叫び

私たちの中心では、いつも「火」が燃えさかっています。

私たちの心は、「叫ぶこと」を欲している。

私たちがこの世に「おぎゃー!」と叫んで生まれてきたときから既にそうなのです。

 

でも、多くの場合、成長する過程で私たちはこの「叫び」を押し殺すようになっていきます。

なぜなら、「自分の中心から来る声」をいつも叫んでいる人間は、他人からすると「迷惑」だからです。「他人に迷惑を掛けてはいけない」という教えが私たちの心に深く染み込んでいくことで、私たちは「自分の言葉」を全て呑み込むようになっていきます。代わりに、「周りの人々が言って欲しがっていること」や、「それを言うのが世間で常識とされていること」だけを言うようになっていく。

たしかに、それによって「いざこざ」は回避できますが、深いところで本人は死んでいきます。「自分の叫び」を押し殺して、「他人の期待」を満たすことを優先し続けることで、当人は内側でゆっくりと死んでいく。

 

私たちはみんな「エネルギーの塊」です。「生命力そのもの」と言ってもいい。

それゆえ、生きていれば「自分自身を叫びたい」という衝動が湧き起こってくるのは、当たり前のことです。

全ての人間が、「叫ぶための力」を持って生まれてきた。その潜在能力を誰もが持っています。

でも、私たちの社会は、「あなたが生きているのは構わないが、叫ぶのはダメだ」と言う。

しかし、「叫ぶ力」を失った人間には、「生きる」ということが不可能になります。「生物として生存する」ということならできるでしょうが、それを「生きる」と呼ぶことに私は同意できない。

 

あまりにも多くの人たちが「叫ぶこと」を禁止されています。

誰もが「自分の居たい場所」に居ないし、「自分がしたいこと」をしていない。今の社会でもしそれを望んだら、周り中が敵になることが内心ではわかっているからです。親はそれに反対する。上司も教師もそれを喜ばない。同僚やクラスメイトからは「異邦人」のように見られ、「最近人が変わってしまった」とか「きっと頭がどうかしてしまったんだ」とか噂されることでしょう。

 

私たちが「闘うこと」を恐れれば恐れるほど、私たちが臆病になればなるほど、私たちは「自分の叫び」を押し殺さなければなりません。

そして、それによって私たちの「命」は必然的に「欲求不満」になる。なぜなら、私たちがもともと持って生まれた潜在能力は、私たちが「叫ぶこと」を自分に許さない限り開花することができないからです。

芽を出し、葉を茂らせ、花と咲く力を与えられているのに、「種のまま死ね」と言われて、種はどうして欲求不満に陥らないでいることができるでしょうか?

 

もし私たちが「自分自身を生きよう」と決意すると、その瞬間に、世界全部が「敵」に回ります。

そういうとき、私たちは自分と同じように「自分自身を生きよう」と決意して孤独に闘い続けている人なら見つけることができますが、「味方」を見つけることは本当に難しい。もしこの孤独に私たちが耐えられないと、「叫びを押し殺す生き方」に戻るほかなくなります。

そうすれば「敵」はもういなくなる。みんなが「絆」によって結ばれた「味方」です。そこでは誰もが同じように「惨め」であり、同じくらい「欲求不満」です。なぜなら、そこでは誰も「自分自身」を生きていないからです。

 

この「惨めさ」と「欲求不満」は解消されないといけません。もし自分が「種」のまま死なねばならないとしたら、それは本当に耐えがたいことです。

内なる「種」が芽を出し、花と咲くためには、私たちは「自分の声」を取り戻し、それを全力で叫ばないといけません。もしそのように「叫ぶために闘うこと」をしないなら、私たちは自分の「惨めさ」と「欲求不満」を解消するために、群れなければならなくなるでしょう。自分と同じくらい「惨め」で「欲求不満」な人同士で集まって、「自分たちは正しい、何も間違っていない」と言い募らなければならなくなる。なぜなら、「偽り」というものは、毎日そうやって補強していないと蒸発して消えてしまうものだからです。

「群れ」の中で人々はお互いに「こういうことが正しいのだ」と言い合い、「やっぱりあの人はおかしいよね」と確認し合い、それらの言明に同意しない人間は即座に排除されることになります。そして、そのようにして排除された人間が、「おかしい人」としてやり玉に挙がる次の候補となるのです。

 

人は、もし「惨めさ」と「欲求不満」を本当に解消しようと思ったら、自分の内側に「孤独に耐える力」を養わねばなりません。

「他人との闘いに勝てるかどうか」は真に重要な問題ではない。そもそも「他人との闘い」は、今の世の中が「惨め」で「欲求不満」な人々で溢れかえっているがゆえに必然的に起こってくる「副次的な事柄」に過ぎません。真の問題は、「自分の孤独との闘い」です。

自分を蝕んでいく深い「孤独」の底の底を蹴破って先へ進もうとする人が現れると、「惨め」で「欲求不満」な人々は必ずこれを妨害します。なぜなら、自分たちが恐くてできないでいることを、その人がたった一人で始めたからです。「自分たちはいつもビクビクしながらお互いに『嘘』を言い合って日々をしのいでいるのに、そこから一人だけ出て行こうなんて、そんなことが許されていいはずがない」というわけです。

「孤独を突き進む人」を目の前に見ると、「群れる人々」の内側には羨望と畏怖の念が芽生え始めます。そこで「私も、自分自身の孤独を探索しよう」と思う人も、100人に1人くらいは出てきますが、他の99人は「羨望」を「嫉妬」に変え、「畏怖の念」を「憎悪」に反転させる。

なぜなら、「孤独を進む人」は「真実」を生きようとしているからです。彼/彼女は、自分がどれほど「惨め」で「欲求不満」かということを、底の底まで見ようとしている。

そういう人は、周りの人にも「真実」を見せてしまいます。自分たちの「惨めさ」と「欲求不満」の根深さを、周りの人たちにも自覚させてしまう。そして、それが周囲の人には耐えられないのです。

ここから、「独立した個人」への大げさな恐怖と、ヒステリックで没論理的な非難とが生まれてきます。「独立を欲する人」は、これら全てとたった一人で闘わなければなりません。

 

「群れ」の中にいる人々は、他人に「自分と同じであること」を要求し、自分自身に対しても「他人と同じようであること」を要求します。他人に対して「私のようであれ!」と命令し、自分に対しても「他人と同じであれ!」と要求する。

でも、これらの要求はどちらも聞き届けられることがありません。なぜなら、「誰かと同じ人間」なんて、この世には一人もいないからです。

誰もが「自分自身」です。誰も他人に似てはいないし、どんなに近しい他人も自分とは違っている。それを同じにしようとすればするほど、私たちは「化粧」と「演技」を重ねなければならなくなります。泣きたくもないのに泣いた振りをせねばならず、笑いたくもないのに笑顔を作らなければならない。そうして、私たちの内側で「自分の感覚」は死んでいき、「『望ましい』とされる表現」が力を持ち始めるのです。

もちろん、「化粧」も「演技」も便利な道具です。でも、注意していないと、私たち自身が「化粧」と「演技」の道具になってしまうこともある。「化粧」と「演技」を完璧に遂行するために、私たちは「自分自身」を殺してしまうことがあるのです。

 

私たちは「暗い混沌」を内側に抱えています。そこに「光」を当てることを私たちは恐れている。

なぜなら、私たちは自分の中に深い「闇」があることを内心では知っているからです。そこには、長くしまい込まれた憎悪があり、猛り狂った怒りがある。どれだけ泣いても足りないくらいの深い悲しみがあり、懸命に痛みを感じないようにしてきた多くの傷がある。

しかし、こういったもの全てを、私たちの社会は見ないで済ませようとします。まるで「昼だけ欲しくて夜は要らない」とでも言うかのように、私たちは自分の内側の「闇」を抑圧するよう社会によって強要されます。

でも、「昼」と「夜」はもともと一つです。それらはお互いに依存し合って存在している。だから、もし「夜」を否定して「昼」だけを人間に求めるならば、私たちは自分の中の「夜」に「昼のような化粧」を施さなければなりません。

私たちの暴力性、私たちの支配欲、私たちの殺意、そういったものの表面に「化粧」をしただけで、「夜」を一掃できたと私たちは考える。でも、「偽り」を強いられた「夜」はいつか暴動を起こすでしょうし、「昼」もまた、自分の半身である「夜」が「偽り」となったために、「本当の明るさ」を失うでしょう。私たちの「夜」が「偽り」になれば、それとちょうど同じだけ、「昼」もまた「偽り」になる。

それは、苦しみを受け容れ、それを乗り越えた結果として溢れ出す喜びだけが、本来の明るさと温かみを持ちうるのと同じことです。実際、「苦しみは要らない、喜びだけ欲しい」と思って、無理やり作った喜びには、明るさも温かみもありません。そこには何の深みもない。

 

私たちの心身の奥深くに潜れば潜るほど、ただ「エネルギー」と呼ぶしかないようなものが姿を現わしてきます。「エネルギー」として見れば、「善」と「悪」とは一つであり、「昼」と「夜」とは一つのものの二つの面です。私たちの最も深い部分においては、何ものも二つに分かれてはいません。

だから、「昼」が本来の明るさと温かさを取り戻すためには、私たちは自分の「夜」に向かっても深く潜らなければならない。「自分自身を生きようとする人」もまた、自分の内なる「昼」と「夜」とが一つに溶け合っているところまで潜ろうとします。そして、その過程で、人々の無意識にしまい込まれた「夜」までもが明るみに出されることになります。

その結果、「自分自身を生きようとする人」を、多くの人が危険視します。なぜなら、いまや彼/彼女は「昼」と同じだけ「夜」の存在を肯定しているからです。

 

でも、実際に危険なのは、周りの人たちのほうです。なぜなら、「自分自身を生きようとする人」は決して徒党を組みませんが、周りの人々は自分たちが内側に抱える「夜」を否定するために、いつも「群れ」を作るからです。

「群れ」を作る人々は、自分の暴力性や支配欲を無意識の中にしまいこみ、「常識」や「道徳」によって自分自身をメッキします。そして、集団を形作る一人一人の暴力性や支配欲は、寄り集まることで「独自の命」を持ち始める。

そこから、一種の「巨獣」と言ってもいいようなものが生まれてきます。しかし、この「巨獣」は、どのような個人によっても引き受けることができません。もしこの「巨獣」が「独自の命」を持たないようにしようと思ったら、「巨獣」を構成している個人個人が、それぞれに「自分自身の闇」を解決する以外に手はないのです。

 

私たち一人一人が「自分自身の問題と向き合う」という「責任」を回避しようとすればするほど、「巨獣」はどんどん育っていき、他人から押しつけられた「責務」が人々を縛るようになっていきます。この「責務」に忠実に従っていれば、「巨獣」はその人を内側に取り込んで大事に守ってくれるでしょうけど、それは本人にとっては「責任の放棄」以外のなにものでもないので、「責務」をこなせばこなすほど当人は「生きている実感」を失います。

「責任」は私たちを「人間」にし、「責務」は人を「ロボット」にします。世の多くの人々が「責任」と「責務」を混同して、「責任を果たせ」と言いながら「責務」を押しつけていますけれど、私たちがそういうことを続けるから、この世界から「殺し合い」がなくならないのだと私は思います。

 

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