罪悪感の根っこ

「自分自身を罪悪視する」という心の傾向がどういう風に生まれるのか、最近いろいろと考えます。

「自分は何か『悪いこと』をしている」とか、「自分の中には何か『決定的に間違った部分』がある」とかいった疑いに取り憑かれてしまい、これが昂じると、頭痛や吐き気など身体に異常をきたしたり、集中力の減退や自己破壊的な衝動が昂進するなど精神面での異常をきたす場合もあります。

この症状が心の深いところにまで浸透してしまうと、「自分が存在していること自体が罪深い」とか、「自分は生きているべきではないのだ」とかいった風に思うようになることもある。

 

十代の後半頃にはこういった想いに悩まされる人が少なからずいると思うのですが、大人になってからも「自分自身を罪悪視する」ということが続いて苦しんでいる人は多いでしょう。

原因はいろいろあると思うのですが、その一つとして、親が抱く「我が子への殺意」の存在が挙げられると思います。

 

親が我が子「殺そう」と思うことなどあるはずがないと、多くの人は考えていると思いますが、私はそうは思いません。「子が憎い親などいるはずがない。全ての親は必ずや子どもを愛するものだ」という価値観が世の中にはある程度広く浸透しているように感じますが、「そういう価値観が道徳的に正しいものだ」と多くの人が思い込んでいるために、「余計な問題」が多発していると私は思っています。

 

そもそも、何かを「邪魔だ」と思ったり、「消してしまいたい」と思ったりすることは私たちにはよくあることです。「これさえなければ全てうまくいくのに」とか、「こいつがいなければもっと自分は落ち着いて気楽に過ごせるのに」とかいった風に考えることは、日常の中に探せばいくらでも見つかります。それほどに、私たちは「自己中心的」に生きている。

私たちの中には「自分自身を生きたい」という根源的な欲求があり、この欲求を阻む何かが現れた場合、私たちは必然的に「攻撃的」になります。ただし、この「攻撃性」は必ずしも「正当性のない暴力」という形を取るわけではありません。「攻撃性」というと、とかく私たちは「暴力」を連想し、「攻撃的」であることそのものを危険視するところがあります。

しかし、「攻撃性」は、「私には自分らしく生きる権利がある」と主張するために、時として「自分よりも強い相手」や「社会体制」などに向かって、「個」を貫く際にも発揮されるものです。自分自身の「内的な欲求」に従って、自発的に外部へ進み出ていき、「攻撃的」に「我(われ)」を主張するのです。

 

そういう意味では、「自分自身」を社会に叩きつけるように表現する芸術活動も、人間の「攻撃性」の発露と言えます(もちろん、「自分自身」を表現するのではなく、単に「習得したスキル」を誇示するだけの表現活動はここには含まれません)。

また、「攻撃性」というものは、私たちが困難にぶつかったときや、逆境の中にあるときにも発揮されます。現実は厳しく、自分の望みは叶わないかもしれない。そういう時に、自分の目の前にある苦境と全力でもって闘い尽くす。これもまた、「攻撃性」の発露の一つの形です。

 

このような形で「攻撃性」を発揮するとき、人は非常に強くなります。「相対的に強くなる」のではなく、「絶対的に強くなる」。「相対的な強弱」は「勝ち負け」によって計られますが、「絶対的な強弱」は「勝ち負け」によっては計りきれません。

「絶対的に強い人」は、たとえ相手が自分より「相対的に強い」場合でも、仮に自分の方が劣勢になっても、簡単には諦めない。もし負けたとしても、何度でも立ち上がります。

反対に、「絶対的に弱い人」は、たとえ「相対的には強い」としても、相手によって、状況によって、簡単に諦めて「自分自身」を引っ込めてしまいます。

それゆえ、権力者というものは、いつの時代も被支配者を「絶対的に弱い状態」に置こうとしてきました。もしも被支配者たちが「絶対的な強さ」に目覚めてしまったら、権力者側の支配体制がひっくり返されるかもしれないからです。

 

私の見るところ、「攻撃性」が「道徳的に悪」とされるのも、これが主な理由です。

「攻撃性」は、もしも正当に発揮されると、必ず既存の社会体制を破壊するように働きます。なぜなら、「体制」というものが必ず「個人」を否定するからです。「個の目覚め」が広がれば広がるほど、人々の間に「体制はもう要らない。我々は我々だけでやっていける」という自信が根付いてしまう。

全ての「体制」が崩壊したら、「支配者」と「被支配者」が同時にいなくなります。もはや誰も「他人から支配されたい」とは思わないし、誰も「他人を支配したい」とも思わなくなる。

しかし、もしそのような状態になってしまうと、「既存の体制における支配者」にとっては非常に都合が悪いのです。なぜなら、「支配者」というものは、「誰か他人に支配してもらいたい」と思っている人が一定数いないと「支配者」であり続けることができないからです。

全ての「支配者」は、「被支配者」の存在に依存しています。「被支配者」が存在しなくなったら「支配者」というものは存在できない。

それゆえ、「支配者」が「支配者」であり続けようと思ったら、人々に「もう私たちに支配者は要らない」と絶対に言わせないようにしないといけない。つまり、人々が「絶対的な強さ」を獲得して「攻撃性」を発現させないように、それがまだ「芽」のうちに摘んでおく必要があるのです。

 

これが、子ども達に「攻撃性」の発露そのものを禁止する風潮が生まれた最も根源的な理由だと、私は思っています。

現実に、子ども達が「自分自身」を主張して、自分より肉体的にも社会的にも強い大人に闘いを挑もうとするとき、ほとんどの大人はこれを「道徳的に禁止」します。子どもの側の「攻撃性」を、自然なものとして受け容れるわけでもなく、大人自身も「一個人」となって真っ向からそれを取り上げたりすることもなく、一方的に「禁止」してしまう。

もし「攻撃性」を受け容れてもらえたら、子どもは「我」を主張することを通して自発的に成長していくでしょうし、やがては自分の「我」を尊重するのと同じように、他人の「我」も尊重するようになっていくことでしょう。

あるいは、大人が「道徳」という「人間で無いもの」に話をすり替えずに、「我」を主張する子どもと同じ「一個人」として応接していれば、子どもは「相対的に弱い」のできっと大人との闘いには負けてしまうでしょうけれど、それによって子どもの中に「気骨」を育てることはできるでしょう。「自分はとにかく大人ともやりあったのだ」という自負を、子どもは持てるはずです。

でも、実際には大人は「道徳」を持ち出して話をすり替え、子どもの「我」を受け容れるのでもなく、それと真っ向から闘うのでもなく、一方的に罰することで子どもの「我」を骨抜きにしてしまいます。そして、骨抜きになった子どもは「攻撃性」を減退させ、親に従順な「聞き分けの良い子ども」になっていきます。

これは、おそらく親自身は無自覚だと思いますが、「支配者」が「被支配者」を「絶対的に弱い状態」に留めるときに行っているのとまったく同じ手管です。それによって親は子どもを「管理」しやすくなりますが、同時に子どもの中にあった野性的な「生物としての強さ」は失われていく。「強くあって欲しいけれど、聞き分けがない子はイヤだ」というのは無理な相談であって、「強い子」というのは、基本的に「大人の言うこと」は聞かないのです。

 

この「攻撃性」に対する「道徳的な禁止」が、子どもの中に「罪悪感」を生み出すのだと私は思っています。

「攻撃的になること」そのものを「罪」として禁止された子どもは、自分の中に「攻撃性」が生まれそうになってくる度に、「罪の意識」に苦しむようになります。「もうこれ以上、助言だろうと命令だろうと、親の言うことは聞きたくない」とか、「世間に押しつけられた価値観にはもう耐えられない」とか、「他人は『現実的じゃない』と言って嗤うだろうけど、それでもこれをやってみたい」とかいった「攻撃的な想い」が生じたとき、これらを全て反射的に抑圧するようになる。

これによって、親にとっても教師にとっても、企業経営者や政治指導者にとっても、「非常に扱いやすい人間」が作り出されます。同時に、子どもの内側には「自分自身でありたい」という欲求を挫かれたことによる、「強い憎悪」が根付くことになる。

「道徳」というものの「罪深い」ところは、このような「支配者に対する正当な憎悪」の存在さえをも罪悪視するように子どもを条件付ける点です。子どもはもはや、自分を「『我』を主張する人間」ではなく「言うことを聞くだけのロボット」にしてしまった相手に対してさえ「反抗心」を持つことができません。なぜなら、「反抗心」を持つことこそ、まさに「攻撃性」の典型的な表現形式であり、「道徳的」に育てられた子どもは、自分が抱く「反抗心」そのものを罪悪視せざるを得ないからです。

 

子どもはこの「出口のない無限ループ」に、たった一人で閉じ込められます。そのループの中では「かつて発揮し損なった攻撃性」が時間とともに腐敗して、「殺意」や「暴力性」となって駆け巡っている。もしこれが外部に向かって暴発すれば殺傷事件を引き起こすし、自分自身に向かえば自殺への衝動になる。

このような状態にある人がもしいつか親になったら、我が子に「殺意」を向けないでいることは、容易なことではないと私は思います。なぜなら、我が子はまだ「我」を失っていないからです。そこにはまばゆいばかりの自発性があり、まだ腐敗していない自然な「我」の声がある。

親もまたかつては同じでした。目の前の我が子と条件は何も違わない。

でも、自分は「我」を許してはもらえなかった。だとしたら、どうして目の前のこの子だけ、「自分自身」を生きていいものだろうか。

仮に親がふとそう思ったとしても、私は何の不思議もないと思います。

 

もし親が、成長の過程で「我」を主張する力を取り戻し、「自分自身を生きることで自分を満たす生き方」を回復していれば、我が子にも「我」を主張することを許してあげられるでしょう。

でも、親自身がまだ過去に受けた傷をかかえ、「自分自身」を押し殺して生きている場合、その人が「我が子を愛する」ということは非常に難しいと思います。なぜなら、「自分自身を愛すること」ができていない人には、「他人を愛すること」なんてできないからです。「自分を満たすことができていない人」は、たとえどれほど強靱な意志を持って頑張っても、必ず無意識のうちに、「自分に足りない分」を他人から奪おうとします。

「自分の人生」が満たされないものだったから、その埋め合わせをしようとして、我が子を社会的に成功させようと躍起になる親などは、まさにこの典型です。

 

「他人を愛する準備」がまだできていない人は、我が子さえも愛することはできないと思います。「自分を十分に満たす」ことがまだできていない人が、もしも我が子を前にして「こいつさえいなければ、自分はもっと満たされるのに」という風に思っても、それは当たり前のことだと私は考えます。

でも、私はそのこと自体をあまり「問題」だとは思っていません。もちろん、全ての子どもは愛を欲します。ですから、親から「憎まれる」よりは「愛される」ほうが子どもにとっては望ましいに決まっています。

でも、「憎しみ」に対してであれば、子どもには公然と「反抗」することができます。「見るからに愛のない親」に対してなら、子どものほうも「憎悪」を持って対抗できる。

「余計な問題」が発生するのは、親が「自分には本当のところ愛情がない」という事実を否認している場合です。自分の内側には「我が子への愛」がなく、実際には憎んでさえいることもあるのに、表面的には「愛情深い親」を演じている場合、子どもは「公然と反抗する」ということができません。このように、「反抗の芽」を最初から摘み取られてしまっていることによって、「問題」は複雑になります。

 

こういう場合、子どもの側はまだ残存している「野性の勘」に基づいて、親の中には「愛」がなく「憎しみ」が存在していることを察知しますが、表面的には「愛情深い」ように見える。そして同時に、「大人の言うことは正しいが、子どもの考えはだいたい間違っている」という何の根拠もない「常識」を子どもは刷り込まれています。それで子どもはだんだんと「自分の内なる感覚」には従わず、親が見せる「表面的な演技」を信じるようになりがちです。そして、これが「自分が内側で感じることはいつも間違っており、他人が言うことが正しいのだ」という思い込みを、子どもの中に育てることになるのです。

「自分が間違っているのだ」というこの感覚が子どもの自信を徐々に掘り崩すことになり、親の「愛情深い演技」の向こうにある「憎しみ」に反抗しようとすると子どもは自動的に罪悪感に苦しむようになります。

この状態が大人になった後も持続すると、「自分をうまく愛せない」という自己愛の障害をきたすでしょう。しかし、こういったケースにおいては、強固に内面化した罪悪感によって「攻撃性の発露」そのものが堰き止められてしまっているので、「自分自身」を強く主張することできませんから、「私は私であっていいのだ」という自己肯定感を心の中に基礎づけることが非常に難しく、このままだと「出口」がありません。

 

しかし、そもそもどうして親は「愛情深い演技」などするのか。

私の見るところ、これもまた「道徳」のせいです。「子が憎い親などいるはずがない」と多くの人が思っている(らしい)という認識が、親に自分の中にある「子への憎しみ」を否認させてしまうのです。

もし親が自分の中に「憎しみ」があるということをありのままに認められれば、子どもに「嘘」をつく必要はなくなります。「嘘」をつかなければ、子どもは時として「愛して欲しい」という期待を裏切られて傷つくかもしれないですけれど、そこから立ち直るための「出口」は残ります。「嘘のない憎しみ」に対してなら、真っ向から反抗できるからです。

だいたい、年がら年中我が子を愛し続けるということが、どれだけの人間にできるでしょうか。私たち凡人の「愛」はいつも「憎しみ」と背中合わせです。それはいつ逆のものにひっくり返るかわからない。

でも、「道徳」の側はそんな各自の都合は容赦してくれない。「『我が子を憎む』ということはあってはならない」と、「道徳」は言うのです。

それで、「あまりにも道徳的に教育された人たち」は必要以上に自分を責めねばなりません。年がら年中「聖人」のようでなければ、罪悪感を抱くことは避けられない。そして、この罪悪感を少しでも和らげるために、人は無意識に「自分の憎しみ」を抑圧し、「聖人であるかのような演技」をするようになるのです。

 

私は、今のような「狂った社会」においては、親が「我が子を殺してやりたい」と思うことがあるのは当然のことだと思っています。

ですが、それは別に「だから我が子を殺してもいいのだ」ということではありません。「『殺したい』と思うこと」と、「実際に殺すこと」との間には、天と地ほどの開きがあります。

私は、今の社会は「道徳」によって人々が生まれ持った「自然な自発性」を束縛することで成り立っており、そのような社会にあっては、鬱積して腐敗した「攻撃性」が人々の中に「殺意」を生じさせても不思議はないと言っているだけです。

私は思うのですけれど、もしも「『殺したい』と思うことさえいけない」というような観念に人々が頭を縛られなくなったら、実際に子どもを殺す親は、今よりずっと減ると思います。

私たち人間が「余計な秩序」を作らなければ、「元からあった秩序」が働き出すはずです。この宇宙には最初から「秩序」があるのです。私たちがそれをほっておかないから、「秩序」を作っているつもりが、実際には「無秩序」が作り出されてしまうのです。

 

子どもはみんな「自分自身を愛する」ということを、ごくごく自然に行える状態で生まれてきます。それは、私たち大人にとっての呼吸と同じくらい自然で無意識に行われている。

でも、この「元から備わっている秩序」を大人がよってたかって破壊してしまいます。大人は子どもをほっておかず、子どもの中に「秩序」を作ろうとして「無秩序」を作り出し続ける。かつて自分が親にされたのと同じことを、我が子にも繰り返してしまうのです。

 

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