何も欠けてはいない

私は今年の7月に、8年以上にわたって所属していた合氣道の道場を破門になりました。

破門になった理由としては、私が師範の指導方針に異議を唱え始めたからです。当時の私には、そもそも道場の在り方それ自体に納得のいっていない部分が多くありましたし、師範の教えにも私には同意できない部分が増えてきていました。

そういった自分の中の違和感を私が隠そうとしなかったので、破門になったようです。

 

私は今も、私がかつて所属していた道場の在り方は「どこかおかしい」と思っていますし、師範が語っていた教えの内容にも同意できない部分が多々あります。

ただ、今になって思うのは、私は「道場で提示されている個別的な教えの内容に納得がいかなかった」というよりも、「人が他人に何かを教える」という行為それ自体に深い疑いを持っていたのだろうということです。

 

「他人に何かを教える」ということが人間には本当にできるのかどうか?

そもそも、私たちは他人から何かを教わる必要があるのかどうか?

 

もちろん、知識や技術を教えることならできると思います。

たとえば、学問的な知識なら教えることができるし、知的能力(と一般に言われているもの)が備わっている人なら、誰でもこれを覚えて使うことができる。

身体的な技術も、形を教えて真似させれば覚えさせることが可能です。技術が身体に染みつけば、考えなくても習った通り動けるようにはなるでしょう。

でも、そういった「教え」によって身につけられた知識や技術は、よく調教された動物が身につける「芸」と、さして質が変わらないように私には思えます。それらは「外側から押しつけられたもの」であって、「自分自身で選び取ったもの」ではない。

「調教動物」には選択の余地がありません。なぜなら、「自発性」を発揮する機会そのものを、彼らは最初から奪われているからです。

 

この「自発性」というものに対する人々の疑惑は非常に深いと私は思っています。

「自分探し」とか「内面の探究」とかいった営みを、「非生産的で無意味なこと」と考える人々がおり、「そんなものは単なる現実逃避に過ぎない」と断罪する人もいます。「『本当の自分』なんて、在りもしない空想に過ぎない。そんなものについて考えている暇があったら言われた通りに働け・勉強しろ」と誰もが口をそろえて言う。

でも、自分には本当に「核」と呼べるようなものが無いのでしょうか?

私たちには「中心」となるものは何も無く、しょせん私たちは「外から受け取ったものの寄せ集め」でしかないのかどうか?

 

このことについて徹底的に疑って、自分自身で結論を導き出した人は、「私たちに『中心となる核』は存在しない」と決して軽々しくは言いません。

なぜなら、徹底的に疑う人は、「他人の言うこと」を鵜呑みにしないで必ず「自分の経験」を通して考えるからです。そして、「自分の経験」をどこまでも掘り下げていく過程において、その人は「自分には『内的な核』がある」という感覚を必然的に通過します。

でも、それも「通過点」です。その先のプロセスがあるのです。

 

私たちが「内的な核」の存在を知ると、次第に「これまで自分だと思っていたもの」は「後から作り上げられた虚構」に過ぎなかったことがわかるようになっていきます。「自分の名前」や「社会的な肩書き」はもちろん、「性格」も、「心」も「身体」も、「内的な核」とは別であるということがわかるようになる。

「名前」や「肩書き」は社会が押しつけたものであり、「性格」は親や教師が私たちの「内的な核」を素材にして後から作り上げたものです。「心」や「身体」は「内的な核」を通して流れてくる命が表現される場であって、これは「宇宙から私たちが一時的に借りているもの」と言えます。いずれも「本当の自分」ではない。

それなら、「本当の自分」とは何か?

 

ここに来て、「自分」というものの底が抜けます。「自分」と「他人」とが違わなくなる。

もちろん、表面的には「自分」と「他人」はまったく違います。でも、「内的な核」においては見分けがつかなくなる。「内的な核」においては、「自分」も「他人」も、どちらも同じだけ生きており、同じだけ存在しているからです。こうなると、「自分の心」と「頭上に広がる空」との境目も、徐々に曖昧になっていく。

「自分」をどこまでも掘り下げていくと、途中で何度も道に迷うことはありますが、いつかは「自分と宇宙は同じである」という感覚に行き着きます。「自分自身の内的な核」を通じて、この体験が生まれる。

それゆえ、徹底的に「本当の自分」の存在を疑って結論を出した人は、「『本当の自分』というものは存在するが、存在しない」という矛盾した言い方をするしかなくなります。なぜなら、「『本当の自分』というものは存在しない」という深い納得自体が、「自分で自分を徹底的に探究すること」によって生まれたからです。

 

私たちの命は「内的な核」によって常に支えられています。たとえ学校から落ちこぼれても、会社から落ちこぼれても、常識人や健常者から落ちこぼれても、「内的な核」から私たちがこぼれ落ちるということはあり得ない。この「内的な核」はいつも私たちの存在を支えているし、私たちの命が続く限りは、心と身体が十全に生きることができるよう働き続けてくれているからです。

でも、私たちの社会はこの「全てを支える土台」を無いもののように考えて、その上にあらゆる「虚構」を作り上げています。人間に優劣をつけ、善と悪を設け、そういった「作り事」から落ちこぼれた人を「人間じゃない」みたいに考える。

誰もが人間に何かを新しく足さないと気が済まない。するとその「付け足すべきもの」が「善」と呼ばれ、これを持っていない人間は「疚しい気持ち」にならないといけなくなる。そして、これが私たちの憎悪や嫉妬を育てる温床となります。

また、「善」と呼ばれるものと反対の性質を持つものは何でも「悪」となり、これを内に持っている人は「罪悪感」を抱き、自分の中の「悪」を意識の暗がりに抑圧し続けなければならない。でも、抑圧されることによって、内側で「悪」はむしろ育っていきます。そして、育ち続ける内側の「悪」を外に出さないでいるために、人はますます「虚構」を表面に作り出さねばならなくなる。内側が暗くなればなるほど、外側を煌びやかに装飾しないと「自分の実態」を誤魔化すことができなくなるからです。

 

私たちがやっている「教育」というのは全てこんな具合です。

私たちが「生まれつき持っているもの」に何かを足したり引いたりしようとすれば、私たちの「核」は「善」と「悪」とに引き裂かれます。「自分の核」が表現するところのものの一部を私たちが「善」と呼んでこれを賞賛し、他の一部を「悪」と呼んで撲滅しようとすることによって、私たちは「統合」を失い「分裂」していく。この「分裂」によって、私たちは「自分自身」に安らぐことができなくなり、「自分の家」でくつろぐことができなくなってしまう。

 

実際、誰もが「自分の家」から逃げたがっています。

そこには「善」と「悪」とに引き裂かれて生じた「裂け目」が広がっているからです。この「裂け目」が突きつけてくる純粋な「空虚」に耐えられないので、私たちはいつも気を逸らそうとするのです。

ある人は映画館に出かけていき、別の人はリゾート地へ出かける。読書によって気を紛らわせる人もいれば、仕事に没頭することに逃げ道を見出す人もいる。アルコールやドラッグは、おそらく私たちが「自分自身」から逃れるために最も古くから常用してきたものでしょう。

 

私たちの中には「混沌」があり、私たちはいつ「狂気」に陥ってもおかしくない位置にいます。私たちはあまりにも深く「分裂」させられてきたので、自分の中の「裂け目」を見る勇気もなくなりつつある。

でも、その「裂け目」の向こうに、「内的な核」は確かに在るのです。それはありとあらゆる「教え」によってバラバラに分解されてしまっているかもしれませんが、一つ一つ破片を集めていけば、修復することができます。

そして、「自分の核」をわずかでも修復することができれば、「自分には何も欠けていない」ということがきっとわかります。

「必要なもの」は最初から全て揃っている。ただ、そのことに対する気づきと信頼を、自分の内側にもたらすだけでいいのです。

 

私たちにもともと備わっているのは、「教えられる能力」ではなく「学ぶ能力」です。

「他人に教えられたことを効率よく覚えること」は、私たちが本来持っている「学ぶ能力」が発揮されるときの一つの仕方に過ぎません。教えられたことを覚えることができるのは、教える側に「教える力」があるからではなく、そもそも学ぶ側に「学ぶ力」が内在しているからです。

今の日本の学校教育において、私たちの「学ぶ力」は、機械的に物事を暗記するためだけに使うよう強制されることが多いです。実際、生徒が知識や技術を効率よく覚え込むように調教する術に長けた教師が、「名教師」と言われることもあります。

でも、「本当の名教師」は何かを教えようとなんてしません。彼/彼女は自分の「教える力」を頼りにすることなく、学習者の側の「学ぶ力」をこそ指導の拠り所とするからです。

「学ぶ力」が学習者の中で自発的に働き出しさえすれば、たとえ教師が何も教えなくても、場合によっては「教師」というものがまったく存在しなくても、学習者は自然と学んでいくものです。

 

私たちに「欠けているもの」は何もありません。「新しく付け足すべきもの」も、何も無い。

たとえこの世界から「教師」が一人残らず消えたとしても、それでも私たちは学び続けるでしょう。

なぜなら、たとえ「教師」がこの世界から欠けたとしても、それによって私たちの「核」からは何も欠けることがないからです。

 

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