卑劣さ」が自分の中に見つかっても、そのことで自分自身を決して罪悪視しないことが肝要です。

そもそも、「怒り」や「貪欲」や「卑劣さ」が自分の中に存在するのには、それなりの理由があるのです。それらは全て何らかの「必然性」があって当人の中に存在しています。

もしこの「必然性」を否定してしまうと、私たちには自分の「怒り」も「貪欲」も「卑劣さ」も変えることができなくなってしまいます。「善い」でも「悪い」でもなく、それらをただ「事実」として直視し、そこへ意識的に光を当てて「理解」することによってしか、私たちは「怒り」や「貪欲」や「卑劣さ」を乗り越えることができないのです。

 

とはいえ、私はここで「『怒り』や『貪欲』や『卑劣さ』ばかりで満ち満ちた人生を歩んでも別に構わない」と言っているわけでもありません。この点は、非常に微妙なのですが、ぜひ理解しておいてほしいことです。

そもそも、「怒り」や「貪欲」や「卑劣さ」にばかりいつまでも囚われて生きてしまうのは、その人の心がどこかしら「病んで」いるからです。それは「悪いこと」ではなかったとしても、「乗り越えられるべき事実」ではあります。

なぜなら、「『病んだ心』を抱えて生きられる人生」によって、私たちは真に満足することなどできないからです。そして、「自分の病」を克服するためには、まず「自分はどこか病んでいるのかもしれない」という「病識」が必要だし、そこからしか「治療」は始めようがない。

しかし、「自分の中の『怒り』や『貪欲』や『卑劣さ』に対する罪悪感」は、当人が「病識」を持つことを著しく阻害してしまいます。私がここで本当に問題視したいのは、まさに「この点」なのです。

 

自分自身を本当に変えようと思うなら、道徳的な意味での「善悪」はあまり考えないことです。

自分で自分に「レッテル」を貼らず、ただ「事実」だけをニュートラルに観るよう努めるのです。

「今ここに『怒り』が在る」のは「単なる事実」ですが、「こんな風に怒る自分は『悪い人間』だ」と考える場合、そこには「余計な分別」が混じってしまっています。

「『怒り』を否定して押し込めること」をやめて、「『怒り』を受け容れて理解すること」によって初めて、私たちは「『怒り』は本当に『悪い』ものなのかどうか」を自分自身で知ることができるようになります。

 

そして、もし本当に「『怒り』は悪い」ということが自分自身でわかったならば、私たちはもう「罪悪感」を理由にして「怒り」を無理やり抑え込んだりはしなくなるものです。そのとき、当人は「怒りは悪い」と既に自分自身で知っているので、自然と「怒らない人間」になるだけです。

反対に、「『怒り』にも役に立つ使い道がある」ということが自分自身で理解できたら、たとえ世の「説教家」たちが「『怒り』は悪い」と非難しようとも、その人はあくまでも自分の責任において「怒り」を使うようになります。ここに至って初めて、当人は「罪悪感に苛まれながら『自分の怒り』に振り回される」のではなく、「『自分の怒り』を状況に応じて使いこなす」ということができるようになるのです。

 

このように、「怒り」を「悪」として観るにしても、「役立つもの」として捉えるにしても、「自分の事実」から出発して「自分の理解」へと到達したならば、私たちは「自分の怒り」を越えていけます。

そのような「超越」が可能になるのは、「社会が押し付けてくる善悪」をいったん脇にどけて、まず「自分の事実」をこそありのままに見据えた後のことです。「他でもない自分はこの人生をどう生きるか」ということについての明確なビジョンもまた、「社会が要求してくる『理想の在り方』」をひたすら退け、「自分の事実性」をこそ直視し続けた結果として、自然と立ち現れてくるものなのです。

 

いずれにせよ、何が「善」で何が「悪」なのかは、最終的に私たち一人一人が「自分の心」で感じ取るものであって、「世の中の常識」によって規定されるものではありません。「真の善悪」というのは、決して「外側」から与えられるものではなく、いつも「内側」で静かに測られているものなのです。

本当の意味で「自由」に生きる人々の在り方が、「世の中の常識」からはどこか逸脱していながらも、不思議と「倫理的」であるのには、確かな理由があります。

「自由な人」は、「社会が押し付けてくる価値観や固定観念」をまるで信じていないのはもちろんのこと、自分の内側の「妄想」や「思い込み」からも自由であろうと、常に心を砕いています。そうして、「自分の最も奥深くで響いている声」に耳を澄ませ、その「声」に従って生きることを自分自身で選んでいる。

「内なる声」に従うとき、人は決して「無責任」ではいられません。なぜなら、もはや「自分の選択の責任」を社会は代わりに取ってはくれないと、当人は、はっきりと自覚しているからです。

(2019年3月30日 大幅に加筆修正)

 

 

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