私たちが苦しみの中に囚われて、なおかつ、「自分はそこから抜け出すだけの力を持たないまったく無力な存在だ」という想いに支配されてしまったときほどに、私たちの生が色褪せることというのは他にないのではないでしょうか?

そういうとき、私たちは自分が深い苦悩の中にいることを自覚し、しかし、そこから抜け出すための道筋を見出せず、途方に暮れます。どこに向かって歩いたらいいのかわからず、私たちは全くの暗闇の中をひたすら手探りし続けます。周りの人に聞いても、苦悩から抜け出す道について深く考えたことが一度もないという人もいるし、「そういえば、誰それがこういうことを言っていた」と他人の言葉を繰り返すばかりで自分の体験は何も語ってくれない人もいます。時折、「自分は道を知っている。私の言うことを守ってついてきなさい」と自信ありげに言ってくる人にも出会いますが、そういう人に忠実についていった結果、ますます余計な問題に巻き込まれ、いっそう苦悩が深くなることも少なくありません。

 

そういった過程を経る中で、「結局のところ、この世に苦悩から抜け出す方法は存在せず、生きている限り苦しみ続けるしかないのだ」という諦念が、苦悩する人の中で少しずつ育ち始めます。それでも望みを捨てずに生きていきますが、生きれば生きるほど苦悩は深くなり、人生に対する失望は徐々に打ち消しがたくなります。「どうしてこんなに苦しい生をこれからも続けなければならないんだ?」という疑問も、自然と浮かんでくるようになる。

しかし、この疑問を正当に取り扱ってくれる他人にもほとんど出会うことができません。多くの場合、苦悩を知っているとは思えない根っからの楽観主義者のお説教を受けることになるか、一時的な気晴らしに誘ってもらえるだけです。でも、底の浅い楽観主義者のお説教など、本人が自分の中で既に何千回も繰り返し自問したことのあるものですし、心の底から知りたいことは「一時的な気晴らし」などではなく、「本当の解決法」なのです。でも、誰も自分が抱いている苦悩を理解してくれないし、「本当の解決法」を教えてもくれない。それゆえ、他人に心を開いて近づく度に、私たちは何度も何度も失望し、深く傷ついていくことになります。

しかし、「苦悩を乗り越えるための道」というようなものは、本当に実在するのでしょうか?

 

それは確かに実在します。

少なくとも私はそう信じていますし、その確信は日に日に強まっています。

私は他人の言葉の内容はほとんど信頼しませんが、一つだけ信じていることがあります。それは、人の「在り方」です。どんなに美辞麗句を並べていても、どれほど世間的に高く評価されている有名な人物であっても、その「在り方」が暴力的で傲慢な人間を私は信用しません。反対に、たとえ一言も発さなくても、その一挙手一投足が思慮に溢れ、その沈黙が深みを帯びていると感じた場合には、その人のことを信頼します。

もっとはっきりした定義をするなら、「自分よりも弱い人間」を前にしたときに取る態度によって、私はその人が「どういう人間なのか」を判断します。「自分より強い人間」を前にしたときには、往々にして私たちの本質は隠れされていてよく見えないことがあります。しかし、「自分より弱い人間」を前にしたとき、私たちの本質は最もはっきり現れるものなのです。

学校や職場、またはダンスのレッスンや合氣道の道場などにおいて、「自分より弱い人間」を前にしたときに態度を豹変させる人たちを何度も目の当たりに見て、私はそれを学びました。

 

私は今でも苦しみに直面する度に、少数の、しかし確かに存在した人々のことを思い出します。

彼らが言葉を発するときのその仕方、その声の響き、慎重に、思慮深く、口にする言葉を選んでいたその姿を思い出します。

ほんのわずかな動作の中に見える、行き届いた意識と気づきの香りを思い出します。

彼らの身体は、時としてわずかに「光」を放っているようにさえ感じられたものでした。

 

彼らの社会的な立場は様々でした。武術の師範をしていた人もいましたし、舞踊家の人もいました。その武術師範の技を受けたとき、「暴力と武術はまったく違うものなのだ」と私は初めて自分の身体で知ることができたし、その舞踊家の人の踊りは、「単なる技術とは違う世界が存在する」ということを私に示唆してくれました。

しかし、そういった「何かの道のプロ」であってもなくても、「光」を感じる人たちは何人もいました。ある人は私が配達の仕事をしていたときにいつも朗らかに荷物を受け取ってくれた服屋の店員でしたし、別のある人は私が昔働いていたスーパーへ定期的に夕食の材料を買いに来る笑顔の素敵な中年の女性でした。たまたま私があるとき行ったプールでチラッと見かけただけの、幼児を遊びに連れてきていた一人の老人のことも忘れることができません。

彼らの立場は様々で、人に知られずひっそりと生きているように見える人もいました。しかし、共通して、私はそこに「光」を見ました。本当に満ち足りた人だけが放つであろう香りと輝きが、彼らの一挙手一投足の中に、時には深い沈黙の中に表現されているのを、私は感じたのです。

 

私は、自分の苦悩が本当に深まったとき、そういった人たちの存在にどれだけ救われてきたかわりません。

彼らは別に、私に手取り足取り何かを教えてくれたわけではなかったけれど、最も重要な信念を私の中に根付かせてくれました。それは、「私たちには何かが可能である」という信念です。

彼らの言葉でもなく、彼らの知識や権威でもなく、彼らのような「在り方」をする人間が、たしかにこの世に実在したという事実だけで、私を納得させるには十分だったのです。

 

苦悩があまりにも深く、自分があまりにも無力なように感じるとき、私たちは「しょせん自分には何もできはしない」という絶望感に取り憑かれます。そして、何もかも諦めて自暴自棄になっていき、ますます自分の生を、自分自身の存在を嫌悪するようになっていくのです。

しかし、たとえどれほど自分が無力なように思えても、必ず何かが可能なはずだと、私は言いたい。

その可能性をほんのわずかでも信じることができたなら、私たちは自分の中の何かを変えることができるはずです。

そうして踏み出した一歩が、たとえどれほど小さく、儚いものに見えようとも、小さな一歩を踏み続ければ、必ず何かを変えられると私は信じています。

 

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