「良い」も「悪い」もなく

「自分を受け容れる」というのは、いったいどういうことなのでしょうか?

「ダメなところも含めて自分なのだから、そういう欠点も許して、自分を認めてあげましょう」といったような言説を、ときおり見かけますが、私はそういった表現にいつも微妙な違和感を覚えます。

私がひっかかるのは、「ダメなところ」とか「欠点」とかいった言葉です。こういった言葉を使うと、「自分のこういうところはダメだ」とか「ここは間違いなく欠点だ」とかいった風に、あたかも何が「悪い」かを私たちがあらかじめ知っているかのように感じられます。

でも、私たちは実際のところ、何が「悪く」て、何が「良い」かを本当に知っていると言えるのかどうか?「それが疑わしい」という点がまず一つ。

そして、もう一つ私が気になる点は、そもそも何かを「悪い」ということにすると、その「悪い」を完全に消して、なくしてしまおうとする傾向が私たちの内側に避けがたく生まれてきてしまうということです。これは「何が悪いか」という具体的な話以前に、「悪い」という概念を私たち人間が所有しているがゆえに生じてくる現象です。

私たち人間は、言葉を使って論理的に思考することができる存在ですが、「言葉」も「論理」も、物事を「良い」と「悪い」とに選り分けようとする性質があります。たとえば、或る言葉は「一つのもの」を指し示し、「それ以外のもの」を意味しません。「犬」という言葉は「犬」だけを意味して「狼」を決して意味しないし、「桜」という言葉は、それを聞く者の中に「桜のイメージ」を喚起しても「松のイメージ」は呼び起こしません(人によっては「桜」と聞いて「別なもの」を連想することがあるかもしれませんが、それはあくまでも「桜を起点にした連想」であって、まず「桜についての想起」がなければ「連想」もあり得ません)。

それゆえ、「言葉を使う」ということは、「この世界を或る一つの仕方で切り分ける」ということです。「A」という言葉は「A」だけを意味し、世界を「A」と「A以外」とに切り分けます。言葉というものは全てそうです。言葉はこの世界に分節線を設け、もともとは存在していなかった「無数の切れ目」を作り出します。

もし言葉がなければ、世界は「そのまんま」に見えるはずです。まだ言語を習得していない赤ん坊は、おそらくこの「そのまんまの世界」を生きています。でも、遅かれ早かれ赤ん坊は言葉を習得し、それと同時に世界を切り分けるようになります。

 

とここまで書いた時点で、すでに「世界を切り分けること」が何か「悪いこと」であるかのようなニュアンスが発生していると思いますが、これが「論理」というものの性質です。「言葉」は世界を切り分け、「論理」は「良い」と「悪い」とを区別します。そうならざるを得ないように「言葉」と「論理」はできています。

私がこうして何かを語れば、私は「そのまんまの世界」を何かしらの仕方でバラバラに切り分けます。そして、その「切り分けた断片」を筋が通るように配列すると「論理」になります。筋が通らないように配列すると支離滅裂で無意味ですが、筋が通るように配列すると「論理」になる。

この「筋が通るように」ということを意識することで、私たちは一度切り分けた世界をさらに一定の仕方で方向付けることになります。それはちょうど、ひとかたまりの大きな粘土をバラバラに分解して、それらの断片をもう一度くっつけ直して形を整えることで、人とか家とかを造形するようなものです。私たちは世界を「言葉」によって切り分け、その断片を「論理」という糸に通して配列することで、この世界に「一つの輪郭」を作り上げます。そして、その過程で、私たちは避けがたく、何かを「良い」とし、別の何かを「悪い」とする「分別の次元」に突入することになるのです。

 

わかりにくいことを言っていると思いますが、私が言いたいことは、世の中にいま出回っている「自分の悪いところも含めて受け容れましょう」という言説の多くが、この「言語」と「論理」がもともと持っている性質について、いささか無自覚なのではないかということです。私たちが言語を使って物事を理解する以上、「分別」を避けることはできません。何かを「優れている」と言えば、必ず別の何かが「劣っている」ことになります。何かを「良い」と言えば、同時に「悪い」も生み出されます。「優」と「劣」や、「良い」と「悪い」は根を同じくした概念であり、どちらかを言えば、実際には言葉にしていなくても、もう片方が一緒に生まれています。

それゆえ、「これが悪い」ということを言う場合も、「これが良い」ということを語る場合も、大して違いはありません。どちらも、「同じコイン」の裏と表についてそれぞれ語っているだけです。

 

「これが自分の『悪いところ』だ」と言う場合、本人がたとえ自覚していなくても、「良い」がその人の心の中に生まれています。「これが『良い』であって、それが自分にはない」という判断が、「悪い」を生むのと同時に、内側に生み出される。

そうなると、私たちは「『良く』あらねばならず、『悪く』あってはならない」と必ず思います。「良い」と「悪い」という概念が、そもそもそういうものだからです。

それゆえ、「これが自分の悪いところだけれど、それも受け容れよう」といくら思っても、無理があります。「悪い」は必ず「良い」を生むからです。そして、「自分は悪い」と思っている限り、「自分は良くない」ということになるしかなく、そのような「良くない自分」を受け容れようとするので「余分な力み」がどうしても必要になるのです。

 

私が言いたいことは「『良い』も『悪い』も実際にはありはしない」ということです。

私たちが何かを「良い」と言うから「悪い」が生まれるのです。もしも「悪い」を本当になくしたいのなら、「悪い」を必死になって避けようとするのではなく、何かを「良い」と思うことを初めからしなければいいのです。そもそも何かを「良い」と思うことをやめてしまえば、「悪い」も自然と生まれなくなるからです。

言い方を換えてみます。「自分のこういう部分は『悪いところ』だけど、それは許してあげよう」とか、「自分のこういう部分は『良いところ』だから、もっと誉めてあげよう」とかいった仕方で自分を「良い」と「悪い」とに切り分ければ切り分けるほど、本当の意味で「ありのままの自分」を受け容れることからはかえって遠ざかっていくのではないかと、私は思っているのです。

 

「ありのままの自分」には「良い」も「悪い」もありはしません。それらの「良い」や「悪い」は、生まれてから教育されてきた過程で染みついた、私たちの思い込みから来る「解釈」に過ぎない。

もし相対的な「悪い」と関係の無い「絶対的に良い」というものが何かあるとするなら、「宇宙が今あるようである」ということぐらいのものだろうと私は思います。

これも言い方を換えてみます。私たち一人一人が「今あるように生きて在る」ということは、「良い」でも「悪い」でない、「絶対的に良いこと」だと私は思っているのです。

 

私たちは時として怠惰かもしれません。怒りに流されることもあれば、恐れから身動きが取れなくなることもあります。自分の身を守るために他人を売るような卑劣なことをするかもしれません。

でも、それがなんでしょう。

それらはたしかに、相対的には「悪い」と言われるようなことかもしれません。でも、もしそれらを「悪い」と言うならば、それと同時に私たちは自分の内側を「良い」と「悪い」とに切り分けて、分割することになります。もともとは「そのまんまの一つ」であったものを、二つに分割することになる。

するとここに、「良い」と「悪い」との終わりのない闘いが起こります。私たちがいくら意識の表層では「悪い自分」を許してあげていたとしても、意識の深いレベルでは私たちは常に「悪い」を滅ぼし、「良い」を追い求めようとします。これが、私たちの心身に「不断の緊張」を生み出すのです。

 

では、私は「『良い』も『悪い』も決めないことが『良い』のだ」と言いたいのでしょうか?

実際にはそうではありません。上でも書きましたが、私は「『良い』も『悪い』も本当は存在しない」と言いたいだけです。でも、それを他人が理解できるように論理的に語ろうとすると、「『良い』も『悪い』も決めないことが『良い』のだ」という風に聞こえるような仕方でしか表現することができないのです。

 

古来より、この「言葉」と「論理」がもともと持っている「分別を不可避的に生み出すメカニズム」について熟知していた人々は、何かを語るときにはいつも慎重でした。

自分が何かを語ると、それによって必ず「真実」が歪められてしまうということを、彼らはよくよくわかっていたからです。

「語る」は「騙る」に通じる。私たちは「言語化」によって、避けがたく「真実」を壊してしまいます。

なぜなら、そもそも私たちには「真実」を一度壊してから再構築する以外に、それを他者に向かって表現する手段がないからです。

 

でも、「『真実』をそのままの形で表現するための手段がない」というだけで、「『真実』をそのまま生きることができない」というわけではありません。

むしろ、「真実」は常に今ここで起こっています。私たちが世界を「良い」と「悪い」とに切り分けなければ、「真実」はいつも在るのです。

 

瞑想は、私たちがこの「真実」をそのまま生きることを助けるための方便の一つです。

瞑想の技法に取り組んでいくと、人は「言葉」を失っていきます。自分の頭を四六時中取り巻いている「言葉の渦」を少しずつ離れていく。

とはいえ、別にそれによって瞑想者が「言葉」を使えなくなるわけではありません。ただ、生まれてからの習慣によって自動的に次から次へと生み出される「言葉による解釈」を脇に置いて、世界を「ありのまま」に見ることができるようになっていくということなのです。

瞑想の実践によって「絶え間ない思考」は徐々に静まり、「言葉」や「解釈」が私たちの認識を汚す前の世界に、瞑想者は直接アクセスすることができるようになっていきます。その「ありのままの世界」は、かつて私たちが生まれたときに見ていた世界と近いのかもしれません。

そんな風に、世界を「ありのまま」に見て、「良い」でも「悪い」でもない「そのまんまの自分」を生きている状態をこそ、本当の意味で「自分自身を受け容れた状態」と言うのではないかと、私は思っています。

 

次の記事へ

前の記事へ