流されずに

私たちはいろんなものに流されます。

たとえば、気分に流される。あるいは、感情に流される。特に私たち日本人は、「他人の意見」や「場の空気」といったものに流されやすい傾向が強いと思います。

特に、気分というものはたいへん流動的なものです。「朝起きたときの気分」と「お昼頃の気分」でも違うし、ご飯を食べるだけで気分が変わったり、身体を動かすと気分が変わることも多いです。その時々で、嬉しかったり、落ち込んだり、興奮したり、ふさぎ込んだりします。そういった気分にいつも流されていると、ジェットコースターに乗っているかのような乱高下を私たちは体験します。そのような「上がり下がり」が生きる上での刺激になることも確かにありますが、しかし、気分に流されて生きていると、私たちはそう遠くないうちに不機嫌になり始めます。それは、私たちの意識が、「幸福」や「満足感」よりも「不安」や「不満足感」に引きつけられやすい性質を持っているからです。

 

自然界において、全ての生物はいつも「死」と隣り合わせです。それゆえ、自分の命が危険にさらされる可能性がある場合、なるべく早くそれを察知することが生き延びる上では必須となります。また、身体のどこかが怪我をしていたり運動機能が低下していても生存の可能性が減ってしまうので、怪我による痛みや、動きにくさなどには敏感でなくてはいけません。「生きる上で必要なもの」が足りていない時にも、すぐさまそれに気づいて不十分なものを獲得しに行かないと、やはり生き延びることは難しくなります。

私たち人間もまた生物ですので、本能的に「生き延びること」を求めます。それは頭で考えて「生きよう」と決意するよりも手前に存在する、命それ自体がもともと持っている「傾向」です。

この「傾向」ゆえに、私たちの心は「幸福」よりも「不幸」に敏感に反応します。なぜなら、本来の野生動物にとって「生き延びる」ために特に重要な能力は、「いまの自分は深く満ち足りている」という感覚の中で安らぐ力ではなくて、むしろ「すぐそこに外敵や自然環境の変化が迫っており、自分の死が近づいている」ということに素早く気づける感受性だからです。

私たちは「満ち足りていること」には意識を向けることが難しいですが、「自分は満ち足りていない」ということにはすぐ気づきます。たとえば、ご飯を食べて「ああ、美味しかった」と満足しても、次の瞬間には仕事や家の用事についての不安や心配が顔を出し始めます。

「満足感」の中に留まることは難しく、反対に、「不安」や「不充足感」はほっておいても向こうからやってきて私たちの中に居座るものです。そもそも「満足感」とは、「命が問題なく流れていること」のサインなので、生物的な本能からしたら、それを鋭敏に感じる必要が特に無いのです。でも逆に、「このまま進むと危険かもしれない」とか「あれがないとダメだ」とか「これがあると邪魔だ」とかいった不安や不満足感は、「命の流れに問題があること」を意味しているので、こういった「何かがうまくいっていない感覚」は私たちの意識に対して基本的に強い引力を持ちます。

 

気分に流されて生きていくうちに私たちが不機嫌になるのは、非常に自然なことです。

不機嫌になるのに努力はいりません。私たちが何も意識しなくても、生物としての本能が「何かがうまくいっていない感じ」を次々に見つけてくるからです。

私たちの日常には実際には多くの「満ち足りた瞬間」が存在しています。でも、そういったものに意識の焦点はなかなか合いません。一瞬だけ「満足感」にピントが合っても、すぐにぼやけてしまって、次の瞬間には不平不満に囚われています。これは、私たちの意識が持っている「生物としての本能的な傾向」です。

私たちは「不満足」に対しては「気づく練習」をする必要がありません。「不安」も「痛み」も「不快感」も「憂鬱」も、「気づく練習」は必要ない。そういったものはみんな「命がうまく流れていないことのサイン」なので、たとえほっておいても、命のほうが私たちの意識に向かって危険信号を送ってきます。

反対に、「満足感」や「納得感」、「幸福感」などは、私たちのほうで意識的に掬い上げにいかないと、どんどんこぼれ落ちて消えていきます。私たちをいつも突き動かす「貪欲」は、「あれが足りない、これも足りない」と言い続けますが、「既に足りているもの」については何も言ってきません。「そもそも自分の生存を可能にしているもの」や「現にいま行っている自分の行為を可能にしているもの」などについては、もう足りているので意識には昇ってこず、「まだ足りていないもの」だけが私たちをせっついてきます。

 

「満ち足りた感覚」に気づくためには、私たちはいくらか練習をする必要があります。それは私たちの意識を自然には引きつけない感覚だからです。ですが、私たちの命が真に根付いているのは、「不満足感」ではなく「満足感」のほうです。そもそも命にとっては「不満足感」は「不自然」なものであり、「満足感」こそが「自然」なものです。

そして、「不満足感」は「不自然」であるがゆえに、私たちの意識の中で突出した存在感を持っているのです。それは「本来だったら無いはずのもの」だからです。

 

「不満足感」は「命が『不自然な状態』になっていることの自然なサイン」です。だから、「不満足感」が現にあるのに、それを否定して無理やりポジティブ・シンキングをすることは、自分の命の現状に対する無視にも繋がります。「不満足感」があるということは、やはり何か「問題」はあるのです。それを見ないで蓋をすると、「問題」はより深くまで染み込んで見えなくなってしまいます。

そうかといって、それに流されてしまっても、やはり「問題」の本質は見えてきません。自分の「不安感」や「不平不満」に流されているうちは、「問題」を距離を取って眺めることができなくなるからです。

 

ただ、実際のところ、私たちの抱える「問題」には、多くの場合、「実体」がありません。本当は何も「問題」なんて無いのに、自分自身で「きっと自分には『致命的な問題』があるはずだ」と寝ても覚めても疑ってしまう結果として、「問題」の無かったところに「問題」を生み出すことが私たちにはよくあるのです。

私たちの多くは、幼い頃からの教育によって、自分自身を罪悪視することに慣れています。幼い子どもが「自分がしたいこと」をしていると、大人は決まって注意します。「それをしてはダメ!」と。また、「自分がしたくないこと」をやらないでいると、大人はいつも命令します。「早くこれをしなさい!」と。

たとえば、子ども達が何かに注意を引かれてジッと立ち止まっていると、帰り道を急いでいるお父さんやお母さんは、あの手この手で子どもを引っ張っていきます。「いったい何を見ているの?」と、子どもの目線までしゃがんで尋ねる親を私はほとんど見たことがありません。力ずくで子どもの腕を引っ張る親もいれば、「そっちに行かないで、こっちに来なさい!」と怒声を浴びせる親もいます。または、「じゃあ置いていくよ、バイバイ」と言って、「子どもをその場に置き去りにする演技」をして見せて、子どもの側の「見捨てられる不安」を助長して言うことを聞かせようとする親もよく見かけます。

子どものお腹が減っていないのに食べ物を無理やり詰め込もうとする親もいるし、子どもが眠くもないのに「もう夜の何時だから」というので無理やり寝かせようとする親もいます。また、ある子はお腹が減っているときに「まだご飯の時間じゃないから」というので食べ物を与えてもらえず、まだ眠っていたいときに、「もう起きる時間だから」と起こされる。

子ども達は、「自分の欲求」に従うといつも罰され、その結果として親から見捨てられるという感覚を次第に内面化していきます。「自分がしたいこと」をやろうとしたとき、あるいは「自分がしたくないこと」をやらないでいるときに、私たちは「恐怖」や「不安」や「罪悪感」を抱くことがありますが、それは幼児の頃の教育の結果、私たちが「『自分の欲求』は常に間違っている」という信念を深く内面化させたためです。

「自分のやりたいと思うことはいつも間違っている」と考えて、他人の言うことを何でも聞く子のほうが、世話をする側からしたら手がかからないのは事実です。そして、私たちは幼く無力な子どもにかかわるとき、「相手を手のかからないように調教したい」という誘惑にしばしば負けます。私たち大人が、「子どもの自発性を損なわないこと」よりも「養育する際の自分の手間を省くこと」を優先する場合、私たちは子どもを「人間」ではなく「調教された動物」か「能率的な機械」にするような教育方針を必然的に採用します。それは子どものせいではなく、私たち大人の側が「手間を省きたい」という欲求に流されてしまうために発生する「問題」です。

しかし、実際のところ、その「問題」のツケを払うのは子ども達自身であり、将来的には、その子ども達が同じ教育方針でもって、次代の子ども達へと「問題」を受け渡していくことになります。

 

私たちは「自分は間違っているのではないか?」とか「自分はどこかおかしいのではないか?」とかいった考えに慣れています。自分の考えや自分の行為を問題視しないということが、私たちには難しい。それは、私たちが幼い頃に、自分が「したい」と思うことに対して、いつも決まって「間違っている」と言われ続けてきたからです。

私たちが「本当に自分のしたいこと」をしようとするとき、決まって「お前は道を踏み外している」と告げる人が現れます。実際に目の前に現れなくても、頭の中で声がしてきます。

「自分は間違っているのかもしれない。このまま行くと今に破滅してしまうかもしれない」と声がする。

でも、その声は実際には「自分の声」ではありません。かつて自分を教育した「大人達の声」が、自分の中で今も残響しているだけです。

 

「したいこと」を抑制して、「するように言われたこと」をし続けていると、生は色彩を失っていきます。私たちは「したいこと」を抑制するために、部分的に息を殺して生きるようになる。というのも、あまり息が深くなると、「自分の中心」に息が触れてしまい、「したいこと」を抑え込むことが困難になるからです。

また、私たちは「したいこと」を諦めるために、身体を強張らせていきます。たとえば、「求めるもの」へと不意に手を伸ばすことがないように、手や指からは感覚を撤収させ、肩を緊張させることで「息の波」が腕に流れることをブロックします。腕が活き活きしてしまったら、「自分のしたいこと」を妨害する他者と闘うことを抑制するのが難しくなるからです。そして、私たちの多くは乳幼児期に、この「自分のしたいこと」を妨害する他者に完膚なきまで敗れており、「抵抗」は無意味であり、また破滅的でもあるということを身をもって知っています。

 

それゆえ、腕に限らず、身体が全体として生気を帯び始めると、私たちは「死の恐怖」と直面しなくてはならなくなります。その「恐怖」は、乳幼児期に私たちが「自分の要求」を保護者である大人達に拒否されたとき味わったのと同じものです。保護者に見捨てられることは、幼い子どもにとってそのまま「死」を意味するので、私たちが大人になってから「自分は望むように生きる権利がある」と主張するときには、かつて一度直面したのと同じ「死の恐怖」と面と向かわねばならなくなります。

この「死の恐怖」を抑え込むために、私たちは息を殺し、身体を縮めて生きることを学んだわけですが、そのような生き方は「命を部分的に生きる」ようなものなので、私たちに窒息感をもたらします。この窒息感が限界にまで達したとき、「自殺の誘惑」が必然的に頭をもたげ始めるのです。この場合、たいへん皮肉なことに、「死」を避けようとし過ぎて「死」を呼び込んでしまうことになります。つまり、「死の恐怖」を抑え込むための代償として生命力を縮ませ続けた結果として、命そのものが限界を迎え「窒息死」を迎えてしまうのです。

 

この「窒息死」を避けるためには、自分の内なる「死の恐怖」と、もう一度面と向かうしかありません。そして、このときにも、「恐れ」に流されないことが必要になります。

「恐れ」に流されれば、それは見えなくなってします。自分が「恐れ」そのものになり、パニックに陥ってしまう。

かといって、「恐れ」と闘うこともまた「恐れ」を助長します。なぜなら、「恐れを克服しなければならない」という想い自体が、「恐れに負けたら恐ろしいことになる」という「恐れ」から生まれているからです。「自分は恐れている」という事実を認めることを恐れるがゆえに、人は「自分の恐れ」と闘うのです。

 

「恐れ」に流されず、「恐れ」と闘わず、ただ「恐れ」がそこに在ることを認め、そのままに見る。

何も間違ったことは起こっておらず、必然的なことが起こっているだけです。「恐れ」があるのには理由があり、「起こるべきこと」が起こっているのです。

「恐れ」を問題視することによって、「恐れ」は「問題」になります。本当は「問題」はないのです。「自然なこと」が起こっているとき、私たちがそれを問題視することによって、「問題」が生み出されるのです。

 

たしかに命にとって「死」は「問題」です。

でも、私たちにとって「死」が「問題」であるかどうかは、私たちの意識次第です。

命は、身体が死ぬのを避けようとして、私たちに「恐怖」を意識させます。「恐怖」は命の側の都合で生起している。

しかし、私たちの「意識」それ自体は、命を超えています。そうでなければ、「死の恐怖」を乗り越えて、「命よりも大事なもの」を守るために死んでいった多くの人々がこの世に存在したことの説明がつきません。もし私たちの「意識」が「命の従属物」であるならば、決して私たちは「死の恐怖」から自由になることはできないはずですが、そうではないと、私は最近感じています。

 

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