「自分の恐れ」を恐れない

昨日、かつて私が合氣道を学んだ道場へ、師範に引っ越し前の挨拶をしに行きました。

私は破門になっていましたが、メールで「挨拶に伺いたい」と師範に伝え、師範からも「了承」の旨のメールが届きました。

私は今度こそ、「師と弟子」ではなく、「一人と一人」の関係で対話をすることができると思っていました。私は何でも正直に思ったことを話すつもりでいましたし、実際そうしました。それによって、主従関係ではなく、彼と友人関係を結んで兵庫県を離れることができるのを私は望んでいたからです。

 

ですが、私たちは友情を結ぶことができませんでした。少なくとも、今の段階ではそういう結果になりました。

私は師範と話している間、ずっと彼の様子と、自分の内側とを並行して観察していました。私が自分の内側を観ると、そこには多くの恐れがありました。私は自分の恐れに支配されないように、何度も呼吸を整え、心を落ち着ける必要がありました。正直に、そして誠実に自分の心にあることを歪めず伝えるには、それが最善の方法だと思ったからです。

心を落ち着けて師範を見ると、そこには怒りと恐れと悲しみの色が現れているように感じられました。きっと私を破門にしてから、ずっと一人きりで苦しんできたのだと思います。

 

最終的に、対話は私が師範に対して「自分のしたことを反省して謝罪するか否か」というところに向かいました。

私は自分のしたことが本当に間違っていたのかどうか、破門になってからのこの八ヶ月間に何度も何度も自問し、あらゆる可能性を検討しました。そして、私が出した結論は「自分のしたことは間違っていない。ただ、勇気が足りなかっただけなのだ」というものでした。

私の考えも気持ちも、結局変わりませんでした。私は今でも師範の教えるときの態度や道場の在り方全体に、「間違ったもの」があると考えています。

でも、八ヶ月前は、それについて師範に伝えるために、師範と一対一で対話を試みるだけの勇気がありませんでした。だから私は、ブログやツイッターなどの「直接対面しなくても済む場所」で自分の考えを書いたり、師範の技を受けるときに「かかっている振り」を一切しないようにしたりというような、「間接的な訴え方」しかできませんでした。「一人と一人」の関係に踏み込むには、当時の私にはまだ勇気が足りなかったからです。

特に、「本人の前では何も言葉にせず、ネット上でだけ語る」というのは卑怯なことだったと思っています。そういう意味で、私は自分の考えを表明する「仕方」については反省しましたが、考えの「内容」については自分なりに時間をかけて検討してみて、「間違ったところはない」という結論に達しました。それゆえ、今度こそ、自分にとって「正しい」と思える表現の仕方で、「自分が思っていること」をそのまま話そうと思い、師範に会いに行ったのです。

 

しかし、「いったいどこがどういう風に間違っていると思うのか」ということについて、私は昨日、それを師範の前で直接自分の口から言えませんでした。

師範から「今でも道場での指導の仕方が間違っていると思っているのか」と問われたとき、私は「はい」と答えましたが、そのあとすぐさま私は師範からこのまま帰るように言われました。

私はそこでなおも踏みとどまって「自分の考え」を聞いてもらえないかどうか師範に尋ねることもできましたが、結局、私は対話を諦めてそのまま帰りました。なぜなら、踏みとどまって「最後の確認」をするだけの勇気は、まだ今の私にもなかったからです。そのことに、私は自分の家に帰ってきてから、やっと気づきました。

 

瞑想の技法を実践していると、自分の中であらゆる思考、あらゆる感情が燃えさかっていることに、徐々に気づくようになっていきます。

そして、自分がいかにそういった思考や感情に振り回され、心の目を曇らされて生きてきたかということにも、気づくようになります。

そのことに気づかない限り、私たちは自分の思考や感情の「奴隷」であるしかありません。「奴隷」には選択権がなく、いつも思考や感情の都合に振り回されるばかりです。私たちが自分の思考や感情の「主人」にならない限り、私たちは自分の意志で何かを選び取ることはできないのです。

 

こうして書いていて、私はある人のことを思い出しました。私の大好きな哲学者の一人、エピクテートスです。

彼はローマ帝国時代のストア派の哲学者でしたが、生まれたときの身分は「奴隷」でした。彼はどうも脚が非常に悪かったらしく、残っている絵などを見ても、杖をついて身体を支えている様子が描かれています。

彼の逸話の中に、嘘か本当かわかりませんが、こんな話があります。かつて彼が「奴隷」の身分だったとき、彼は自分の「主人」に脚をひどくぶたれていました。あまりにひどい打ちようだったので、彼は「主人」に向かって「そんなに打ったら折れてしまいますよ」と言ったそうです。これを聞いた「主人」は、カッとなってその反抗的な「奴隷」の脚を打ち砕きました。するとエピクテートスは涼しい顔で「だから言ったじゃないですか」と言ったと伝えられています。それ以降、彼は一生のあいだ脚に障害を抱えて生きていったそうです。

 

どこまで本当なのかはわかりませんが、この逸話は「主人」と「奴隷」について非常に意味深いことを私たちに教えてくれます。

「真の奴隷」とは、たとえ「主人」としての身分を持っていても、自分の思考や感情の「奴隷」であり続ける人のことです。

そして、「真の主人」とは、たとえ身分は「奴隷」であろうとも、自分の思考や感情に決して自分を支配させない人のことです。

私はそのことをエピクテートスから学びました。

 

瞑想技法の実践は私たちに自分の思考や感情に対する「気づき」をもたらしてくれます。

しかし、そこから先に進むためにはどうしても「勇気」が必要です。私たちは自分の思考や感情に支配されているあいだ、「自分は悪くない。自分は被害者なのだ」と言い続けることができます。

ですが、一度でも自分の思考や感情が支配的な力を持たなくなってしまったら、私たちは自分で「どうするか」を選択しなければなりません。自分の思考や感情の「被害者」であるうちは、そんなことはする必要もなかったし、そもそも不可能でしたが、思考や感情がその人を支配できなくなった今、初めて「選択」が可能になったのです。

 

多くの人が知っているように、「自分は被害者なのだ」と言って苦しんでいる人をさらに打ち据えるほど残酷な人間は世の中にそんなにたくさんはいません。そのことを私たちは深いところで知っているので、「被害者としての立場」に執着してしまうことがよくあります。

もしも、「もう自分は被害者ではない」ということになってしまうと、それまで優しくしてくれた人たちが、もはや前ほどは優しく接してくれません。もう彼/彼女は「奴隷」であることをやめる決意をしたのです。いったい誰が「被害者としての立場」を捨てて「自分自身の主人」となった人の傷を、いちいち気遣ったりなどするものでしょうか?

そんな必要がないことは他人の目から見てもわかる。彼/彼女は「自分自身の苦しみ」を捨てて、「自分自身の主人」となることを選択したのです。

「自分の苦しみ」を育てることによって他人の同情を購うよりは、「自分の幸福」を育てるために勇気を振り絞って踏み出すことを自分の意志で選んだのです。

 

勇気は、それが「盲目的な蛮勇」ではなく「真実のもの」であるならば、誰も外から与えることができません。「本当の勇気」は、誰もが自分で自分の内側に時間をかけて育てていくしかないものなのです。

それゆえ、初めて勇気を振り絞って一歩を踏み出すとき、私たちはそこに何の保証も後ろ盾も無いことを発見して身震いします。全責任は自分だけにある。他人は誰もそれを肩代わりすることはできないのです。

 

ありったけの勇気をかき集めて前進しようとするとき、私たちの内側には「恐れ」が広がっていきます。私たちは「恐れ」によって心臓を掴まれ、脚は今にも震え出しそうになります。

でも、私はそれをちっとも「恥ずかしいこと」だとは思いません。

震えて当然です。

恐くて当然です。

それでも、「自分の恐れ」から決して目を逸らさず、勇気を持って自分の内側を見つめるならば、そう遠くないうちに「『恐れ』が自分を破壊することはありえない」ということが、その人にははっきりとわかるでしょう。それはしょせん、私たちを震えさせ、不安にさせることができるだけなのです。

自分の内側に「恐れ」があることを恐れないこと。そのための「コツ」をもしわずかでも掴むことができたならば、私たちは徐々に「自分の恐れ」から自由になっていきます。「恐れ」がたとえ自分を襲ってきても、それに支配されることがなくなる。「恐れの奴隷」ではなく、「恐れの主人」で在ることができるようになっていくのです。

 

もし今この文章を読んでいる人の中に、全くの孤立無援で、自分の中の恐れと不安に押し潰されそうになっている人がいたならば、私は自分なりの「小さな数歩」の経験から、その人にこう言いたいと思います。

「『恐れ』はあなたが思っているほどに恐ろしいものではない」と。

落ち着いて観察すれば、「恐れ」にあなたを支配する力など全くないということが、きっとわかります。どうか勇気を持って、そのことを見定めてください。

 

次の記事へ

前の記事へ