「深層」へ至る

最近、自分の意識を一つところに定めるということの意味と重要性が前よりはっきり実感されるようになってきました。

瞑想の技法を少しでも実践したことのある人ならわかると思いますが、私たちの心というのは実に彷徨いやすいものです。一つのところに落ち着いているということがなかなかできない。「呼吸に意識を向けよう」と思っても、5~6秒くらいすると、もう別なことに気を取られています。気が逸れていることにすぐ自分で気がつけばまだいいのですが、私たちはしばしば「自分の心がどこかよそに行ってしまっている」ということに、そのあとさらに5分くらい経ってからようやく気づいたりします。

もしも5分の間に自分の心がどこにあるか自覚できていたのがわずか5秒しかなかったとしたら、残りの4分55秒の間はほとんど眠りこけていたようなものです。そして、それこそが私たちの日常なのです。私たちは、たとえ起きて活動している間さえも「自分が何をしているか」をほとんど意識していないからです。

他の人がどうかはともかく、私はそのことを痛感しました。瞑想を実践し始めてしばらく経ったあるとき、私は、自分が起床してから再び床につくまで時間のうち、だいたい98%くらいを「眠った状態」で過ごしていることを発見してとても驚いたものです。

この「98%」という数字には根拠と実感があります。瞑想技法の実践を通して「目覚めている」ということがどういうことなのかを自分の体感で識別できるようになってから、私は自分の一日がどれほど「眠り」の中で過ぎているのかを実際に調べてみたことがあるからです。

ちなみに、この「98%」という割合は、ここ数日の状態であればだいたい「85%」くらいにはなっていると思います。要するに、まだまだ「寝て」ます。

言い換えれば、私はせっかく与えられている時間のうちのほとんどを、意識的には生きておらず、ただただ「機械的な反応」の中で流されて過ごしているということになります。これは実にもったいないことだと思います。

 

それにしても、どうして私たちの意識はこんなにも眠り込んでしまうのか?

そこにはいろいろな理由がありますが、おそらく最大の原因は、私たち現代人の生活が「思考のノイズ」を際限なく助長するように構築されているということです。

科学的な機械文明は生活の利便性を向上させ、誰もが快適に暮らせるような環境を作り出すことに成功しました。生産技術の発達によって人々は昔ほど重労働をしなくても多くのものを産み出すことができるようになったし、医学の進歩によって昔であれば治らなかった病や怪我にも有効な治療ができるようになりました。通信技術の発達により、あらゆる情報に容易にアクセスできるようになったし、何か困ったことがあれば多種多様な専門家達にいつでも相談することができます。

このような変化自体は喜ばしいことだと思うのですけれど、それらのもう一つの側面も見落としてはならないだろうと思います。

 

生産技術の発達によって生活に必要な物品を効率的に産み出すことができるようにはなりましたが、その結果として、私たちのほとんどは肉体労働から遠ざかりました。自分の身体を使って、自分の感覚を頼りにしてより良いものを産み出すということをする必要性が減ってしまった。私たちの多くはもはや自分の身体との接触を失っており、自分の感覚を信じることをしなくなっています。私たちは身体を通して何かを産み出す力を失っており、自分の「内的な感覚」への「信」も失っているのです。

身体が弱くなることは、生物が本能的に持っている「死への恐怖」を強めます。自然界では「フィジカルな弱さ」は死を招く大きな要因となるからです。また、自分自身の身体と感覚に「信」を置くことができないと、私たちは徐々に「微弱な無力感」に侵されていきます。そして、この「死への恐怖」と「無力感」が、私たちを際限なく強欲にしてしまうのです。

金をいくらか持っていても、ひょっとしたら足りなくなるかもしれない。自分を守ってくれる人間が何人か居るけれども、これではまだまだ十分ではないかもしれない。今は物を持っているけれど、もっとたくさん持っていれば安心できるかもしれない。

私たちが「自分は与えられた力だけでやっていける」という自信を失えば失うほど、よりいっそう私たちは強欲になります。必要以上の金を集めようとし、自分を守ってくれる権威をより強固なものにしようとする。これは「生きよう」とする生物としては必然的なことです。

そして、私たち一人一人が強欲であればあるほど、いくら物を作っても足りなくなります。生産技術がどれほど進歩しようとも、効率化をどこまで推進しようとも、私たち一人一人が「もう十分」と言える心にならない限り、物は足りません。そして、そういった私たちの「物欲しげな心」が、かつて存在したのとは別な種類の「重労働に従事する人々」を産み出し続けています。

かつて重労働していた人たちというのは、生産効率がまた十分によくなかったために、生きていくうえで最低限必要な物を得るためだけでも、過酷な肉体労働に従事しなければなりませんでした。それは、ただ生きるために必要なことだったのです。

しかし、現代は「必要以上に産み出してもまだまだ足りない」という時代です。そこで、「強欲な人々」の心を満たすために(そんなことは実際には不可能なんですが)、過労死するまで働く人々が現れてきたのです。

 

私たちは物質的に豊かになった結果として、内側では弱くなりました。この「内側の弱さ」が、私たちの恐れを助長しており、そこから生まれてくる無力感は人々を憂鬱にしています。

そして、医学の進歩もここに影響を与えている。医学が進歩したことによって、昔であれば絶対に助からなかったであろう人々を助けることができるようになりました。しかし、「物理的に生命活動を延長させる」ということが「生き残った本人が自分の生を意欲的に生きていく」ということと同じではない以上、せっかく命が助かっても、その人自身は「こうして生きていても虚しいだけだ」と感じている可能性だって大いにあるのです。また、医療の現場では、かつてであれば助からなかった人たちが後遺症を抱えつつも生存することが増えた結果として、そういった人々の介護や延命措置のために、多くの物的・人的資源を長期にわたって投入し続けなければならないことが問題化してきているとも聞きます。

 

医学の進歩によって私たちは「死」から遠ざかりましたが、じゃあ、生きていればそれでいいのかというと、そういう風にも感じられなくなっています。

「まだまだ足りない」と言い募る人々の心を満たすため、医学の進歩によって生き残った人々の生存を守るため、私たちは社会全体で人間を「効率的な生産機械」に変えようとしています。私たちがごくごく幼いうちからそのための「教育」はスタートしており、子ども達は、「優秀な生産機械」になった結果として人間としての生きる喜びを喪失した大人達を目の当たりにしながら育ちます。生まれてすぐに目の前にレールを敷かれ、「そこを決して踏み外してはいけない」と言われるけれど、懸命に道を踏み外さずに生きていった終着点が「暗鬱な顔をした機械的な大人」であるということを、子ども達は必ず直感します。子どもの知性というものは決して侮れません。「知識」はまだないかもしれないけれど、「知性」は子どものほうが大人よりずっと活発に働いているものだからです。

私たちは「ただ生きていればいいというわけではない」と、子どもの頃に直感します。しかし、「それなら、いったいどう生きたらいいのか?」ということを考えるための力は、幼い頃はまだ内側で十分に熟していません。青年期になり、「自分はいったいどう生きたらいいのか」ということを自問する回路が目覚めたとき、私たちの「苦闘の時代」は始まり、「個人」というものが開花し始めるのです。

 

しかし、ほとんどの子ども達はそのような成長の可能性をかなり早い段階で摘まれてしまいます。「自分にとって大事な物は何か?何が自分にとって本当の喜びに繋がるのか?」ということを問う準備が子ども達自身の中で整う時がやってくるまで、周りの大人達は待っていられないからです。

私たちの「干渉癖」はほとんど病的な域に達しています。何一つ、自然なままにほっておけないのです。

私たち大人は、輝くばかりの「知性」を持っていながらまだその使い方を自得していない子ども達に向かって、表面的な「知識」ばかりを詰め込んでいきます。そして、子ども達の中に、批判的・懐疑的な精神を育むよりは、彼らが何でも言われたことを言われた通りにする従順な子どもになるのを、大人達は望む。

私たちは自分が持って生まれた「知性」を育てる術を知らないまま、「知識」ばかりを蓄えて大人になります。だから、いざ青年期になって「さて、これから自分はどう生きたら良いのだろうか?」ということを考えようと思っても、考え方がわからない。彼らにとって、「答え」はいつも他人が与えてくれるものであって、自分で考え出すものではなかったからです。こうして、「外から情報を取り込むこと」が知的な営みの全てであるという錯覚が内側に根付いてしまうことになり、そう遠くないうちに、「絶えず情報を取り込んでいないと不安で仕方がない」という状態に陥ることになります。

そして、ちょうど良いことに、現代においては情報の送受信が非常に手軽になっていますから、手に入れようと思えば、情報はいくらでも手に入るのです。しかし、「知性の使い方」が発達していないと、情報をただ取り入れてもそれを的確に処理できませんから、情報を取り込めば取り込むほど、「未処理の情報」が内側で乱雑に溢れかえることになる。さらに、「情報の洪水」に呑まれて混乱すればするほど、余計に情報にすがりついてしまうという悪循環もここから発生してきます。

 

私たちはどんどん「頭でっかち」になりつつあります。というか、既にそうなっています。

私たちの身体は弱くなり、私たちは「自分の内的な感覚」よりも、学説や権威を信じています。そして、そういった傾向が、「情報への依存」を強めている。私たちは、物だけでなく、情報についてまで、「足りない足りない」と言っては狂奔するようになっているのです。

この「情報への過度の依存」が、私たちの思考を徐々に「ノイズ」でいっぱいにします。私たちは起きてから寝るまでの間、ずっと考え続けています。しかし、これを「知性を使っている」というう風に見なすわけにはいきません。なぜなら、ほとんどの場合、私たちは意識的に自分で考えているわけではなく、「かつて外から取り込んだ情報のこだま」に気を取られて我を失っているだけだからです。

 

私が瞑想の技法を実践するようになってしばらくした頃、私は自分の頭のまわりを無数の「ノイズ」が覆っていることに気づきました。それはほとんど身体的な感覚でした。何かが私の頭の周囲でぺちゃくちゃと喋り続けていたのです。

私はこのことを発見してから、頭の周りの「ノイズ」の感触に気づく度に、意識の焦点をそこから遠ざけるように努力してみました。たとえば、頭の中の「ノイズ」ではなく、外で鳴っている実際の物音に意識を向けてみたり、自分の内臓や筋肉が動く感覚や、皮膚の触覚に集中するように努めたのです。すると、何日か実行しているうちに、だんだんと「ノイズ」の量が減ってきたように感じられ、頭の騒がしさが和らいできました。同時に、「頭というのは自分の存在の表層に過ぎない」という感覚が起こったのです。

頭のまわりの騒がしさから意識を遠ざけていくと、自分の内側にまるで海の底のような静けさが広がっていることを、私は発見しました。というと偉そうですが、これは別に新しい発見でも何でも無くて、昔から多くの賢者や聖者が繰り返し語ってきたことです。それはつまり、自分という存在には「表層」と「深層」とがあり、「深層」のほうが「自分自身の本質」により近いということです。

この「深層」に、おそらく私たちが生まれ持った多くの可能性が眠っているのだろうと私は思っています。実際に、意識の焦点を「表層」から「深層」に持っていってみると、自分の中に眠っていた古い記憶や感情が突然噴出してきたり、全身の細胞が若返っていくような新鮮な心地がしたり、といったことを私はたびたび経験したからです。

 

私たちの知性、私たちの直感力、生命エネルギーの源泉、そういったものは確かに「深層」に存在しているのだということに対する「確信」が、瞑想の技法を実践する過程で、私の内側で徐々に強まっていきました。おそらく、瞑想法や呼吸法などの技法は、こういった「深層への通路」を開くためのものなのだろうと、現段階で私は考えています。また、精神分析を始めとした心理的なアプローチも、「深層」を開くことによって当人の生命力を高め、自然治癒力を活性化させることが目標なのだと思います。きっと武術の諸流派における各種技法にも、そういった部分が大いにあるでしょう。

 

もちろん、これらの経験がたんなる私個人の「思い込み」や「自己暗示」にすぎないという可能性も十分にあります。

その可能性について深く迷いを抱いたことも以前はありましたが、それなら「思い込み」にすぎないのかどうかがはっきりするまで、私が自分の足で進み続ければ良いだけです。疑っても疑わなくても、結局私がやることは同じなのです。そう思ってから、迷うのはやめました。

 

という、ここまでの私の話自体が、私が自分で確かめたわけではない「誰かの受け売り」に過ぎないかもしれないですし、そもそも最初から「嘘デタラメ」かもしれません。

この文章を読まれた方々には、その可能性を決して早々に放棄しないで欲しいと思います。なぜなら、ほんのわずかでも自分の中に疑いがあるならば、それを決して無視すべきではないと私が考えているからです。

疑いが起こるのならば、私たちの「深層」にそういった疑いを生じさせる根拠があるはずなのです。そう考えると、その疑いは私たちが自分自身を知る手がかりであり、場合によっては「深層」に入っていくための通路にも成り得ます。そして、実際に私は自分自身の疑いに導かれることで、「深層」へと入っていくための道筋を見つけ出したのです。

もちろん、私個人の体験が真実であるかどうかを証明する手立ては私の手元にはありません。ただ在るのは、自分の疑いを導き手として私たち一人一人が「自分の試み」をするか・しないかという、二つの選択肢だけなのです。

 

次の記事へ

前の記事へ