音のない中心

瞑想の技法に、「私とは何か?」をひたすら問うていくというものがあります。

「これが自分だ」と思うものを列挙して、一つ一つ吟味・考察していく。「本当にそれは『自分』だろうか?」と。

たとえば、肩書き。どこそこの組織のこれこれという役職の誰それ。そういった肩書きや立場が「自分」かというと、別にそうではない。肩書きや立場がなくなっても、それで「自分」がなくなるわけではないからです。

仕事を辞める、学校を出る。すると、「どこそこの誰かさん」という一種の「役割」が、部分的に蒸発します。でも、相変わらず「自分」というものは残っていて、「さて、これからどうしようか」と考えるはずです。

では、この「性格」が「自分」だろうか?いつもいつも同じような状況で同じようなことを繰り返す。反応の傾向、行動の偏り、思考の癖、そういったものの寄せ集めが「自分」なのではないか?

しかし、生まれたばかりの頃に、「性格」というものが既に在ったかというと、これは疑わしい。この世に生まれたとき、私たちにはまだ何の「色」もついていなかったはずです。もし、これら生まれた後になってから塗り固められ付け加わった「色」をもう一度落とすことができたなら、そのとき「自分」はどこに残っているでしょうか?

 

「自分とは何か?」を問うていくことによって、「自分」はどんどん溶けていきます。

これも「自分」ではない、あれも「自分」ではない。「自分」だと思うものを一つずつ吟味・考察していくと、これまでずっと「自分ではないもの」を「自分」だと思い込んでいただけだったのだということが、徐々にわかってきます。

「自分は何か?」というこの技法は、「自分」を見つけるためのものではありません。それは「自分」を溶かすためのものです。それは、知らず知らず作ってしまっていた「これが自分だ」という思考の枠組みを壊し、いつの間にかついてしまっていた「色」を落としていくための技法なのです。

 

探せば探すほど、「自分」はどこにも見つからない。でも、「自分だと思っていたもの」が溶ければ溶けるほど、私たちは「内側」へと深く潜っていくことができるようになります。

なぜなら、「『これが自分だ』と思っていたもの」はどれも「外側」に属しているからです。それらはどれも、「外側」の他人から貼られた「レッテル」の集積に過ぎない。そして、そういった「レッテル」が溶けてなくなると、私たちは「表層」から「深層」へと移っていくことが可能になります。

 

私たちの「表層」には、多くの「ノイズ」がくっついています。特に言葉が最も多くまとわりついている。

親から言われた言葉、友人から言われた言葉、本で読んだこと、教師に教わったこと、社会から押しつけられた価値観、道徳、行動規範…。それらはいつも私たちの「表層」でぺちゃくちゃとしゃべり続けています。私たちの思考の99%以上は、こういった「外側」からやってきた言葉の反芻に過ぎません。実際、たとえ私たちが「『自分』は考えている」と思っていても、それは「『考え』が考えている」のであって、「『自分』が考えている」ということは本当に稀なことです。

試しに、起きてから寝るまでの間に浮かぶ思考をよくよく観察してみるとわかりますが、私たちの思考はほとんど自動的に生まれてきます。まるで、ほっておいても自動で考えを生み出し続ける機械が内蔵されてでもいるかのように、思考は生まれ続ける。「自分で考えている」と思っているときでさえ、気づいたら思考そのものが自走していて、「なんでこんなことを延々考えてしまったのだろう?」と後になってから不思議に思うことも多々あります。

全体の有り様をみると、私たちが思考をしているのではなく、思考の側が私たちを巻き込んでいるのです。私たちは思考の「主人」ではなく、むしろ「奴隷」のようになっている。

こういった「表層の絶え間ないおしゃべり」を「自分の思考」だと思ってしまうと、私たちは思考によって引きずり回されます。それは「外側」に起源を持っており、実際には「自分の思考」などではないのですが、これらの「おしゃべり」にあまりにも深く巻き込まれてしまうと、「自分」と「おしゃべり」との間に隙間がなくなって、私たちは「おしゃべり」を「自分」だと誤認してしまいます。

 

思考に限らず、何らかの対象との間に隙間がなくなってしまうと、私たちは「自分ではないもの」を「自分」だと思ってしまうようになります。

たとえば、「怒り」に囚われたとき、もし「怒り」と「自分」とに隙間がなくなってしまうと、私たちはどこにもいなくなり、「怒り」が主導権を握ります。そして、「怒り」はそれ自身がしたいことをし、誰かを傷つけたり何かを壊したりする。

私たちは後になって自分を責めます。「自分が怒った」と思うからです。でも、実際には「怒り」と「自分」は別のものです。「自分が怒った」のではなく、「怒りが自分に起こった」のです。

このことは、「怒り」が内側に感じられたとき、状況や情念にすっかり巻き込まれてしまうことなく、冷静に観察してみるとよくわかります。もし「怒り」から距離を取って観察できたら、「怒り」はたしかにそこに在るけれども、「怒り」は「自分」ではないという感覚が現れるからです。

 

それは別に、「自分は怒っていない」と無理して言い張ることではないし、「怒り」を感じないように抑圧することでもありません。

「怒り」はそこに在って、現に「自分」に起こっている。息が荒くなり、血液が逆流し、筋肉が強張る。何かを攻撃したい衝動や、破壊したい欲求が突き上げてくる。そういった心身の変化を全て感じた上で、それに支配されないという距離感を保つことができると、「怒り」は在るけれども、「怒り」は「自分」ではないという感覚が生まれてきます。

この感覚の中に留まっていると、「怒り」とは一種の「他者」だということがわかります。「怒り」はそれ自身の事情があって表に出てきているのであって、「怒り」がそこに存在しているのには「独自の理由」があるのです。

もし「怒り」が存在することを否定すれば、反発が起こります。抑圧して無視しようとすると、「怒り」は抑え込まれたのとは別な出口から吹き出てきて「オレはまだここに居るぞ」と訴えようとする。支配しようとすれば支配されるし、逃げようとすれば追いかけられます。「怒り」が「他者」である以上、寄り掛かったら巻き込まれるし、滅ぼそうとしたら闘争が終わらなくなります。

それゆえ、他人の独自性を尊重するときと同じように、「もたれ合う」のでも「滅ぼし合う」のでもなく、「中間」に立って「怒り」の事情を理解することによってしか、「怒り」との友好関係は築くことができません。

 

「怒り」は「他者」であり、「思考」もまた「他者」です。それらは「自分」において起こるものではあっても、「自分自身」ではない。

「思考」は最も浅い層で活動している「他者」であり、「怒り」などの「感情」はもう少し深い層で生きています。「思考」を「自分」と思っていると、その人は浅い層へと移行し、「感情」に巻き込まれると、もう少し深い層に移行します。

でも、さらにもっと深い層がいくらでもあります。「思考」を「他者」と見て、「感情」を「他者」と見ることによって、私たちはそういった深い層へも潜っていけるようになる。

 

深くへ潜れば潜るほど、これまで「自分」と呼んでいたものは「他者の集合体」だったのだという実感が強まっていきます。浅い層から深い層まで、私たちの中には多くの「他者」達が住まっており、それぞれの生活を営んでいる。そして、それらはみんな、独自の「音」を立てています。思考には思考の「音」があり、感情には感情の「音」があります。身体には身体の「音」があり、心には心の「音」があります。

しかし、そこからさらに深い層へ、より深い層へと潜っていくと、あるところで「音」がなくなります。そこが「中心」です。もし名付けるとしたら、この「無音の中心」こそが「自分」です。

 

この「無音の中心」に意識の焦点を合わせていると、そこよりも浅い層で鳴り続けている無数の「音」たちが少しずつ静かになっていきます。静寂が深まっていき、安らぎが溢れてくる。

この「無音の中心」は、生まれてから一度もなくなることのなかったものです。それはどんなときもずっとそこに在った。

でも、生きていく過程で、私たちは「音」のほうに同化していきます。心を「自分」だと思ったり、身体を「自分」だと思ったり、思考や感情や肩書きや立場を「自分」だと思うようになっていく。すると、この「無音」は忘れ去られてしまい、私たちは「音」に囚われて、徐々に騒がしくなっていきます。

 

「中心」に存在する静寂と安らぎは、私たち全てが生まれた時から持っている性質です。それを完全に失った人は誰もいません。

でも、「音」と同化していくと、私たちは「中心」から遠ざかり、何だか騒がしくなって落ち着かなくなります。そして、多くの場合、私たちは外側からさらに「音」をかき集めてくることによって、落ち着きを得ようとします。社会的な成功、仲間からの賞賛、権利や資格の獲得、理想的な心や身体への自己改造などなど、「自分でないもの」をさらに外から足していくことによって、いつか安らかになれるのではないかと思う。

でも、その「いつか」というのは幻であり、決してやっては来ません。本当の安らぎは、何らかの条件をクリアしたときに達成されるものではなく、最初から私たちの中に備わっているものです。それは追求するようなものではなく、ただ見つければよいものなのです。

 

「生まれたときにいたところ」から離れ、「生まれた後に獲得したもの」に軸足を置くことによって、私たちは「自分自身」からも遠ざかっていきます。

瞑想の諸技法は、「新しい何か」をつけ足すためのものではなく、こういった「初めから持っていたもの」を再発見するための方便に過ぎません。

そのことが理解できれば、本当は技法さえも必要ではありません。「中心」に軸足を置いて一瞬一瞬を精一杯生きることだけが、本当に必要なことなのです。

 

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