避けられない苦しみ

私たちは「苦しみ」を感じると、それをなんとかしようとします。「苦しみ」の原因を分析してみたり、「苦しみ」を感じないように気を紛らわせようとしたりする。

でも、なにをどうやっても「苦しみ」を避けることができない場合も、しばしばあります。むしろ、そういう時には「苦しみ」を避けようとして為されるあらゆる試みが、「苦しみ」をいっそう助長してしまう。

こういった時、まるでもう自分は死んでしまっていて、無数の鳥が死体に群がって自分の肉をついばんでいるかのように感じることが私にはあります。「苦しみ」に対して自分にできることは何も無い。自分は全くの無力で、「苦しみ」が頭を割り、肉を裂き、心を砕くのをただ見ていることしかできない。

 

しかし、「苦しみ」によって決して破壊されることのないものもあります。

「苦しみ」のただ中で多くのものが壊れていくのを見ていると、自分の中で「何か」が壊れないまま残っているのがわかる。色んなものが壊れていくので、「壊れないもの」がより際立つのかもしれません。

その「壊れ得ない一点」を感じ取ることができると、ふっと力が抜けて、安心してきます。「苦しみ」はまだ同じように存在しているのですが、その「苦しみ」によって自分が完全に破壊されることはないということがわかるからです。

私たちはとかく「苦しみ」を消してしまうことによって安心しようとしがちですが、それだと「消すことが不可能な苦しみ」に対して、潜在的にいつも怯えていなければならなくなります。「消すことが不可能な苦しみ」については、「それがここにある」と認める以外に、私たちにはできることが特にないからです。

ですが、「苦しみ」を十分に苦しんで、「それに対して自分にできることは何も無い」ということがわかると、何かが起こり始めます。「苦しみ」に抗うことをやめて、「持っていきたいものがあるなら何でも持っていったらいい」と「苦しみ」に対して心と身体を明け渡すと、「自分」とは「決して持っていかれないもの」なのだとわかる。

意識が「苦しみ」一色に染まっているとそれを見分けることができないのですが、「苦しみ」を避けることを完全に諦めた時、「何によっても絶対に染まらない一点」が浮かび上がってくるのです。

 

私たちが生きていると、「絶対に避けられない苦しみ」というものがときおり訪れます。それは私たちが「避けよう」と思っている限りどこまでも追いかけてくるし、一度その中に入ったら、必ず少なからぬ痛みを味わうことになり、浅くはない傷を負う場合もあります。

でも、「避けられない苦しみ」を通り抜けた後、私たちは前より少しだけ強くなっています。それは、私たちの心身が「苦しみ」に対する耐性をつけたためというよりは、私たちの意識が、「苦しみによって破壊され得るもの」から、「苦しみによっては破壊され得ないもの」へと、よりはっきりとその焦点を移したからだろうと私には思われます。

 

もちろん、「苦しみ」を生きたまま通り抜けることができるかどうかは、誰にもわかりません。少なからぬ人が、「苦しみ」の中で自分の命を絶ちます。生き残れるかどうかは、無数の「偶然」に支配されている。

別に、「苦しみ」を生きて通り抜けられた人間が特別に優れていたわけではないと私は思います。

「苦しみ」を生きて通り抜けられなかった人間が、特別に劣っていたわけでもない。

全ての人が、等しく「破壊し得ない一点」を内に持っている。その「一点」だけが平等であり、それ以外の全ては不平等です。

 

いつも、生きる人がいて、死ぬ人がいる。ここは、不平等な世界です。

平等に魂を与えられた人々が雑居する、不平等な世界です。

 

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