呼吸について

瞑想の技法においては、呼吸がしばしば利用されます。

それは呼吸がいささか特殊な性質を持った身体現象だからです。

たとえば、呼吸は自分の意識によって変化させることもできるし、まったく無意識に続けることもできるものです。心臓の拍動や消化管の蠕動運動は意識的に直接変化させることはできませんし、筋肉を使った身体の運動は、たとえば深く眠ってしまうなどして完全に意識がなくなると続けられません。呼吸は起きていても眠っていても、生まれてから死ぬまでずっと続くものであり、変化させようと思ったらいつでも変化させられます。

言い換えれば、呼吸は、私たちが何かを考えたり物事を認識したりする際に働かせている「意識の浅い層」と、私たちの命そのものに滋養を与えこれを活かしめている「意識の深い層」との両方にまたがって作用するものと言えるのです。

 

それゆえ、「意識の浅い層」で「呼吸をこういう風に変えてみよう」と思ってこれを実行すれば、「意識の深い層」にも変化が起こり、感情や感覚が変化したり消失したりします。「深くゆったりした呼吸」をしながら同時に怒るということが難しいのも、ここに理由があります。それは「深くゆったりした呼吸」によって、「意識の深い層」にも穏やかなリズムが生み出されるからです。

ヨガや武道などの呼吸法で「特殊な呼吸の仕方」を練習するのは、意識的に呼吸をコントロールすることによって「意識の深い層」に働きかけ、目的とする身体的な反応や心理的な状態を発生させるためです。「こういう呼吸の仕方をしていると、身体にはこんな反応が起こる。心の状態はこういう風になる」という対応関係が、これまで歴史的にたくさん検証されてきたので、「どういう呼吸をすれば生命力が高まるか」とか「どんな呼吸を実践すれば心が落ち着くか」とかいったこともある程度はわかっています。そういった歴史的蓄積を元に、「身体にこういう反応を起こしたい」とか「心をこういう状態に持っていきたい」とかいった目的に合わせて、自分の呼吸を意識して操作するのが、世間で広く実践されている「呼吸法」です。

 

これは「意識の浅い層」から「深い層」に向かって働きかける呼吸の利用法です。

なぜわざわざ呼吸を利用するのかと言えば、催眠術などにかかって「意識の深い層」への道が完全に開通している状態にでもなっていないと、「深い層」に直接働きかけるということはなかなかできないからです。しかし、もしも「意識の深い層」を変えることができれば、私たちは「意識の浅い層」で「自分の力はこれくらいだ」と思っていた限界を大きく超えて能力を発揮することができるようになります。「火事場の馬鹿力」というのも、「このままだと死ぬかもしれない」と感じて「意識の浅い層」で考えるより先に、「深い層」が働き出すことによって潜在的な力が引き出されたものだろうと思います。

ただ、「催眠状態」や「火事場」で発揮される力というものは、「外的状況によって無意識に発動させられるもの」なので、意識的にコントロールすることができません。そこで、意識的にコントロールできる呼吸が利用されるわけです。

 

しかし、この呼吸の操作による「意識の深い層」のコントロールは、それだけでは、ある限界を抱えています。というのも、「浅い層」から「深い層」をコントロールするというだけでは、上から下への流れしかなく、下から上への流れが欠けてしまうからです。

もし私たちが「浅い層」によって「深い層」をいつもコントロールしようとすると、「浅い層」によって「こういうものは受け容れられない」と判断されたものは全て抑圧されて認識することができなくなります。たとえば、自分の中に怒りがあるとき、その怒りの存在を受け容れたくないと私たちが「浅い層」で思っていると、「深い層」で現にどれほど怒りが沸き立っていても、それに自分で気づくことができなくなります。しかし、どれほど抑圧して自分から見えないようにしても、「深い層」で流れている私たちの生命力そのものがなくなることはありません。それゆえ、抑え込まれた怒りは、私たちの意識の「浅い層」がうまく認識できない経路を使って、外側に出てこようとします。

たとえば、「お前のためを思って言っているんだぞ!」と怒鳴り散らしている人は、自分自身では「善意で他人を指導している」と思っていますが、実際には、内側深くに鬱積した怒りのエネルギーを抱えておけなくなって、「説教」という形式を利用してこれを放出しているだけです。「相手のために怒っている」のではなくて、内側に蓄積してしまった「個人的な重荷」を一時的に下ろしたくて怒鳴っているのです。

しかし、本人の「浅い層」はそれを自覚していません。それというのも、「目についた他人を次々ぶん殴る」とか、「誰彼構わず口汚く罵る」とかいった「浅い層」にも理解できるような「わかりやすい仕方」では、「深い層」が自分の怒りを表現していないからです。

 

私たちが直面することを避けようとして「深い層」に押し込めたものは、全て「より自覚しにくい形」で外に出てきます。「内側に在るもの」は必ず外に出ようとする。それが私たちの意識の「深い層」における基本的な力学です。

この基本法則そのものを変えることはできません。私たちはみんな生きているので、「深い層」にはいつも私たち自身の生命力が流れています。それは時として嵐のように荒れ狂うときもあれば、澄んだ湖のように凪いでいるときもあります。しかし、そこでは常に滾々と湧水が溢れ出すように、私たちの命が湧き出ています。もしそれを完全に否定したいなら、自殺する以外に手はありません。

 

「深い層」には独自の法則が在り、この法則そのものは「浅い層」でいくら呼吸の仕方を変えてみても、絶対に変えることができません。私たちにはせいぜい「深い層」の法則に従って呼吸をコントロールすることができるだけなのです。

「深い層」はいわば私たちの根であり、「浅い層」は枝葉や花のようなものです。枝葉は目に見えるし、花は特に人目を引きます。でも、根がなければ枝葉も花もすぐに枯れてしまう。枝葉や花といった「後からできたもの」が、根っこのような「先に在ったもの」を支配することは絶対にできません。そういう試みは必ず失敗します。

しかし、世間で広く行われている「呼吸法」はまさにこの「不可能な試み」を行っているのです。

 

私は先に「呼吸による『深い層』のコントロールは、それ単独では技法としての限界を抱えている」と書きましたが、その理由はここにあります。

「浅い層」はあくまでも「深い層」に根ざしているので、「浅い層」によって「深い層」を支配することは決してできません。「浅いところ」から「深いところ」への流れだけでなく、「深いところ」から「浅いところ」への逆向きの流れもなければ、「円環」は完成せず半分に欠けてしまいます。

 

たとえば、私たちが「呼吸をコントロールすることによって自分の心身をこう変えたい」と望むとき、なぜ「変えたい」と思うのでしょうか?

もっと落ち着きたい。もっと肉体的に健康になりたい。

人によってはそういった動機で非常に熱心に呼吸法を実践することもあると思います。

でも、「落ち着き」は求めて得るものではなく、何かを「掴もう、掴もう」と思って握りしめている手を開いてほっておいたら自然と生まれてくるものです。

また、「もっと健康にならねば」と思って、何かしらの「健康法」で言われていることをみんな律儀に守ろうとした結果、かえって気持ちが堅苦しくなり、心身ともに「不健康」になることもあります。

 

どうしてそんなに「落ち着きたい」のか?

どうしてそこまで「健康」に執着するのか?

 

たとえばそこには「落ち着いていたら、もっと仕事や勉強が能率良く行えるから」という打算があるのかもしれない。また、どうしてそんなに「能率」を気にするのかと探っていけば、社会的に「能率良く物事を行う人間」が賞賛される傾向にあるからなのかもしれない。「もっと人から認めてもらいたい」「評価してもらいたい」という欲があって、「落ち着き」を求めずにいられないのかもしれない。そこには、誰からも認められず、評価されないことへの「恐れ」があるかもしれません。

健康については、もっと「恐れ」との結びつきがわかりやすい。「健康でなくなること」への「恐れ」が強すぎて「健康法の決まり事」にしがみついている人は、意外と多いものです。そこには「もっと活き活き溌剌と生きられるようになりたい」とか「自分の心身の能力を伸ばして、こういうことに挑戦してみたい」という積極的な気持ちがあるわけではなく、ただただ漠然とした不安感がある。そして、その不安感を打ち消すために「特定の食事法」や「特定の運動法」にしがみついて、身動きが取れなくなってしまっている人が、世の中には実にたくさんいるものです。

 

「落ち着きたい」という欲を捨てれば「落ち着き」はもうそこに在るし、「何が何でも健康でありたい」という執着を捨てれば「生命力」は自然と高まります。

でも、そこで「落ち着き」が実現したり、「生命力」が高まったりするのは、私たちの命そのものの働きによるのであって、「意識的なコントロール」によるではありません。

私たちの内側にある命そのものが、「落ち着き」をもたらし、「生命力」を一瞬一瞬生み出し続けているのです。

意識の「浅い層」によって「深い層」をコントロールしようとするだけの「呼吸法」は、そういった「命そのものの働き」に対する敬意と関心を欠いた態度によって成り立っています。

そもそも、「自分自身の命の働きを操作するために呼吸を利用する」ということそれ自体が、「不敬なこと」とも言えるのではないでしょうか?

 

もし「呼吸法」を実践するのであれば、「自分の命」に対する畏敬の念を忘れるべきではないと、私は思います。

「浅い層」から「深い層」に働きかけるだけでなく、「深い層」が「浅い層」に向かって語りかけてくる声にも耳を傾けるべきだと思うのです。

ひょっとすると、その声は時として受け容れがたいものかもしれません。でも、それもまた「自分の命」から生まれ出た声なのです。だから、それを否定することは、「自分の命」を間接的に否定することに他ならない。

 

もしも「自分の命」を否定したままで、「呼吸法」という何かしらのメソッドによって「命の力」を高めようとしても、その試みは決して上手くいきません。必ずどこかで限界に突き当たります。

しかし、「呼吸法」という「特定の技術」は誰でも教えることができますが、「そもそも呼吸を可能にしている命そのものへの敬意」だけは直接教えることができません。

それはただ、教える人の一挙手一投足によって、一つの「態度」として表現することができるだけなのです。

 

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