瞑想の辿る道

瞑想というと何だか大げさな技術みたいに聞こえるかもしれないですが、瞑想をするのに別に特殊なテクニックは必要ありません。実際には、椅子や座布団などの上に坐って、目をつぶったまま自分の心や身体に起こる変化を、ただただ観察し続けるだけです。

私にとって「瞑想のエッセンス」は、この「観察する」ということの中に全て詰まっているのですが、いきなり「ただ観察しましょう」と言っても人によっては難しく感じると思います。特に、「難しいこと」とか「特別なこと」ばかりを追い求めてきた人などは、「ただ観察する」ということを自分で余計に難しくしてしまいます。

というのも、そういう人は「ただ観察しましょう」と言われても、「ただ、観察するだけ?そんなことで何か『特別なこと』が起こるのだろうか?そんなわけがない!きっと今自分が考えているのと違う『難しいこと』をしないといけないんだ」とついつい思ってしまうからです。

 

たとえば、「ただ手を挙げてください」と指示するとき、同時に「これがあなたに非常に大きな変化をもたらす大切な技法なのだ」と師が告げたとしても、ほとんどの人はそんな言葉は信じないでしょう。よほど純朴で素直な人しかそういう言葉は信じない。口では「わかりました」と言うとしても、ほとんど全ての人は必ず心の中で疑ってかかります。「本当にそれだけ?」と思う。

でも、実際には本当に「それだけ」です。生まれてから今まで何千回、何万回と繰り返してきたであろう「手を挙げる」というこの単純な動作を、まるで生まれて初めてするかのように、あるいは、手を挙げ終わった瞬間に自分が死ぬことが既に確定しているかのように、深くその全過程を味わい尽くし、「行為そのもの」へ没入することができたら、「ただ手を挙げる」だけでも人は変わります。「自分の中心」が定まり、身体は生気を帯び始め、感性は鋭くなり、知性は明晰に機能し始める。

もちろん、そういった状態が心身に深く定着するまでには、そこからまた継続的な努力や実践が必要になりますが、「真に深い変化」というのは、時間を全く必要とせず瞬間的に起こります。

 

ですが、私たちは多くの場合、生まれたときの純粋さを失っており、「手を挙げるなんて、今までに数え切れないくらいしてきた」ということをよく知っています。それだけ繰り返してきたにもかかわらず、何も変わっていない。何も起こっていない。これもまた私たちが自分でよくよく知っていることです。

むしろ私たちは「手を挙げる」という行為よりもっとずっと難しくて複雑なことを、たくさんやってきました。子どもの頃から学校でいろいろなことを教わり、塾や習い事でも知識や技術を教えられ、人によっては社会に出てからもスタジオへ何かのレッスンに通ったり、ハウツー本を読んで技術や知識の習得に励んだりしている。誰もがそうです。でも、何も変わっていない。

そして、本人にも「これまでいろいろやってきたけれど、自分は結局まるで変わっていない」ということが深いところでわかっているので、「全身全霊でたった一回手を挙げるだけで、あなたは変わる」と言われたって、そんなことは信じられない。むしろ、こんな「でたらめな話」をすんなり信じるほうがどうかしています。

 

ですが、本当に「秘密」は何も無いのです。しかし、瞑想の師には、弟子がそのことを理解できるよう、前もって論理的に説明する術がありません。何をどう説明しても、弟子が「本当にそれだけ?」と疑っていたら、言葉はまるで無意味だからです。

それであらゆる「回り道」や「方便」が必要になります。言葉による説得によってではなく、弟子自身が実践を通して自得できるように準備する過程が必要になる。「そうか、本当にただ『全身全霊で手を挙げるだけ』でいいのだ」という確信が、弟子自身の内側で力を持つようになるまで、師は弟子にありとあらゆる種類の実践を課し、弟子が挫けそうになる度に、忍耐強く道を進み続けられるよう、彼/彼女を勇気づける言葉をかけるのです。

 

瞑想に多くの技法が存在するのも、ひとえにこのためです。迷いも疑いも抱かず一直線に進むことのできる人には「一つの技法」で十分なのですが、ほとんどすべての人にとって「回り道」をすることは必然です。というのも、「自分自身の本質」ほど近くに在るものは他にないので、「一直線に進む」ということを本当に実践すると、人は一瞬で「目的地」に到達できてしまいます。それでほとんど全ての実践者は「こんな簡単に目的地に到達できるわけがない」と思って、何年も何年も「回り道」的な技法に専心する期間を要します。そうでないと本人が納得できないからです。そして、本人が深く納得していなければ、どんな技法をおこなっても「本質的なこと」は何も起こりません。

 

しかし、「本質的なこと」がなぜ何も起こらないのかを本人が理解するうえで、全ての「回り道」が役に立ちます。なぜなら、「回り道」を一つする度に、「自分はなぜ一直線に進むことができないのか」が少しずつ理解できるようになっていくからです。「最も近くに在るもの」を自分はどうして取り逃し続けるのか、いったいどうやっていつも自分は自分を欺いているのかが、多種多様な瞑想技法に取り組むなかで次第にわかるようになっていくのです。

 

そうして様々な瞑想の技法を実践し続けることで、実践者自身の中に勇気と忍耐強さとが自然と育ってくるのですが、これも最終的に「一直線で進む」際の大きな助けになります。

そもそも、瞑想に限らず人が何か新しい実践を始めるとき、それはいつも挑戦です。実践によって何が得られるかわからず、何を失うかもわからないからです。「それでもあえてやってみる」ということを繰り返すうちに、未知の中に飛び込む勇気が当人の中で徐々に育っていきます。

 

また、同じ技法を毎日繰り返し実践し続けることで、その人は徐々に忍耐強くなっていきます。というのも、多くの瞑想技法は、「非常に地味で骨折りな作業」の繰り返しを実践者へと強いるからです。

たとえば、自分の呼吸の数を延々数え続けるとか、一つの物体をただただ見続けるだとかいったような、「いったいこんなことを続けて何になるんだろう?」と言いたくなるようなことを、実践者は毎日毎日おこない続けねばなりません。こういうことを続けていると、多くの人がきっと何度も何度も「もうやめた!」と叫びたくなると思います。

こうしたとき、タイミングを見て叱咤激励してくれる師の存在や、時折瞑想の進捗具合について情報交換をする仲間達がいると挫けにくくはなりますが、最終的にはその人自身の「やり抜こうとする意志」が絶対に必要不可欠です。たとえ他人が何を言おうと言うまいと、続けるか止めるかを決めるのは、最終的には自分自身以外にはいないからです。

 

この「やり抜こう」という意志は、最初のうち、一種の「強張り」として現れます。

たとえば、「よし、やるぞ!」と思って「瞑想的な作業」に食らいついていると、知らず知らずのうちにその人の息は浅くなり、肩は硬直し、眉間にはしわが寄っています。そういう時には心も同時に固くなって、目の前の物事を豊かに感じたり、自分の内外で起こる変化をそのまま受け容れたりすることが難しくなっているものです。

ですが、このような「強張り」も、実践を続けて行く中で少しずつ溶けていきます。そして、それとは対照的に、意志そのものは強く、明確になっていく。心身はリラックスしたまま、意志だけ強くなる。言い換えれば、一種の「集中力」が身につき始めるのです。

 

この「集中力」が身についてくると、自分で「やる」と決めたことにきちんと面と向かうことができるようになります。自分のしている作業や働きかけている対象に、意識が明確に向けられるようになる。

たとえば、本を読む場合でも、漫然と意識が曖昧なまま読むことをしなくなるので、「あれ、どこまで読んだっけ?」と途中でわからなくなって前に戻ったりすることはなくなります。読んでいるときには、読むことだけに集中して、他のことは考えないように自分で意識の焦点をコントロールすることができるようになるのです。

また、何かを「やる」と決めるときにも、迷いや疑いが生じにくくなります。「やろうかやるまいか…」という中途半端な状態で取り組まず、「自分は今から『これ』をやる」という明確な意識でもって、行為を選択できるようになるのです。

 

瞑想技法に継続して取り組むことによって、こういった「勇気」「忍耐強さ」「集中力」が少しずつ自然と身についていきます。そして、それらの資質が身につけば身につくほど、「何一つ求めず、ただ純粋に手を挙げる」というような単純なことが、「究極の技法」として実践できるようになっていくのです。

「ただ手を挙げる」というだけの行為であっても、ありったけの勇気を持ってそこに飛び込み、その過程で何が起ころうと忍耐強く全てを受け容れ、「これだけに専心し、他には何も求めない」という断固とした決意を持って取り組むなら、「奇跡」が起こすことがあり得ます。

 

とはいえ、実際に「奇跡」が起こるかどうかは、「奇跡」というものが「どこか遠くにあるもの」ではなく、「日常の中に遍く降り注いでいるもの」だということに気づける態度を、本人が持っているかどうかにかかっています。

たとえば、幼い子どもの目には花が咲いている姿さえも「奇跡」と映ります。その花はやがて枯れて消えていく。これもまた「奇跡」です。

しかし、私たちは、「人工的に手を加えて辺り一面を花で埋め尽くす」ぐらいのことをしないと心が動かないほど鈍感になっています。あるいは、世界的にたいへん珍しい花であるとか、有名な誰それが「この花はとても美しい」と言ったとか、そういった外側の基準に則してしか「美しい」と言うことがない。目の前の花の存在に深く打たれ、自分の内側で「美」を感じるということができないまま、私たちは「美しい」という言葉だけを無意識的・機械的に繰り返しています。

 

このような無意識的・機械的な状態からどうやって抜け出すか?

瞑想の課題はまさにここにあります。

いかにして「幼子の無垢」を取り戻すか?

いかにして「無意識的な在り方」から抜け出し、「意識的な在り方」に根付いていくか?

 

しかし、実際には「無垢であること」も「意識的であること」も、別に「難しいこと」をしなければ達成できないものではありません。それらはいつ何をしていても可能です。歩いているときも「無垢な状態で歩くこと」や「意識的に歩くこと」は可能だし、ご飯を食べるときも「無垢な状態で味わい、一口一口を意識的に食べること」は可能です。それがいつでも可能なのは、「何をしているか」が重要なのではなく、「どのようにそれをしているか」が大事だからです。

 

それゆえ、「何をしているかが問題である」と思っている限り、その人は自分の状況をどこまでも不必要に混乱させていってしまいます。というのも、「何をしているかが重要だ」と思っていると、「ただ坐って自分の内側を観察するだけだなんて、こんな『簡単で単純なこと』で何かが起こるわけがない。もっと何かをしないといけないのだ」と、どうしても思ってしまうからです。

「何かが足りない、もっと何かをしなければ」という強迫観念に取り憑かれていればいるほど、その人は「無垢」から遠ざかることになっています。実際、「無垢で在らねば」と思って焦ってしまい、いつもジッとしていられない人というのは、「無垢」からとても遠いところにいます。「無垢であろう」と思ってする努力全てが、その人の「無垢」を阻害し、破壊してしまうからです。

 

しかし、もし十分意識的に通過するのであれば、全ての努力が「無垢」を実現する役に立ちます。

というのも、もし当人が瞑想の技法を無意識的・機械的にただ何千回も反復することをやめて、一回一回意識的にそれに取り組むならば、「自分の努力こそが最大の障害だ」ということに誰もが必ず気づかざるを得なくなるからです。無意識に反復しているだけでは気づかないことでも、注意していれば気づくものです。

ここで初めて、自分のやっていることの矛盾を、論理的に理解できるだけでなく、体験的に悟ることができます。そうすれば、徐々に努力を捨てることもできるようになっていきます。そして、自分の中の努力が一つずつ落ちていき、もう落とすべき努力がなくなったとき、「無垢」は既にそこに在ります。「無垢」はずっとそこに在ったのに、私たちの「絶え間ない努力」が、それを見つけることをいつも邪魔していただけなのです。

 

努力によって「新しい技術や知識」を外からくっつけることに躍起になっている人が多い昨今、「自分が生まれたときから持っていたもの」を再発見するために「努力を捨てるための努力」を続ける人は稀です。ですが、瞑想者とはまさにこのような「稀な人」に属します。

そういった人は別に「特殊なこと」や「難しいこと」はしません。ただ一日一日を「新鮮な気持ち」で生きようと絶えず努めているだけです。そして、いついかなるときも意識的に食べ、働き、話し、眠くなったら寝るのです。

でも、そのような「ありきたりな振る舞い」の内側では「奇跡的な無垢」が瞬間毎に深められています。それはまさに「他人の目には見えない奇跡」なのです。

 

こういった「内なる奇跡」は当人がどういう立場で何をしているかとは関係がないので、「奇跡を日々生きている人たち」というのは、この世界のどこにでもいます。公園に行っても、スーパーに行っても、そのへんの道を歩いていても、どこに行っても「彼ら」はいます。

しかし同時に、「無垢な人」というのは、その姿があまりにも「普通」なので、ほとんどの場合、「無垢を失った人」と見分けることができません。私たち自身が「無垢を失った目」で人や物を見ていると、「無垢を内側に取り戻した人」と「無垢を失ったまま生きている人」との区別がつかないのです。

 

瞑想は、「『特別な人間』になりたい」と願っている人には無縁なものです。なぜなら、瞑想の実践は、当人を「特別な存在」にするのではなく、「本来の在り方」へと定めるからです。

そして、「本来の自分自身」に深く定まったとき、その人は必ずや「個性的な人」になります。その「個性」は、「特別なもの」ではなくて、「唯一無二」のものです。

実のところ、「『特別』で在りたい」と願っている人ほどに、「ありきたりな人間」というものはいません。実際、誰もかれもが「唯一無二の自分で在ること」よりも、「他人から認められるような特別さ」を求めて駆けずり回っている。なぜなら、「ありのまま自分の生」が、それを生きている当人の目には、しばしばあまりにもみすぼらしく見えるからです。

 

しかし、「ありのままの自分」にゆったりとくつろいで、「与えられた場所」で懸命に一日一日を生き切るならば、そうした日々は、当人にとって紛れもない「リアリティ」と「輝き」を持っているように感じられてくるものです。つまり、まったく同じ「ありきたりな日常」を、「みすぼらしいもの」として見るのか、「輝いた日々」として見るのかは、完全に「本人の主観」次第であるということです。

そして、そのいずれの場合であっても、そうして現に生きられた日々は、他の誰とも違う、「その人自身の生」に他ならないのです。

 

「特別さ」は他人の評価に依存してしか存在できません。しかし、「唯一無二性」は私たち全員の「宿命」であり、元から内側に自存しています。

そして、この「内側に自存する個性」をこそ育み、よりいっそう「自分自身」へ向かって純化していくための方便こそが、瞑想技法の実践なのです。

(2019年3月30日 加筆修正)

 

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