「知識」の向こう側

「知識」というものは、本を読んだりネットで調べ物をしたりすれば増えていくものですが、それだけが「知」というものの全てというわけではないと、私は常々思っています。

「知識」はあれこれ文章を読んだり、いろいろ話を聞いたりすると蓄積されていきますが、それは「外から付け加えて貯めないと増えない」という性質を持っています。既に持っている「知識」と「知識」を組み合わせて新しいバリエーションを作ったりすることもできますが、基本的にそれらは「既に知っているもの」の変化した形に過ぎません。

それはちょうど、「どこかで買ってきた衣服」のようなものです。「買った服」というのは、外から補充しないと増えないし、既に持っている服同士を組み合わせることでしか変化を生み出すことができません。

「簡単に着脱できる」という点でも、「知識」は服とよく似ています。どこかよそから仕入れた「知識」は、その人自身を源泉としていないので、いくらでも付け替え可能なのです。たとえば、ある人がつい昨日まで人々の前で語っていた「知識」が、次の日にはまったく別なものに入れ替わっている場合もあります。そういうことをしても、自分の中の一つの認識と別な認識との間で葛藤を生じたりしないし、その葛藤を時間を掛けてほぐしていく必要もない。「知識」から「知識」へと、人はいとも容易く乗り換えていきます。

また、「知識」は流行が過ぎたら呆気なく人々に捨てられてしまいます。それが他人の注目を集めるうちは「宝物」のように扱われますが、もし誰の注意も引かなくなると、みんなあっさりこれを捨てます。

そのあたりも服と似ています。私たちは、「知識」によって「他人と同じ流行に乗っている」ということを確認できるし、それを巧みに配列することで自分を飾り立てることができる。「知識」を共有していれば、私たちは「独りぼっち」にならなくて済むし、「知識」をたくさん持っていれば、「一角の人物」のように他人から扱ってもらえるかもしれない。

 

服も「知識」も便利なものです。

でも、この便利さに依存してしまうと、いろいろ問題も起こってきます。

まず、さっきも書きましたが、「知識」は外から絶えず補充しないと自然には増えません。そして、一度それを他人に語ってしまうと、私たちは自分の中で「何か」が減ったと感じる。もしも外から仕入れた「知識」によって自分の権威が保持されているのであれば、この「何かが減った感じ」によって、その人は焦り始めます。このまま「蓄えたもの」が減り続けたら、じきに他人は自分のことを尊敬しなくなる、と思うからです。

もし「知識」によって何かを得ているならば、そして、その「既に得ているもの」を失う覚悟がないならば、人は「知識」を外から摂取し続けなければなりません。いつまでも情報を収集し続け、しかもそれを小出しにするようになる。なぜなら、たくさん出してしまうと、そのぶん「減り」が速くなるからです。

「知識」を拠り所にしていると、人はだんだんとケチくさくなります。というのも、知っていることを何もかも出し切ってしまったら、その人は最後に「裸」になってしまうからです。もう見せる服がないから、「自分自身」を見せるしかない。でも、誰も「自分の裸」なんて他人に見せたくはないので、出し惜しみをして、「知識」の影に「自分」を隠してやり過ごそうとするのです。

そして、この「やり過ごそうとする傾向」が、その人を徐々に神経症的にします。「服の向こう」に隠れている「自分自身」が他人からは透けて見えやしないかと、恐くなってくるのです。それで疑心暗鬼になり、人目につかないところで必死に情報収集をしては、そうやって得た「知識」をますます出し惜しみするようになります。

次々に「目新しい服」を見せ続けなければ人々からの尊敬を失うし、かといって全部見せてしまうと、最後には「別に何者でも無い自分」を晒すことになる。「何者でも無い者」を尊敬する人は、世の中にほとんどいないので、一度「知者」という衣服を着て人々の前に立ってしまうと、それを捨て去ることはなかなかできません。

 

非常に多くの人々が、「何者でも無い者」であることに耐えられないでいます。自分を「何者かである」と思いたいがために、たくさんのものに私たちはしがみついています。

「知識」もまた、私たちを「何者か」に仕立て上げてくれるものの一つです。私たちは「知識」を外から仕入れてくることで、「そのまんまの自分」とは別な「何者か」を演じることができるのです。

でも、どうして私たちはこんなにも「自分自身」を他人から隠したいのでしょうか?

 

子どもの頃からの教育の結果、私たちが「ありのままの自分」を深く罪悪視するようになっているから、というのが私の考えです。

私たちはいつも「ありのままの自分」を隠すように教えられてきました。幼い子どもの内側には、自発的な好奇心もあるし、自然な欲求も殺されずに残っています。

でも、どれだけの子ども達が自分の好奇心をそのまま育てることができるでしょうか?というのも、もしも子どもが興味の赴くままに行動すれば、他人の持ち物を奪うかもしれないし、大事な家具を壊してしまうかもしれないのですから。

幼い子どもにはまだ「物には持ち主がいる」という社会のルールを知らないので、「これはなんだろう?」と思うと、それが他人の持ち物だろうと店の売り物だろうと、そのまま持って行きかねません。また、「中がどうなっているか気になるから」という理由で、家にある時計を分解する子もいます。時計の「経済価値」なんて、子どもは知りもしません。高価な時計も安っぽい時計も、軒並みバラバラにされてしまいます。

赤ん坊は、気になるものは何でも口に入れようとするし、手を使えるようになれば何にでも手を伸ばします。子どもの安全性を配慮してそれを制止する必要もあるかもしれませんが、ヒステリックに「そんなものを触ってはいけません!」と怒鳴る親もよく見かけます。こういったことが繰り返される結果、子どもの口や手は徐々に生気を失っていくのです。

 

子どもが「ありのままの自分の考え」を口にすると、大人はよくこれをたしなめます。子どもが「王様は裸だ」と正直に言うと、「そんなことを言ってはいけない」と止められます。私たちは「思ったこと」を言うことを止められ、笑いたくないときに笑うように言われ、泣きたくないときに泣くことを強要されます。

みんなが思っているのと同じように自分も思わねばならない。みんなが笑っていたら、しかめっ面をしているのはマナー違反だし、みんなが泣いていたら、悲しくなくても泣かないと仲間はずれにされてしまいます。

私たちは「自分の感覚」をどんどん信頼しなくなっていきます。子どもが「自分の感覚」に従っていると、往々にして、彼/彼女を取り巻く世界全体がそれに反対するからです。

教育がすっかり完了する二十歳頃には、私たちは「強要された演技」のほうを「自分の感覚」として誤認するまでになります。そして、まったく信頼されなくなった「内的な感覚」は、次第に錆び付いて埋もれていってしまう。こうなってしまうと、もはや「自分はまるで悲しくもないのに泣く振りをしている」ということに、本人は気づくこともありません。「自分の悲しみ」に触れるための「感覚」という通路そのものが、既に断絶してしまっているからです。

 

私たちは「ありのままの自分」を罪悪視しています。「ありのままの自分」は、いつも「間違っている」と言われてきたからです。

そして、私たちがそういった「他人の言葉」を信じれば信じるほど、私たちは他人に対して「本当の自分」を隠そうとします。その存在そのものが「罪」なのだと、他人から言われるままに、私たちが信じてしまったからです。

 

私たちの「本質」は、善でも悪でもありません。私たちの「本質」は、ただ「自然」なだけです。

死にそうになったら恐れるし、抑え込まれたら反発します。それは生き物にとって「自然」なことです。

でも、そこですぐさま「恐れるな」とか「怒るな」とか言われる。「自然とそこに在るもの」は、必然性があって存在しているのに、大人はいつもそれを子どもに許さない。こうして子どもの「自然」はねじ曲げられ、もともとは存在しなかった「罪悪感」という「不自然なもの」を後から植え付けられます。

そして、これは考えてみれば当たり前なことですが、「罪悪感」を抱いている人間は、そうでない人間よりもずっと管理したり操作したりすることが容易なのです。

そもそも「自分のことを罪悪視していない人間」は、自分自身の「内なる欲求」にだけ忠実であろうとします。そうすると、これを外から管理することはほとんど不可能になる。彼/彼女は誰の命令も聞きません。ただ、自分の「内なる声」に耳を傾け、それに忠実であろうとするだけです。

でも、「自分は罪を犯しているかもしれない」といつも疑っている人間は、外から簡単に操作できます。いくら理不尽な命令をしても、彼らはそれに反抗したりしません。もしも「反抗しよう」という想いが内側で湧き起こっても、当人は「そんなことを考える自分は本当にダメなやつなんだ」と考えて、外側には問題を起こさず、自分の内側へと「傷」を作り続けます。

「命令されても反抗せず、『反抗の意志』を持つことそのものを罪悪視する人間」は、管理コストがとても安く済みます。ですから、「可能であればそういった人間をこそ量産したい」という欲望が、社会の側には当然生まれてきます。

そして、この「社会」というものを拠り所にする限り、私たちは「自分を罪悪視する人間」へ人々を変えようとする「社会的な空気圧」に、どうしても翻弄されてしまう。

 

私たちはもともと、「何者でも無い者」として生まれました。

そして、あれやこれやの欲望や自己都合を持った大人達が、様々な「衣服」を私たちに与え続けた。「このようであれ」「ああであってはならない」「こうでなければならない」と、いつも「理想」に向かって駆り立てられ、もしそこから少しでも逸脱したら、誰からも責められていないのに自分から進んで「罪悪感」を背負い込むよう、私たちはすっかり条件付けられてしまっている。

 

私たちは「知識」を手放せない。「自分は何者かである」という仮面を手放せない。

そして、いつもいつも仮面をつけ続けているものだから、いつのまにかどれが「仮面」でどれが「素顔」なのか、私たちは自分でもわからなくなってしまったのです。

 

私たちの「演技」と「偽の感情」の山の下に、「内なる感覚」が埋まっています。

私たちが摂取し続けてきた「知識」の山の下に、「内なる叡智」が埋まっています。

それらは誰か他人から与えられたものではなく、私たちが元から持っていたものです。

私たちはただ「何者でも無い者」として、一つの純粋な「意識」として、たった一つの「命」を生きるためにこの世界にやってきました。

全ての「衣服」と「仮面」を取り去ったとき、私たちに残されるのは「それ」だけです。そして、全ての人が、「それ」を持っているのです。

 

「衣服」は、持っている数の多い人もいれば、ほとんど何も持っていない人もいます。

それなら、もし「衣服」を持っていなかったらその人は「人間」じゃないかというと、そうではありません。

むしろ、全ての「浅薄な衣服」の向こう側に、いつも「人間」がいるのです。

 

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