心と頭

三ヶ月ぶりの更新です。

この三ヶ月の間、どうしても文章を書ききることができませんでした。何度か書こうと試みたこともあったのですが、まったく言葉が浮かんでこなかったり、いくらか書くことができても、最後まで書き終えることができませんでした。

 

私には周期的に「何も書けなくなる時期」が来るのですが、この「書けない時期」には自分がこれまでに取ってきた言動についての洗い直しが行われることが多いです。自分のやってきたことは本当にこれでよかったのかどうか、他にどんな選択肢があったのか、それらについて再度吟味するようになる傾向があります。

その過程で、自分がそれまで信じて貫いてきた物事についても、「本当にそれでいいのか」ということをじっくり時間をかけて再検討することになります。結果として、自分の中の「信」が曖昧になり、「芯」が弱くなります。

そして、これが「書けない状態」にさらに拍車をかけるのです。自分の中の「信」が揺らぐことによって、「自分の書く言葉」を信じ切ることもできなくなるのです。書けども書けども、言葉に「重さ」が乗り切らず、自分の紡ぐ言葉に「白々しさ」を感じずにいられなくなります。それで、書くにしても話すにしても、言葉に詰まることが多くなる。

 

私たちの心というのは、「自信」が「狂信」になっていないかどうか、定期的に距離を取って確認する必要を自ずから感じるようになっているのかもしれません。ただ、こういった「今一度確認が必要かもしれない」というメッセージは心(ハート)のあたりで感じるものですが、実際の確認作業を行うのは頭が中心になります。そこで混乱が生じてくる。というのも、頭は「ありえたかもしれない可能性」や「答えの出せない疑問」などを無限に生みだし続けるからです。

私が思うに、丁寧に自己の言動や在り方の「洗い直し」をするためには、私たちの心が蔵している直感的な力(「好き・嫌い」や「したい・したくない」を瞬間的に判断できる力)と、頭による高度なシミュレーション能力(「今ここ」に存在していないあらゆる可能性について吟味・想像する能力)とが協力し合う必要があります。

心だけでは、そもそも「自分の在り方」から距離を取ることができません。心のままに進むなら、それによって他人から傷つけられたり不幸な境遇に陥ったりしても、そのことで後悔はしないでしょうけれど、一度立ち止まって「自分の在り方」についてじっくり問い直すときには、心の力だけでは足りないのです。

もちろん、頭だけ働かせてもうまくいかないものです。頭にできることは、「自分はこうしたけれど、またこうもできた。それについて、あっちの人はこう言っているし、こっちの人はまた違うことを言っている」といったようなデータをひたすら羅列することだけです。データを集めることはできるけれど、どれを選ぶかは頭に判断できません。「論理的に考えればこうなるしかない」というような「必然的な結論」なら頭にも出せるでしょうけれど、そもそも明確な結論が出せないような問いに対して「自分なりの答え」を提示するような力は頭にはありません。

 

自分の心が命じるままに生きることによって、私たちの生は「色彩」を取り戻します。他人に言われたことや、常識で決まっていることなどによって押し込められ窒息しかかっていた心が、再び息を吹き返すからです。

しかし、多くの場合、心のままに生きようとすると、私たちは多くのものと闘わなければならなくなります。今の社会は私たちの心が持っている力を「有効に使おう」と考えるよりは、「押さえつけて管理しよう」とするからです。だから、心のままに生きることを決意した人は、社会に蔓延している「心を押さえつけようとする空気圧」と闘わねばならず、その闘いに敗れて心を失ってしまった人たちの嫉妬や憎悪とも闘わなければならなくなる。

また、心のままに生きる人間は必然的に「予見不可能」になります。心に従って選び取られるその言動は、周囲の人の頭によるシミュレーションからどんどん逸脱していくからです。もちろん、本人にとっても自分の進む先は「予見不可能」になります。これから自分がどう変わっていくのか、何をすることになるのかもわからなくなる。

この「予見不可能性」からくる恐怖が、周囲の人の中に「こいつをなんとかして管理しなければ」という焦燥感を生み出し、本人の中にも「いっそ他人に管理されてしまったほうが、安全でいいかもしれない」という弱気を作り出すことになる。

 

私たちは、そのような「内からの理由」と「外からの理由」によって、心の力を失いがちです。

それで代わりに頭ばかり酷使するようになっている。そもそも、私たちの社会の教育システムも、日常的に頻繁に使っているパソコンやスマホなどのような情報ツールも、自然と頭のほうに意識の焦点が行くようにできています。だから、よほど気をつけて心の力で頭から意識を引き離さないと、私たちはすぐに「今ここ」に存在しない想像の世界に取り込まれてしまいます。「他人からこう思われるかもしれない、あるいは既にそう思われているかもしれない」とか、「こんなことになるのではないだろうか、前と同じようにまたひどいことになるのじゃないだろうか」とかいったデータだけがどんどん蓄積してしまい、心は不安になるばかりで判断どころではありません。

どうにかして頭と心のバランスを取ることが私たちには必要なのだと思います。頭の機能がまだ存在しない赤ん坊はこういう問題に直面することがありませんが、頭を既に持ってしまっている私たちは、遅かれ早かれこの問いと向き合わざるを得ません。

 

どうやってバランスを取ったらいいか考えるのは頭であり、最終的にどの道を進むか決めるのは心です。そして、おそらく心と頭が協同して働いたときに生まれてくるものこそが、本当の「意志」というものなのです。それは「イヤなことを我慢して行うときに行使されるもの」ではなく、本来は、「自分の道を自分自身で歩んでいくための生命力」の別名なのだと思います。

心に取り込まれるのでもなく、頭に呑み込まれるのでもなく、心と頭が力を合わせて「たった一つの結論」を出すとき、人はようやく「自分の一歩」を力強く踏み出せるのだと、わたしは思います。

 

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