「努力」という不条理について

「努力」というのは、なんだか変な言葉だなぁ。

私は中学生くらいの頃から、そんな風に考えていました。そもそも人間には「努力」というものは不可能なのじゃないかと、学生時代の私には感じられていたからです。

世の中の大人達は「もっと努力しなさい」と口をそろえて言うけれども、「努力」というのは「しよう」と思ってしている限り、必ず「偽物」になるんじゃないかと思えて仕方なかったのです。

 

たとえば、頑張って学校の勉強をする場合、「あんまり面白くないなぁ」とか「別にこんなことしなくてもいいんじゃないかなぁ」とかいったことを考えていると、なかなか身が入りません。でも、「努力していっぱい勉強しなければならない」と親も教師も言うし、他のクラスメイト達も「もっと頑張って勉強したほうが、やっぱりいいんだろうなぁ(イヤだけど)」という認識は漠然と共有しているので、本心ではやりたくないのを我慢して、多くの子ども達が机に向かうことになります。

 

「やりたくなくても無理してやる」というのを「努力」だと言う人もいるでしょうけれど、当時の私にとっては、そういうのは「我慢」であって「努力」とは違う種類の営みなんじゃないかと思えて仕方ありませんでした。

この考えは今も変わっていません。むしろ昔よりも明確に自分が抱いていた違和感を言葉にできると思います。

「努力」というのは、そもそも「しよう」と思ってするものじゃない。むしろ「いつの間にかしてしまっているもの」だと思います。

たとえば、誰しも子どもの頃に夢中になった物事が一つや二つはあると思います。それをしていると時間が経つのを忘れてしまうようなこと、他のことをしていてもついついそれについてばかり考えてしまうようなことです。

幼い子どもは実に色んな物事に夢中になります。たとえば、蟻が巣穴に出たり入ったりしているのを30分でも1時間でもジーッと見ていて飽きない子もいるし、目につく紙に手当たり次第何かを描き続け、紙が足りなくなると壁に描き出すような子もいる。ひょっとすると、彼らはそこからさらに蟻以外の虫全般について本を読んで調べ始めるかもしれないし、絵を描き続けることによって芸術的な才能を開花させるかもしれません。大人だって読まないような難解で分厚い本を図書館へ借りに行くかもしれず、美術用品店に並んでいる本格的な絵の具やカンバスを欲しがるかもしれない。

 

もし状況が許せば、そういう子達は誰かに「努力しなさい」と言われるまでもなく、どこまでも「深み」へいきます。

彼らは自分自身で必要な情報を集め、次に何をするべきか考え、「すること」が決まったら徹底してそれを実行します。また実行の過程で体験したことや、結果としてわかったことなどを元にして、「さて、では次は何をしようか」と考える。こうしてあたかも「自動回転する車輪」のように、彼らは自分の能力を成長させ続けます。

これを見て、大人の側は「いっぱい努力して、偉いなぁ」と言うかもしれませんが、本人達からしたらそれは「努力」でもなんでもなくて、「したくてしていること」、あるいは、「せずにはいられないからしていること」なのです。

 

子どもの頃の私にはそこまでの「深み」に到達するほど夢中になれるものはありませんでしたが、それでも「本当に努力しているときには本人はそれを自覚していない」という実感はありました。私が何かを本心から「したい」と思っているとき、その取り組みは必ず真剣味を帯び、「自分は成長している」という実感が一歩一歩の歩みから実感されました。そして、そういうときには、イヤなことを無理してやっているときにどれだけ時間をかけても達成できなかったようなことも、気づいたら達成してしまっていたものです。

反対に、「自分は努力している。辛いのに無理して頑張っている」と思っているときには、たいてい何も達成できなかったし、取り組みの前後で自分自身に何の変化もありませんでした。きっとそういう時には「やりたくないことを無理してし続けること」にほとんど全てのエネルギーが注がれてしまい、「自分を成長させるエネルギー」なんてまるで残っていなかったのだと思います。

 

そういった経験を何度かするうちに、私は「努力する」ということは不可能だと考えるに至りました。

もし本人が意識して「努力」をしていたら、その「努力」は決まって「底の浅い作り物」になってしまう。「努力」が「本物」になるときはいつも、当の本人は「努力しよう」なんてまるで思ってもいない。ただ「これをしよう」と思ったことに、徹底して没入しているだけです。

私が思うに、「努力」という言葉は、そんな風に「自分のやるべきことに没入している人間」を外から見ている他人が感じた「羨望」とか「憧れ」の別名なんじゃないかという気がします。「自分のやるべきこと」「どうしてもやりたくて仕方の無いこと」に取り憑かれてしまっている人間というのは、その人自身を超える「何か大きなもの」に突き動かされているように他人の目には見えるので、ある種のカリスマ性を身に帯び始めることがあるからです。

「自分が心からやりたいこと」や「どうしてもそれをせずにいられないこと」を持っていない人は、このような「没入している人間」の魅力に抗うことができません。その在り方に憧れて引き寄せられるか、嫉妬を感じて遠ざけようとするか、どちらかの反応を取りたくなる。いずれにせよ、「何事にも没入できない人間」は「何事かに没入してしまう人間」に対して、「無関心」であることができない。

 

「何にも没入できない人」というのは心の深いところに「欲求不満」を抱えています。生きていることは味気なく思え、何をしていても心から面白いとは感じない。

そして、そういう人からは「没入している人間」はとても充実しているように見えるものです。「自分がしたいこと」をしている一瞬一瞬が喜びに満ち、その顔は活き活きして見える。それで「できたら自分もあんな風になりたい」と思うのです。

「自分のしていることに没入している人」は創造的な行為者です。彼/彼女は自分の内側に「源泉」を持っています。そこからあらゆるものが生み出されてくる。

しかし、「没入できることを持っていない人」というのは、言い換えれば、自分の内側の「源泉」を見失った状態にあるので、自分を満たそうと思ったら、自分の外側から何かを取ってくるしかありません。「自分自身で創造すること」によって自分を満たすことができず、「どこかの他人が創造した物」を摂取し続けなければ自分を保つことができない。

この「他者依存性」が、「没入できない人」の心に、常に不安を呼び起こします。なぜなら、自分自身を保てるかどうかが、いつも「他人の都合」によって左右されてしまうからです。

 

ゲーム、ドラッグ、アルコールに「没入」している人たちは、自分の内なる創造的なエネルギーの「源泉」を見失っています。自分の渇きを癒すための「水」を内側に見出すことができないので、「他人の創造物」によって代用しようとしている。でも、それらはしょせん「代用物」なので、次第に物足らなくなってきます。それで、足りない分をなんとか「量」でカバーしようとして、彼らは必死に「代用物」をかき集めるようになる。

これが、私が見るところの、依存症が生まれてくる本当の原因です。

だから、もし依存症を本当に治そうと思ったら、ただ「我慢」するだけでは不十分です。もちろん、依存に歯止めを掛けて徐々に「摂取する量」を減らしていくことは必須ですが、「代用物による満足」を「本当の満足」に置き換えていく取り組みも同時に必要になります。つまり、「その人を心から満たすことのできる何か」を新しく見つけ、それを丁寧に育てていくというプロセスがないと、治療は完結しないと思うのです。

もし「代用物による満足」を禁じて、「我慢」だけを強いれば、誰でもどこかで限界が来ます。でも、「本当の満足」を知ることができれば、「代用物による満足」がどれほど質の悪い薄っぺらな物だったかということを、本人は自覚することができる。そうしたら、それまで依存していた「代用物」を捨てるのもより容易くなるし、依存を捨てた後も「我慢」をする必要がありません。なぜなら、そのとき当人は「もっと高次の満足」を外側に依存することなく、自分の意志で手にすることができるようになっているからです。

 

このような「自己充足した人間」を見つけると、「代用物」しか持っていない人は衝撃を受けます。「自己充足した人間」は、時として非常にゆったりくつろいでいるように見え、時としては「なにもそこまでしなくても…」と他人が言いたくなるほど、徹底して行為の中に入っていきます。

その「超然とした在り方」を見て、「できたらあんな風になりたい」と思った人たちは、そこに「自分自身の夢」を投影します。

「自己充足した人間」は、「真の満足」を知っており、それゆえ彼らは必要以上に求めない。何も持っていないときでさえ、彼らは「ありのままの自分自身」にくつろいでいて、とても幸せそうに見える。

また、そういった人が自分の行為に没入していく時には、まれに「偉大な何か」を創造することがあります。「芸術作品」を創造する人もいれば、人々の中に「覚醒」を創造するような師となる人もいる。そして、その取り組みには他人の心を根底から揺さ振るような「力」があり、少なくはない人々が強い影響を受けます。

そこから、「落ち着き」や「くつろぎ」というものへの渇望が生まれ、「努力」というものの重要性が強調されるようになる。でも、それらは全て、「自己充足的な人間」というスクリーンに、外から見た他人が映した「夢」に過ぎないのです。なぜなら、実際に落ち着き、くつろいでいる人は、「落ち着き」や「くつろぎ」を求める必要を感じてはいませんし、本当に行為に没入している人は「努力」なんてまるで意識していないものだからです。

 

私はやはり「努力する」というのは人間には不可能だろうと思います。それは「意識してすること」などではなくて、「気づいたらそこに在るもの」だからです。

私たちが「努力」についてできることがもしあるとしたら、それは、「努力しよう」というつもりもないままどこまでも歩み続けるだけの「自発性」を、一人一人が自分の内側に丁寧に育てていくことだけだろうと思います。

 

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