「味わい」の深みへ

呼吸というのは実に神秘的な現象だという実感が、最近ますます強くなってきました。

「息を吸い、息を吐く」ということの中に実に多くの発見があり、その味わいは日に日に深まっていきます。

そもそもこんな風に何かを「味わう」というのは、人間だけに許された特権なのではないかという気もします。たとえば、動物は「深いところ」と「浅いところ」との区別を知りません。彼らは何をするにも心と身体の「全体」でもってそれをするので、「深まっていく」ということを経験できないのではないかと思うのです。

これに対して、私たち人間は「深いところ」から生まれてきて、成長する過程で「浅いところ」に引きずられていきます。聞いた話によると、母親のお腹の中にいる胎児は、私たちがよく理想的な身体運用として語る「腰の入った蹴り」を自然と行っているそうです。母親のお腹を内側から蹴るとき、胎児は「部分」で蹴らずに、「全体」でそれをするわけです。

でも、胎児は別に意識してそれをしているわけではなく、いつも自然とそれを行っているので、「失敗」ということができません。胎児はどこまでも「無意識的に自然」です。そこには「選択の余地」がないのです。

 

でも、生まれてきてしばらくすると、赤ん坊は徐々に「自然」を失っていきます。「全身全霊で泣くこと」が、時として親を不機嫌にする可能性もあるということを、赤ん坊は肌で感じて学び取っていきます。そして、なるべく大人達を不機嫌にしなくて済むように、「部分的に泣く術」を習得するに至るのです。

赤ん坊がもしも「全体」で生きていると、大人はその振る舞いをコントロールすることが難しくなります。それゆえ、多くの場合、親たちは赤ん坊が「部分」だけで生きるように教育しようとします。その結果、赤ん坊の息は徐々に浅くなり、感情は部分的にしか表現されなくなっていく。

やがては赤ん坊自身も大人の真似をして、「政治的なトリック」を使うようになります。たとえば、「嘘泣き」をするようになる。部分的に泣いていると、大人の側が赤ん坊をコントロールしやすくなるだけでなく、赤ん坊自身も自分の「泣く」という行為をコントロールすることができるようになるので、「より効果的に泣くこと」を覚えるようになるのです。

「内側の衝動」に身を委ねて全身全霊で泣いているのか、「大人との駆け引き」を有利に進めるために泣き方をコントロールしているのかは、泣き声を聞けばだいたいわかります。「全体」で泣いていると声がしっかりこちらの肌に刺さってきますが、「部分」だけで泣いていると身体の深いところまで声が響いてこないからです。

これは大人の場合でも同じで、「深い感情表現」は、喜怒哀楽いずれであっても、こちらの身体を奥深くから揺り動かす力を持っています。しかし、大人の場合、「嘘泣き」を覚え始めた赤ん坊以上に「部分」で生きるようになってしまっているので、もはや何が「嘘」で何が「本物」なのか、自分でもわからなくなっていることがほとんどです。場合によっては、「嘘」を「本物」だと取り違えていて、本人はそのことに何十年も気づかないでいることもある。

 

今の社会において、赤ん坊が大人になるために「嘘」は必須です。おそらく「嘘」による駆け引き無しでは、ほとんどの赤ん坊は社会に受け容れられず、どこかで死んでしまうでしょう。赤ん坊が生き延びるためには多くの保護と助力が必要ですが、今の社会は「全身全霊で生きている人間」を十分に受け容れるだけの準備がまだできていないからです。

「全身全霊で生きている人間」は決して外からコントロールすることができないので、もしそのような人間を受け容れようと思ったら、あらゆる組織は「所属する人間を支配すること」を放棄しないといけません。「それぞれの人間が、それぞれに生まれ持った資質を自由に伸ばして生きていくことが許される社会」というものは、今のところ、地上に出現したことがありません。

 

人間の大人は、「自分が生まれてきたところ」からはるか遠くにいます。誰もが「自分の中心」を見失い、外側の他人や理論の中にそれを求めて右往左往している。

しかし、そのような「中心からの逸脱」は、今のような社会で赤ん坊が大人になる際、生き残るためにどうしても必要なことです。赤ん坊は「中心」にいるまま大人になることを許されない。このことには、赤ん坊を「社会のために役立つ何者か」に仕立て上げようとする大人の側の都合も影響しているし、そもそも赤ん坊自身が「自分の中心」を「この上なく大事なもの」だとわかっていないことも大きく関与します。なぜなら、私たちの「中心」は、「自分で努力して獲得したもの」ではないからです。自身の存在とともに「最初から備わっていたもの」なので、それがどれだけ大事かということが、赤ん坊にはわからない。だから、大人から「あなたが持っている『唯一のもの』を差し出すならば、私たちが何でも与えてあげよう」と言われると、赤ん坊はいとも簡単にそれを捨ててしまいます。私たちが大人になる過程で「中心」から逸脱してしまうのも、無理からぬことと言えます。

しかし、「中心」は忘れられることはあっても、完全に失われることはありえません。「努力して獲得したもの」ではなく、「最初から備わっていたもの」であるがゆえに、捨てようが忘れようが、それは必ず誰の中にも残っています。だからこそ、私たちは「自分が生まれてきたところ」のことをもう一度思い出し、そこに戻っていくことがいつでも可能なのです。

 

何かをゆっくりと味わうとき、私たちは徐々に「深いところ」に沈んでいきます。

たとえば、口にする食べ物の味わい、喉を通る水の感触、歩いているときの足裏の感覚、皮膚に触れる風の粒子、香り、音、肌触り…などなど、全てが色づいてきて、世界全体がくっきりとした輪郭を持ち始めます。

それらは「常にそこに在ったもの」なのですが、ただ私たちが目を向けていなかっただけなのです。私たちはそこへ意識的に目を向けることもできれば、無意識的に通り過ぎることもできる。常にどちらもが可能です。

私たちは「どこまでも浅く生きること」が可能であり、また、「どこまでもより深く生きること」が可能な存在です。もし私たちが意識的にどこまでも深く潜っていくならば、私たちは赤ん坊や動物にも到達できないような「さらなる深み」に触れることもできるのではないかと思います。

そして、おそらくそれが、私たち人間だけが持っている可能性なのです。

 

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