「怒り」が支配するとき

「怒り」とは、いったいどんな体験でしょうか?

たとえば誰かに侮辱される。または、非常に理不尽な目に遭う。まるで自分の苦労を理解してもらえず、それでいて不当な要求を受ける、などなど。いろんな場面で私たちは「怒り」を感じると思うのですが、そういうとき、どれだけ「自分が怒っている」ということに気づけているでしょうか?

私たちは非常に多くの場合、怒り始めたあとになってから「怒っている」ということに気づきます。気がついたときにはもう「怒り」のただ中に巻き込まれている。人によってはひとしきり怒って他人や物に当たり散らした後になってから、冷静になって「自分が何をやったか」ということに気づく場合もあるでしょう。そして、その人は「怒りが自分を乗っ取ったのだ」と言います。

 

怒っているとき、私たちはいったいどこにいるのでしょうか?

そういうときには、まるで「怒り」が全てをコントロールしている操縦者で、私たちはむしろ「怒り」によって操作されているただの「機械」のようです。「怒り」が去った後になって、私たちはまた「操縦席」に戻ってくるわけですが、すると見るも無惨にあらゆるものが引き裂かれ、ボロボロに傷つけられていることを発見します。そして、「もう簡単には怒らないようにしよう」と決意する。

しかし、やっぱりまた「気がつくと『怒り』が自分を操縦している」という状態に陥ってしまいます。それで「言ってはいけないこと」を言ってしまったり、「壊してはいけない物」を壊してしまうことになり、全てが終わった後になってから、自己嫌悪を感じつつ再び反省します。

 

こんな風に「後になって反省すること」がまるで効果を持たないのは、私たちが「怒り」に操作されないように闘おうとするためです。「怒り」は一つの身体的な現象であり、「痛み」や「痒み」と同様に、それが発生するにはそれだけの理由があります。「怒り」そのものを抑圧して支配しようとすると、まるで自分の右手と左手で取っ組み合いをするように、決着のつかない泥仕合になります。戦略として有効なのは「『怒り』そのものが発生しないようにすること」よりも、「すでに生じている『怒り』が自分を操作しようとすることに協力しないこと」のほうです。

「『怒り』が自分を操作している。自分は『操縦席』にいない」と感じたら、落ち着いてもう一度「操縦席」に坐るのです。そして、そのまま「大切な品物をお盆に載せて運ぶとき」のように注意深くあると、少しずつ「怒り」による操作は弱まっていきます。「怒り」はまだそこにありますが、徐々に「支配する力」を失い始めるのです。

 

もし注意深く観察していれば、「怒り」がどういう瞬間に「操縦席」に坐るかを自分で目撃することもできます。また、自分がいったいどういう口実で「怒り」が「操縦席」に坐るのをいつも許してしまっているのかも、ここにきて初めてわかるようになる。

「怒り」に気を許さなければ、「操縦席」を奪われることはなくなります。「怒り」は相変わらず存在していたとしても、「怒り」の側に取り込まれることはなくなっていく。反対に、「怒り」を自分の側に取り込むことができます。

怒りは身体現象であるだけでなく、エネルギーの現れでもありますから、「怒りが生まれる」ということはそれだけの潜在的なエネルギーを当人が有しているということを意味します。それゆえ、エネルギーが枯渇していたら、怒る元気もなくなります。

もし「怒り」に支配されてしまうと、そのエネルギーは破壊的な仕方で浪費されてしまいます。たとえば、他人を傷つけるとか、物を壊すとかいった仕方で、自分にとっても必ずしも望ましくはないことのためにエネルギーが使われてしまう。

ですが、「怒り」を抑圧して追い出すのでもなく、「怒り」を倒そうとして闘うのでもなく、ただ注意深く「自分の怒り」を見つめていると、そのエネルギーは別なことのために使えるようになります。エネルギー自体はいつも「中立」です。だから、もし「エネルギーに使われる状態」から脱することができれば、自分の望む仕方で「エネルギーを使う状態」に留まることができます。

 

重要なことは、「怒り」が「操縦席」に坐ろうとしたときに、落ち着いて「今は自分が操縦するから」と「怒り」に対して告げることです。「自分が何を言うか、何をするかは、自分自身で決めるから、代わりに決めてくれなくてもいい」と「怒り」に向かって言うことです。

私たちは「怒り」にいつも協力してしまいます。そうして「怒り」に責任を転嫁してしまう。「あれは怒りに我を忘れてつい言ってしまったのだ」とか「怒りに乗っ取られてついやってしまったのだ」とかいった仕方で言い訳してしまう。

でも、本当は「怒り」が「操縦席」に坐るとき、それを許したのは本人なのです。「何を言い、何を言わないか」「何をして、何をしないよう努めるか」についての決定権を、どこかで「怒り」に譲ってしまったのです。

 

たしかに、「何を言ったか」「何をしたか」についての責任は「怒り」にあるのかもしれません。

ですが、「怒り」に最終的な決定権を与えたのは、まぎれもなくその人自身です。「『怒り』がたとえ何をしても、自分はその結果を全て受け容れる」という自覚の元に決定権を与えたのなら、それはそれで一つの選択でしょうけれど、「気づいたら乗っ取られていた」というのであれば、そこには選択の余地がありません。

 

「怒り」が自分を乗っ取ろうとし始めたときに、「選択の余地」を作り出せるかどうか?

「怒り」によって「自分の生命力」を浪費しないためには、それこそが重要なことです。

「怒り」と闇雲に闘うよりも、ただただ注意深く「操縦桿」を握っているほうが、「選択の余地」は多く残せるだろうと思います。

 

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