「穏やかさ」の種を育てる

「穏やかさ」とはどんなものでしょうか?

「ゆったりとしていて、あくせくしていない状態」というイメージがなんとなく浮かびます。

では、そもそも私たちがゆったりしていられる時というのは、いったいどういう時なのか?

 

そう問われれば、「休日に家で何の義務も課されていない時」という風に思う人もいるかもしれません。たしかに、子ども達にはいつも宿題があるし、主婦や主夫には日々の家事があり、勤め人には家に持って帰ってきた仕事があるでしょう。そういったものからさえも解放されて、「もう何もしなくていい」という時、きっとのんびりゆったりできるだろうと多くの人が思っている。

でも、実際に「何もしなくていい」と言われるとたちまち困ってしまうのが私たちの実態です。

「何も命令されていない、何もする必要が無い」という状況において、私たちは突然途方に暮れてしまいます。なぜなら、何もしないでいると、私たちの内側に潜んでいた無数の問題が意識にのぼってくるからです。

普段、誰かに命令されて何かをしていたり、脇目も振らずに何かの行為に没頭していたりする時には見過ごされている多くの問題を、私たちは自分の内側に抱えています。それはまるで昼の空に浮かんでいる星々のようです。星は別に夜になったときだけ存在するわけではありません。それはいつも在るのですが、昼のうちは太陽の光がまぶしすぎるので私たちの目に映らないだけです。でも、夜になって光が消えると、途端に星々が姿を現わす。まるで、星がそれまではそこに存在していなかったかのように。

 

私たちが一人きりでリラックスしようとするとき、それまで日常的な活動によってじっくり見ている暇のなかった「自分の内側」が、溢れ出し始めます。人はそのとき、「空虚さ」を感じたり、「苛立ち」を感じたりします。それで慌てて何かすることを見つけようとする。

ついさっきまで「ゆっくりくつろぐこと」を何より求めていたはずなのに、いざゆっくりしていてもよくなると、途端に「すること」を探し出すのです。自分の内なる空虚、虚しさや寂しさ、怒りや欲求不満といったものが、自分の目に映らないようにしようとする。

「そんなことはない、自分はただ活動的でありたいだけだ」と言う人もいるかもしれません。受身で待っているだけではなく、自分からもっと何かを創造したいのだと。でも、もしその活動が「一人で家でじっとしていられない」がゆえに為されるものであるならば、そういう在り方を「能動的」とは言えないと思います。

なぜなら、その時その人は、「何か行為することを強いられている状態」にあるからです。「何もしないでいること」を選べなくなっている。つまり、「『何かをすること』を自分で選んだ」のではなくて、「『何もしないこと』をどうしても選べなかった」というのが実態なのです。

 

「穏やかさ」というものを消極的で弱々しい態度だと考える人もいますが、実際には違います。

「穏やか」であるためには、人は「何もしないこと」に留まれるほどに心が豊かでなけらばならないからです。

「何もしないこと」に留まることができない人は、自分の内側が「砂漠」のように干上がっています。いったい誰が「砂漠」に居たいと思うでしょうか?誰もができたら「オアシス」でゆっくりしたいと思う。それだからこそ、「もっとたくさん努力して楽していられるようになろう」と考えるのです。

多くの人は「オアシス」を実現しようと懸命になって勉強したり働いたりしています。「もっといい成績を取ったら、もっとたくさんのお金を得たら、もっと名声を獲得したら、きっとその時は一人でゆっくり落ち着いていられるだろう」と思うからです。

でも、往々にして努力によって何かを獲得した後に本人が気づくのは、相変わらず自分の内側は「砂漠」のままだということです。

ひょっとしたら、外側の人々はその人の「達成」を賞賛しているかもしれません。しかし、当人だけは知っています。実際には何も変わってなどいないと。

 

「自分のありのままを受け容れること」ほど難しいことはありません。私たちが「ありのままの自分」を受け容れるためには、それがどれほど貧しいものか一度直視しないといけないからです。

たとえそこが「草木も生えない砂漠」であろうと、他に行くことのできる場所はないのです。他の場所に行こうとすると、「砂漠」の景色に「オアシス」の絵が描かれた張りぼてを立て掛けることくらいしか私たちにはできません。しかし、いくら「活動」によってそこから目を逸らそうとしても、「砂漠」がなくなるわけじゃない。昼になっても星々が消えたわけではないのと同様に、張りぼてをいくら重ねても「砂漠」は決してなくならないのです。

 

「穏やか」でいるためには、「自分の内なる砂漠」を直視する勇気が必要になります。「なぜ自分はこんなにも駆り立てられているのか?どうして落ち着いて何もせずにいることができないのか?」ということを、誤魔化すことなく自問していかないといけない。

そこには「他人に認められたい」という欲があるかもしれないし、「誰かにチヤホヤしてもらっていないと自分を保てない」という弱さが潜んでいるかもしれません。「他人を束縛して自分の支えに変えたい」という欲求があれば、「一人きりでいること」は当人の中に「支えをなくす恐怖」を呼び起こすかもしれません。

自分の欲深さ、自分の弱さ、自分の卑劣さ、恐れ、怒り、羨望、嫉妬…内側はまさに「地獄」のようなものかもしれない。しかし、それが「ありのままの自分の実態」であるならば、「そこにあえて留まって事実を直視する」以外の選択肢は全て誤魔化しであり、一時的な目くらましにしかなりません。「地獄」さえも受け容れる勇気と強さがなければ、真に「穏やか」であることはできないのです。

「穏やかな人」は自分の内側で渦巻く苦悩を一度全て味わっています。そのうえで、自分の内側の「地獄」を否定することを止めている。現に自分が居る場所が「地獄」であるならば、そこから始めるしかないということを当人は知っているからです。

「地獄」の中に、外から「美しい花」を持ってきて植えても、土が悪ければすぐ枯れてしまいます。「地獄」をそのまま「地獄」と見て、そこに「自分自身の種」を植え、日々自分で世話をしていく以外に、「地獄」に「花」を根付かせる術はありません。

 

しかし、本当は「地獄」などどこにもありません。ただ、私たちの「否定性」があるだけです。

実際には、「こんな自分は受け容れられない」「現実はこうでなければならない。それ以外はダメだ」という私たちの「選り好み」があるだけなのです。

だから、「私はこれこれであったらその時だけ受け容れる」という条件提示を全部引っ込める用意のある人にとっては、「穏やかでいること」ほど簡単なことはありません。なぜなら、そのとき「穏やか」でいるためには何の努力も必要ないし、時間を掛ける必要もないからです。それはいつでも、今この瞬間に実現できます。

しかし、そのためには「十分な用意ができたら、その時は受け容れよう」という条件さえも引っ込めなければなりません。用意ができていようといまいと、ただちに全てを捨てて、「事実」の中に飛び込めるのでなければならない。

 

ただ、私たちの表面的な意識が望もうと望むまいと、そもそも私達の「内なる中心」は常に「穏やかさ」に向かって流れていこうとしています。それはちょうど水が、ほっておいても高いところから低いところに流れていくようなものです。「安らいでいくこと」を私たちが何も妨げなければ、全ては落ち着くべきところに落ち着き始めます。

だからこそ、私は「不自然なこと」に反対し、「自然なこと」を重視します。「不自然なこと」を強いれば人はどんどん恐怖と不安を育て、緊張感でいっぱいになっていきますが、「自然なこと」に身を委ねていけば、人は必然的に、何の努力も葛藤もなく、自ずから「穏やか」になっていくように初めからできているからです。

もちろん、何が「自然」かを確実に判定してくれる人はどこにもいません。ただ各自が「自分の命」に向かって問うていくしかない。

闘うことも、泣くことも、「自然」な場合があれば「不自然」な場合もあります。一人で落ち着いて坐っていることだって、「自然」な場合もあれば「不自然」な場合もあるのです。

基準はどこにもありません。どんな教師が与える基準も、一つとして完璧ではない。

ただ私たちの「命」だけが知っています。それは、瞬間瞬間、「自然」を表現しているからです。

風と同じように、水と同じように。

 

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