続・「内側」に耳を傾ける

以前の記事で、「『身体の声を聴く』というのは『技術』ではなく、『態度』のようなものだ」と書きました。たしかに、「身体の声に耳を傾ける」というのはやり方の決まった「技術」ではないと思うのですが、ほとんどの人にとっては、最初はやはり「技術」として習得する過程が必要になるのではないかと考え直しました。

これについてはダンスでも事情が同じで、本当なら「踊り」というものは誰かに習わなくても内側から自然にあふれ出てくるものです。5~6歳くらいの遊んでいる子ども達を見ているとわかりますが、彼らは頻繁に踊っています。別に音楽もかけていないし、「誰かに見せよう」とか「綺麗に動こう」とかいったことも考えていませんが、自分の感覚や感情の有り様を実にストレートに身体の動きで表現しています。

走る、跳ぶ、回る。または、突然勢いよく手を挙げたかと思ったら、全身をユラユラ揺らし始め、さらには勢い余って転んでしまう…、などなど。およそ「大人がしそうもないこと」を彼らは何の考えも躊躇もなく実行し続けます。

 

もし街中で、大人が何の目的もなく跳んだり走ったりしていたら、きっと私たちは「気が狂ったのだろうか?」と疑うでしょう。「仕事や学校の時間に間に合うように」とか「たくさん走って体力をつける」とかいった目的があって走っている人なら見かけますが、「何の目的もなく走っている大人」がいたら、そういう人は狂人扱いされる。

子どもというのは「ただ走る」ものです。もし子どもに「どうして走っているの?」と聞いても、きっとその子はうまく答えられないでしょう。「目的」なんてないからです。「どこかに行こう」と思って走っているわけじゃない。ただ、その子の内側で動いているエネルギーが外側へ迸り出ることを求めているので、走らずにはいられないだけなのです。

しかし、「目的」や「意図」というもの無しではほとんど何もできなくなってしまっている大人の側は、そういう感覚がもはやわからない。それで子どもに対して「見当違いな質問」をしてしまうことになるのです。

 

「身体の声を聴く」ということは、子どもにとっては呼吸をするのと同じくらい自然なことです。

彼らはそれを全く意識していない。自分が何をしているかまるで自覚しないまま、「身体の声」に従っています。

しかし、私たち大人は、あくびの一つさえも考えてからでないと行えません。私たちは「今この状況であくびなんてしてもいいのだろうか?」ということを常に計算し、他人から白い目で見られない範囲であくびをします。だから、そのあくびは全身を巻き込むほど大きなものには育つことがありません。

もしもあくびを思い切りしようとすると、自然と身体を伸ばしたい欲求が内側から起こってきます。そして、その内的な欲求に従っていけば、口や喉以外の全身を使った運動が引き起こされる。でも、「社会的な決まり事」からこれを抑制することを慣れすぎてしまった大人にとっては、もうあくびは口だけの運動しか引き起こしません。中には、「口における運動」さえ自分の身体に許していない人もいます。

こうなってしまうと、あくびによって引き延ばされるはずだった筋肉は強張りを解くことができなくなっていきますし、筋肉の持続的な強張りは心の中にも詰まりや硬直を作り出します。気持ちがスラスラ流れていかず、滞るようになってしまう。

 

しかし、だからといって「いつでもどこでも好きなときにあくびを思い切りするべきだ」ということにはなりません。私たちが社会生活を営んでいる以上、そういう短絡的な結論に飛びついてしまうと、これはもう人の誰も居ない山にでも籠もるしかなくなります。

ここで注意して理解するべき点は、私たちがどれだけ「身体の声」に対して無意識であるかということです。

そもそも子ども達は「身体の声に従う」ということを呼吸と同じくらい自然に行っています。野生の動物や人間の赤ん坊はこの極致にあり、彼らは排泄の欲求さえも、社会的な決まり事によらず自分の都合で処理しようとします。

反対に、社会的に教育された大人はあくび一つ満足に身体の求めるまま行うことができません。そして、「教育」があまりにも深くまで浸透してしまっていると、大人は「身体の声を無視する」ということを呼吸と同じくらい無意識に行い続けるようになる。

つまり、「まだ十分に教育されていない子ども」も「十分すぎるほど教育されてしまった大人」も、「身体の声」に対して無意識に反応しているという点では違いがないのです。「無意識的な反応」という意味では、動物もまた同じでしょう。

 

人間の大人だけが「別の選択肢」を取ることができます。それは、「身体の声」に対して意識的に向き合っていくということです。

私たち大人は、いつでもどこでも「身体の声」にそのまま従うというわけにはいきません。私たちは既に教育されてしまっているからです。私たちは教育されることによって、ある意味で「動物の次元」から抜け出しましたが、それによって「身体の声」に従うか従わないかを常に自分で選ばねばならなくなったのです。

「動物」も「子ども」も無選択に「自然」です。彼らには「不自然であること」を選ぶ自由がない。人間の大人だけが「選択の自由」を持っています。私たちは「自然であること」と「不自然であること」という両極の間に存在しており、どっちに向かって進むことも自分で意識して選ぶことができる唯一の存在なのです。

「身体の声に耳を傾ける」ということは、この事実を何度も繰り返し自覚することに他なりません。私たちはもはや「完全に自然」ではなく、かといって「完全に不自然」というわけでもありません。たとえどれほど「社会的な教育」によって「不自然」に歪められたとしも、もともと「自然」から生まれたものが「全くの不自然になる」ということはあり得ないからです。

 

「身体の声に常に従う」のでもなく、「身体の声を常に抑圧する」のでもなく、ただただ「身体の声に意識を向ける」。自分の身体はいったい今ここで何をしたがっているのか、注意深く耳を傾けながら、そうして聞き取った声をどういう仕方で受け止めるのかを意識的に選び取っていく。

「身体の声に耳を傾ける」という在り方は、そんな風にも表現できるのではないかと思います。

 

呼吸法や瞑想法、ヨガや武道やダンスなど、どんな技術でも「身体の声を聴く」という在り方を深める上で役に立ちます。しかし、もしそれらが「社会的な教育」と同じように、「身体の声の抑圧」を助長するようなら、どんな技術をどれだけ習得しても役には立ちません。

習った技術を「ただの技術」にしてしまうのか、それらを踏み台として使って「単なる技術以上のもの」へと向かうのか。

これもまた、一人一人の「意識的な選択」だろうと思います。

 

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