道徳嫌い

「道徳」というものが、私は嫌いです。

私がここで言う「道徳」とは、「~すべきである」とか「~すべきでない」とかいった規則の羅列のことですが、こういったものが人間社会にとって本当に必要かどうかは疑わしいと私は思っています。

多くの人はきっと私の考えに反対するでしょう。「もしも規則がなくなってしまったら、世の中はめちゃくちゃになってしまう」と思う人も少なくないはずです。

でも、私は逆に、「規則」というものがあるために、世の中に「余計な問題」が生み出されていると思っています。

 

そもそも人間は何かを禁止されるとそれに反発したくなるものです。「これをするな」と言われるとかえってしたくなる。「絶対これをしろ」と言われると、意地でもしたくなくなる。

これは私たちがみんな「独立の欲求」を持っているためです。この世の誰も、「他人の命令」を聞くためにこの世界にやってきたわけではありません。誰もが「自分自身の人生」を生きるために、ここにいるのです。誰もが自分の意志を持ち、「ありのままの自分自身」を生きたいと本心では望んでいます。

「あれをしろ」「これをするな」という外からの命令は、たとえそれが理に適ったものであったとしても、聞く人の内側に反発を生みます。他人からの命令というものは全て、「自分自身であること」に反するからです。命令された通り動いている時、人は「間違い」は犯さなくなるかもしれませんが、「自分自身」を生きてはいません。命令通りに動けば動くほど、人は「ロボット」のようになっていきます。

それで人は欲求不満になります。「人間」ではなく「ロボット」のように生きていても、その人の内側では「大事な何か」が満たされないからです。もし「他人の言うこと」を聞き続けて、それで社会的に成功しても、その人は「最も大事なもの」を全て失うことでしょう。

それゆえ人は時として、もし「間違い」を犯すことになったとしても、他人の命令を聞くよりは自分自身で決断したいと望みます。それによって、「自分は生きている」という実感が得られるからです。そのとき初めて、「間違い」もまた「自分の間違い」になります。「他人の命令」に従ったわけではないのだから、「間違いの責任」も自分自身で引き受けるしかありません。それによって人はより成長し、「同じ間違い」を犯さなくなっていきます。そして、「自分はたしかに前に進んでいる」という確かな充実感を抱くのです。

 

子どもはみんな「自分自身」を生きようとしています。それが人間としての本来の状態なのです。

しかし、大人がよってたかってこの状態を歪めてしまいます。子どもを社会に順応させるために、「あれをしろ」「これをするな」という命令をし続ける。

しかし、全ての命令は子どもの「自分自身でいたい」という根源的な欲求と対立するので、それが命令である以上、何を言っても子どもは反発します。「早く寝ろ!」と言ったら「寝たくない!」と言うし、「まだ寝るな!」と言ったら「もう寝る!」と言います。これが、私たちが「自分は他人から独立した一個の人間である」ということを最初に主張するときの仕方です。その主張の内容はただ一つ、「私に命令するな」ということです。

 

あまりにも画一的なメソッドが、人を本当に変えることがないのも、ここに理由があります。「これをすればあなたは幸せになれる」とか、「毎日これをすれば必ず問題は解決する」とかいった風に宣伝される方法論にいくら従っても、人は深いところでは何も変化しません。それは、「他人に言われたこと」を忠実に守っている限り、本人の「自分自身を生きたい」という欲求が決して満たされないからです。

しかし、同じそのメソッドを開発した創始者自身は、「自分」でそれを作り上げることでこの欲求を満たすことが既にできているので、深い自己充足感を味わうことができます。これがメソッドの創始者たちに「落ち着き」を与え、この深い「落ち着き」から「威厳」や「カリスマ性」が生まれてくることになるのです。

よって、実際にはメソッドが「落ち着き」や「威厳」をもたらしたのではないのです。その人が「自分自身」であることができているので、自然とその一挙手一投足には「落ち着き」や「威厳」が宿るのです。

メソッドというものは、ある人が「自分自身」になる過程で必然的に生まれた副産物に過ぎません。それに従うことによって「自分自身」になることができるのは創始者だけです。他の全ての人にとって、メソッドに従うことは「自分自身の放棄」に繋がらざるを得ません。そこにはいつも「自分は言われた通りにできているだろうか?」という疑いがあり、「指導者から『失敗している』と見なされたらどうしよう」という恐れがある。

この恐れと疑いゆえに、人は決して「自分自身」にくつろぐことがありません。たとえ「くつろぎをもたらすためのメソッド」であっても、それに従っているうちは「くつろぎ」は決してやってこない。むしろやればやるほど恐れや疑いが強まり、それらに束縛されて、「不断の緊張」が生み出されてしまいます。

 

あらゆる「規則」は、人が「自分自身」であることに反します。「自分のために自作した規則」だけが「自分自身」であることを助けることができる。

しかし、この「自分」の中にも、教育の過程で多くの「他人からの命令」が混入してしまっています。それゆえ、「規則」を自作するときにも、「かつて他人から教え込まれた規則」が介入してきてこれを歪めてしまいます。そうなると「自作した規則」さえも役に立たなくなる。

 

あらゆる命令は人の内側に反発を生みますが、この反発を私たちはいつも表だって表現できるとは限りません。自分の反発を隠さないことは、時として非常に危険な場合もあるからです。

それで私たちは心の中では反発していても、これを隠して見せないようにします。問題が起こるのは、反発が自分からも見えないほどに抑圧されてしまった場合です。

自分より立場の強い者への反発は、多くの場合、恐怖を伴います。相手に表だって反発することによって、自分が破壊されるかもしれないからです。

もしも非常に高圧的に他人から命令され続ける環境に身を置いていると、私たちの中で恐怖が育ち始めます。他人から命令されると、私たちは必ず反発を内側に生じます。これは私たちが「一個の人間として生きたい」という欲求を持っている以上、避けることができない。

しかし、もしそこで反発を表現することが厳しく禁じられていたら、私たちは自分の恐れに支配されないでいることがとても難しくなります。この恐れがあまりにも強くなって私たちを圧倒するようになると、命令される度に内側で発生している「反抗心」を、私たちは徐々に自覚できなくなっていく。というのも、「反抗したい」と思うことさえもが危険なことのように感じられるからです。

実際、立場の弱い人間を強権的に支配したがる人というのは、往々にして、相手の「反抗心」に敏感です。相手がわずかでも「反抗」しようとする兆しが見えると、神経症的に相手を叩き潰して屈服させようとします。

それゆえ、「反抗」を強く禁じられると、人は「反抗したい」という想いが自分の中で生じること自体を、自分に許さなくなっていきます。そういう想いがちょっとでも外に出てきそうになると、これを抑え込んで隠してしまう。自分を支配している相手に「反抗心」の存在が露見すると危険だからです。

しかし、あまりにも素早い手際で奥深くへと隠すので、だんだんと本人にも自分の「反抗心」が見えなくなっていきます。相手にも「反抗心」が見えなくなるかもしれませんが、自分自身にも何を隠しているのかがわからなくなってしまうのです。

 

こうして「反抗心」は本人にも見えないほど意識の奥深くへと押し込まれ、そこで少しずつ育っていきます。このような人は、表面的にはおとなしく見えるけれども、その「おとなしさ」は「内面的な落ち着き」から自然と生まれたものではなく、「内側に密かに抑え込んだ『反抗心』を見抜かれて他人から罰されるのではないか」という当人の「恐れ」に由来しています。そして、同時に内側の最も深いところには、溜め続けられた「怒り」と「憎しみ」が煮えたぎっている。「どうして私を『自分らしく』生きさせてくれなかったのだ!」という悲痛な叫びが、その人の奥深くでは木霊し続けており、何かの拍子にそれが顔を出すこともあります。

何か陰惨な事件が起こったとき、「あんなにおとなしい人がどうしてこんな恐ろしいことを…」という述懐がしばしば口にされますが、「表面的におとなしく見える」ということの奥にいったい何が抑圧されていたのかは、あまり理解されません。

外から見える「おとなしさ」は「仮面」に過ぎない。それは「自分らしく生きたい」という非常に強い「内的な叫び」を抑圧し続けるために、本人が苦肉の策として作り出した「自分を縛る鎧」なのです。

 

「命令」や「規則」は、人が「自分自身」であることを妨げます。そして、「自分自身」にならない限り、人は必ず欲求不満になる。この欲求不満が深い憎しみになり、激しい怒りの土壌になります。

他人から命令に従うように強制されることで生まれたこの怒りと憎しみが、やがてその人の中にも「他人に命令したい」という欲求を作り出します。「自分自身でいることを許してもらえなかった」という恨みが積もり積もって、「他人に命令せずには居られない人間」が生み出されるのです。加害者は「かつての被害者」であり、被害者は「未来の加害者」となる。

そういった個人の怒りや憎しみが社会秩序を壊さないように調整するのが「道徳」というものの役目だと多くの人が思っていますが、実際にはその逆です。「道徳」があるからこそ、私たちの内側で怒りや憎しみが育まれ、それが世代を越えて連鎖していくことになるのです。

 

しかし、だからといって今すぐ全ての「道徳」を撤廃してしまうというわけにもいきません。「その選択肢がそもそも現実的ではないから」ということも理由の一つですが、もう一つの理由のほうがより決定的であり致命的です。それは、そもそも「道徳」というもの無しでは存続できないほどに、私たち人類全体の精神が深く病んでいるということです。

私たちの中にはあまりにも多くの怒りと憎しみが溜め込まれています。それらは深く抑圧され、自分では見えなくなっている。もしも「道徳」がこの世から一掃されたら、早晩これらの怒りや憎しみが暴力的に噴出するでしょう。そうなったら私たちは私たち自身をお互いに破壊し尽くすことになるはずです。私たちの精神は「道徳による強制」が無くてもお互いに共存できるほどに、まだ成熟はしていないからです。

 

「道徳」の無い世界でも人類が生きていけるようになるためには、誰かが始めなければなりません。誰かが「自分自身の病」を見ることを始めなければならないのです。

「他人の病」をどうこうしようとする限り、「道徳」は決してなくなりません。なぜなら、「道徳」というものは、私たちが「思い通りにならない他人」をなんとかしてコントロールしたいときにこそ、いつも利用されるものだからです。

私たちのやり口はこうです。まず自分がコントロールしたいと思っている相手に、「あなたのやっていることは『道徳』に適っていない」と示唆することで、その人に罪悪感を抱かせようとする。そして次に、この罪悪感を効果的に刺激することで、相手を自分の望む方向に誘導しようとするのです。

そうすることによって、相手は変わるかもしれませんが、「他人を支配しないではいられない」という「自分の病」はそのままです。しかも、それによって相手の中にもともとなかった罪悪感が根付くことになるので、これではお互いに「病気」を深めてしまうようなものです。

 

このことに気づいた多くの人たちが、「他人を変えること」をやめ、「自分を変えること」を始めました。たとえ、自分の努力に誰も気づいてくれなくても、他人がそれに反対しても、彼/彼女は「自分を変えること」を決してやめません。

「自分を変える」といっても、別に何かを新しく身につけるわけではありません。むしろ反対に、自分がこれまで身につけてきたものがいったいどのような「地獄」を作り出しているのかを、その人はただ理解しようとするのです。

 

自分で自分の中に「地獄」を作り出すことをやめることができて初めて、その人は救われます。

この世の誰も、他人に救ってもらうわけにはいきません。他人は、当人が「自分の地獄」を見つめることを外から援助することならできますが、他人が代わりに「地獄」を見ても、本人が自分で見なければ意味が無いのです。

「他人の目」は他人のものだし、「自分の目」は自分のものです。本人が自分の目で見て、自分自身で理解しない限り、「地獄」は決してなくなりません。

 

そして、「自分で自分を救うことのできた人」の数が増えることによってしか、この世界を根本から変える方法はない。

他人をより「道徳的」に教化しても、社会環境をいくら調整しても、それらは全て一時しのぎにしかなりません。「外側」をどれだけ整えても、あいかわらず私たちの「内側」には怒りや憎しみが残っているでしょうし、それらが暴発しないよう、よりいっそう「道徳的な強制」が必要になっていくでしょう。そして、「強制を強めること」によって、ますます私たちは抑圧的になり、病的になっていくのです。

 

本当の問題は、私たち一人一人が病んでいるということです。

そのことを自覚した人たちがそれぞれに「自分の試み」を始めるという営みが、もう何千年も続いてきました。それでもまだ私たちの生きるこの世界は病んでいる。

私たちの社会に「道徳」が存在しているのは、私たちが「道徳」というものを発明できるほどに理性的だからなのではなく、私たちの心が「道徳」というもの無しではやっていけないほどに深く病んでしまっているからなのだと、私は思っています。

 

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