呼吸の観察

「自分の呼吸を観察する」という瞑想の技法は、非常に古くから多くの人々によって実践されてきました。これは一見単純そうに思えますが、実際にやってみるとたいへん奥の深い技法です。

 

「呼吸を観察する」ということを実践する場合、まず最初は「呼吸を感じる」というところから始めます。

そもそも、呼吸は私たちが別に意識しなくても身体が全自動で面倒を見てくれるので、社会的な活動や日常生活の維持などに意識を持って行かれすぎると、自分の呼吸を感じる機会はなくなってしまいやすいものです。そういう場合、外側のあれやこれやをいったんすっぱり忘れないと、呼吸に意識を向けるのは難しかったりします。

 

呼吸を感じるのには、色んなやり方があります。

一つは、息が鼻の穴や口に触れる感触に意識を向ける方法です。息が身体に出入りする場所に意識を持っていき、皮膚感覚で息を感じるわけです。

吸うとき、入ってくる息が身体に触れるのを感じ、吐くとき、出て行く息が身体に触れるのを感じます。皮膚感覚というのは、感触へ自覚的に意識を向けることによって次第に鋭敏になっていきます。ただ「感じている」という気づきを持つだけで、感覚は深く、鋭くなっていくものなのです。

 

反対に、意識を向けないでいると、皮膚の感覚はどんどん鈍くなっていきます。

たとえば、私たちは服が身体に触れる感触を常に感じてはいません。服を着ている間は、服の生地がずっとどこかの肌に触れているはずですが、私たちはそれをいちいち認知してはいない。「感じてみよう」と思って意識を向けると服の肌触りは感じられますが、意識を向けないでいると、それらの感覚は「不要な情報」として脳のどこかでカットされてしまうのです。

実際、服を着たときの皮膚感覚は、よほど窮屈で動きづらい服でも着ていない限り、そこまで重要な情報ではありません。身体からしたら、通気性があまりに悪かったり、運動が過度に制限されたり、骨や筋肉に物理的な負荷が強くかかったりする場合でもなければ、服の感触を情報として拾う意味が薄いです。

身体は「生き残ること」を重視するので、「生き残る能力」があまり制限されないならば、「こんな服を着ないでくれ」というシグナルを強くは送ってきません。そういう場合には、私たち自身で意識して皮膚の情報を拾いにいかないと、感覚はごそっとカットされてしまいます。

 

また、「仕事でどうしてもこれを着ないといけないから」とか、「この服を着ていないと世間的に認めてもらえないから」とかいった理由で、身体的には不快であるのに無理して窮屈な服を着続けていると、「こんな服着てたら、いざというときに生き残れないよ」という身体からの危険信号さえ、だんだん聞こえなくなっていきます。身体も、「どうせ信号を送っても毎回無視されてしまう」ということになるとすねてしまいますので、たとえ不快に感じていても、それをシグナルとして私たちへ発信してこなくなるのです。

身体は「生存に必要なもの」を選択して私たちに情報を送ってきますし、私たちの頭は「社会生活上の必要」を重視して感覚を取捨選択しています。その両方から漏れてしまう感覚、つまり「生存に必要なわけでもなく、社会生活の役にも立たない感覚」については、こちらで意識して感じようとしないでいると、いつまでも感じられないままになってしまうことになりがちです。

 

「息の感触」もまた、「生存に必要」というわけでもなく、「社会生活の役に立つ」というわけでもない感覚です。

でも、それは常に在るものです。服だったら脱ぐこともできますが、呼吸は生きている限り止めるわけにはいきません。もし自分で感じようとするならば、「息の感触」は生きているうちは常に存在していますし、もし感じようとしなければ、死ぬまで忘れたままでも特に支障はありません。

この「息の感触」を意識的に感じることが、「呼吸の観察」の第一歩となります。「息の感触」への気づきを深めていくことによって、私たちは自分の呼吸の変化に敏感になっていきます。意識することで感覚は育ち、微細な変化をも捉えることができるようになっていくのです。

ちなみに、人によっては鼻の穴や口などといった「息の出入り口」よりも、気道や胸などの「息の通り道」のほうが息を感じることが容易かもしれません。いずれにせよ、どの部分を意識するのが適しているかは、実践者それぞれの身体の状態や生来の感受性によると思います。

 

話を戻します。

先にも述べましたように、「呼吸を観察すること」の第一歩は、まず「不要な情報」として普段であれば捨てられている「息の感触」への気づきを深めることです。そして、「息の感触」への気づきが深まっていくことによって、次に、「息の波」が感じられるようになっていきます。

息を吸ったり吐いたりするとき、呼吸に合わせて身体全体が膨張・収縮する感覚、あるいは、身体の中を「運動の波」のようなものが動いていく感覚が現れてきます。空気は肺までしか入りませんが、横隔膜が豊かに動いていると、腹部の内臓も呼吸によって動きます。その運動の余波は骨盤から脚部にも伝わり、足裏から地面へと流れていきます。また、呼吸による胸部の運動も、腕や手の指先へと波を伝えます。

この段階においては、「息の感触」は「出入りする空気が身体に触れる感覚」に限定されなくなります。身体全体が呼吸に関与していることに気づくようになるからです。実際、呼吸というのは、解剖学的な呼吸器や呼吸筋の働きだけで完結するようなものではなく、身体全体が関係して起こっている現象なのです。

それゆえ、呼吸と無関係な細胞は私たちの中には存在しません。全身の細胞が「生きるため」に酸素を必要としているという生理学的な意味でもそうですし、「息の波」が全身にくまなく広がっていく主観的な感覚のレベルから言ってもそうです。

 

そして、この「息の波」に意識を向けることをさらに一定期間続けていると、今度は「空気以外の何か」が身体に出たり入ったりしているのを感じるようになっていきます。呼吸によって空気が出入りするとき、同時に「空気ではない何か」が一緒に自分の身体を出入りしているのが自覚されるようになっていくのです。

その「何か」は、「氣」とか「プラーナ」とか、あるいは簡潔に「生命力」とか、なんと呼んでもいいのですが、「呼吸の観察」が深まっていくと、こういった「目には見えない命の流れ」が感じ取れるようになっていきます。それによって、自分の命が今どんな状態にあるかがわかるようになっていきますし、他人や動物、植物などの「命の状態」も感じ取れるようになります。

たとえば、自分の身体から「氣」が力強く迸り出ているときには、たとえ困難な状況にぶつかってもびくともしませんが、「氣」が内に引っ込んでいると、ちょっとしたつまづきで深く傷ついたり失望したりしてしまいます。自分で自分の「氣」の状態を自覚できるようになると、こういった違いが生まれる「根本的な原因」も、自分自身でよく理解できるようになるものです。

また、「本当に元氣がある人」と「空元気を出しているだけの人」との見分けが明確につくようになり、芸術作品や料理などについても作り手の「氣」が入っている・入っていないという違いがはっきりとわかるようになっていきます。

 

とはいえ、こういった「氣の感覚」はそれほど特別なものではありません。実際、こういったことは誰もが普段から無意識には感じているものなのです。

「元気な人」は見ればわかるし、「頼りない人」や「危なっかしい人」も見ればわかります。「氣」が活発に出入りしているかどうかとか、「氣」の流れが不安定になっていないかどうかとかいった見極めは、たしかに時として頭の介入によってその判断を曇らされることも多いですが、意識の深いレベルでは誰もが瞬時にできているものです。ただ、そういった「力」を自覚的に育て、巧みに使いこなしている人が稀なだけです。

もしもこういった「生命力」に対する感受性を、自覚的・意識的に育てていこうとする場合、「呼吸の観察」はその方便として非常に有効です。自分の身体もまた生きているので、「身体に対する観察力」が深まると、「生命そのものに対する観察力」も自然と深まっていくからです。

 

しかし、「呼吸の観察」という技法は、「生命への観察力(氣の理解)」だけで終わるようなものではありません。この技法には、さらに先のプロセスがあるのです。

それが「瞑想(ディアーナ)」の次元です。

ここまで述べてきましたように、「呼吸の観察」を長らく続けていると、徐々に「生命を観る技術」が身についてきます。自分や他人はもちろん、動植物や天地自然など、一切の中を流れる「氣」が感じられるようになっていく。

同時に、徐々に「自分」という枠組みが、溶けて消えていくようにもなります。それまで「自分」という枠を作って囲っていた心や身体といったものが、そもそもの最初から「大きな連なり」の中に含まれていたことが自覚されるようになっていくのです。

 

そこには「境界線」というものがなく、全ては「一つ」に繋がっている。だからこそ、たとえ自分んが世界中の人々から切り離されて孤立することになったとしても、「宇宙そのもの」から切り離されることはあり得ないということが、はっきりとわかるのです。

このことが、「理屈」ではなく「感覚的な体験」として深く理解できた時、「深い安らぎ」の中へと私たちは落ちていきます。そして、「全てこれで良い」という絶対的な肯定感が内側に満ちて、「不必要にジタバタする」ということを、当人は自ずから止めるようになる。

もはや「どこか別な場所」へ行こうとすることなく、「何か別なもの」になろうとすることもなく、ただ「今ここ」において、自分の一呼吸一呼吸を深く味わうことの中に、深い満足と納得とを見出すようになっていくのです。

 

ここに至って、それまで自分の頭の周りを取り巻いていた「思考」が徐々に静まっていきます。なぜなら、私たちの内側で絶えず続いている「思考のおしゃべり」は、私たち自身が「今ここ」を否定しようとすることによって生み出されていたものだったからです。

「過去への後悔」や「未来への期待」が全て落ち、「今ここに在る世界は、既に十分に美しい」と感じられた時、「思考」は存続する理由を失って、自然と蒸発していきます。

 

また、内側で「思考」が消えていけばいくほど、よりいっそう世界は「ありのままの姿」でもって現れてくるようにもなります。

しかし、往々にして、私たちは「ありのままの姿」を受け容れず、「そうあってほしい姿(理想像)」を自分や他人に押し付け、世界そのものに対しても強要しようとします。そして、それゆえに当人は「誰も理想通りの姿でもって応えてくれない」と嘆いては、苦しみ続けることになってしまう。

 

「瞑想」とは、「ありのままの姿を受け容れる在り方」のことです。

そこには、時として「苦痛」が伴うこともあります。なぜなら、私たち自身が「ありのままの姿」をあまりにも強く拒み続けて生きてきたからです。

「こんな自分は受け容れられない」「他人はこうしてくれてしかるべきだ」「こんな世界は間違っている」と、現状を否認し続け、そこから目を逸らしてきた程度が大きければ大きいほど、その人は「瞑想」へ入っていく最初の頃、これを「苦痛」として体験する傾向が強まります。実のところ、この「苦痛」から逃げ続けるために、私たちは「不必要にジタバタする」ということにしがみついてしまうものなのです。

 

たとえ「認めがたいもの」であったとしても、「現に在るもの」は在る。その「真実」から眼を逸らすためにジタバタするのではなくて、「真実」をそのままに見たうえで「自分にできること」を精一杯することによってのみ、私たちは前に進んでいけます。

非常に逆説的なことですが、私たちは「現状」を否定しようとしてジタバタしている限り、いつまで経っても「同じ失敗」を繰り返すばかりで一向に変化しません。反対に、「現状」をそのままに受け容れて、冷静に「今ここ」へ心を置いたとき、「本当にすべきこと」は自然と浮かび上がってくるものです。

 

しかし、私たちは往々にして、この「本当にすべきこと」をするのがあまりにも恐ろしいので、「ジタバタすること」にしがみつくことで自分自身を騙そうとしてしまう。つまり、「現状」をきちんと確認しないままジタバタし続けることによって、「自分は確かに『やるべきこと』をやっている」と、なんとかして思い込もうとするのです。

「瞑想」は、このような「自己欺瞞」をまず徹底して破壊していきます。それが、「瞑想」を体験し始めた最初のうちは、当人にとって「痛い」のです。

 

呼吸を見つめ続けることによって、「自分の命」がありのままに観えてきます。

自分がいかに多くのものにしがみついてきたか、どれほど健気に「ちっぽけなエゴ」を守って生きてきたか、そういったことが徐々にわかってくる。

「瞑想」が深まるほどに、「エゴ」は溶けて消えていきます。「エゴの溶解」は、初めのうちこそ「非常に大きな痛み」として体験されるけれども、もっと先に進んでいくと、「エゴが溶けることによってより自由になれる」ということがわかってきます。「しがみついているもの」が少なくなり、「自分を騙す必要」がなくなればなくなるほど、私たちの生は「自由」になるのです。

 

そうして、「自由を育てていく喜び」が「エゴが死ぬ際の痛み」よりも大きくなったとき、当人にとって「瞑想」はより容易になっていきます。言い換えれば、「全てをありのままに受け容れ、『今ここでするべきこと』を全力でする」という生き方が、よりいっそう自然とできるようになっていくのです。

 

「瞑想」とは、そういう意味で、「何らかの技術」というよりも「生きる姿勢」そのものと言えます。

「呼吸を観察する」というただそれだけのことであっても、突き詰めていくと、「他でもない自分はこの人生をどのような姿勢で生きるのか?」という問いへと行き着く。そして、この問いは、私たちが生きている限り瞬間ごとに「自分の人生」から問われ続けることになる、「終わりのない問い」でもあるのです。

(2019年4月4日 大幅に加筆修正)

 

 

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