技法の選び方について

いつもこの日誌では、「瞑想の技法を行うとこういうことが起こる」とか、「呼吸法に習熟してくるとこういうことが感じられるようになる」とかいったことは多く書いていますが、実際の技法の具体的な手順についてはほとんど書いていません。

それにはいろいろ理由があります。まず、技法を文章で表現することそのものに限界があるという点です。

瞑想法や呼吸法は、自分の「内なる感覚」に耳を傾け、これを深めていくという側面が非常に強くあるのですが、ただ外側の形だけ真似ていても、そういったことはなかなかスムーズには起ってくれません。「形を真似すること」よりも、「個人的な体験を深めること」のほうが重要なのです。

 

文章で手順だけ説明しても、形は理解できるでしょうけれど、実際に感覚が深まっているかどうかの判定を自分でするのは、初めのうちは少し難しいと思います。技法にある程度習熟してくると、自分のやっていることの成果を自分で判定できる基準が内側に確立されてくるので、最終的には指導者のチェックは要らなくなります。でも、最初のうちは、やはり指導者についてもらって、形だけでなく感覚的な側面も補助してもらうほうが道に迷わなくて済む部分はあります。

私としても、直接会って身体やその人の意識状態を自分の目で観察できれば、より的確にアドバイスができますし、身体に触ることによって「今ちょうどこのあたりにこういう感覚が起こっていると思うので、今はそれを感じて、覚えてから帰ってください」というような感覚のリードや示唆もできます。個人的な心情としても、やはり直接会って、その人に適した技法を一個一個手渡ししたいという気持ちがあります。

 

個人的なもう一つの理由としては、私が「自分の技法を普及させることにほとんど興味を持っていない」ということが挙げられると思います。まず第一に、私は技法というものを「どんな時も絶対にこういう風にしないといけない」というように、固定的に考えて欲しくないのです。私は自分なりに実践している技法がいろいろありますけれど、それらは全て「現時点の暫定版」にすぎません。自分の理解が進むことで、「前までやっていたあれは勘違いだったな」と気づくこともよくありますし、「お、そうか」と思った2、3日後に「あ、こうしたほうがもっといいじゃないか」と気づいてやり方をガラリと変えることもしばしばです。ですので、可能であれば、私は定期的にコンタクトを取れる関係の人にだけ技法を手渡しして、一緒に情報交換をしながら実践してもらいたいと思うのです。そうすれば、もしも私のほうで何か進展があったときにはそれを伝えることができるし、のちのちの軌道修正も容易になります。

不特定多数の人に一斉に同じ技法を提示するというのは、私にはちょっと「乱暴」なように感じられます。全ての人は違っていて、それぞれに固有の状態にあります。それなのに、みんなに「同じ処方箋」を渡すというのは、やはり考えものです。たとえ同じ人であっても、技法の実践が進んでいくと内側でいろいろな変化が起こってきます。そういった個人的な変化を経た後でないと、「言っても伝わらないこと」というのも当然ありますので、やはりケースバイケースで、その時々にふさわしい技法というものは変わっていくのが自然なのではないかと考えています。

 

そもそも「効果の優れた技法」というものは、私がここで改めて何か紹介するまでもなく、既に世の中にたくさん存在しています。

もちろん、玉石混淆で「ひどいもの」もたくさんありますが、何千年も実践されてきて効果の実証されている技法は少なくないですし、過去の技法に対する確かな理解に基づいて、現代人にも実践しやすいようにアレンジした新技法を開発している人たちも探せば大勢います。今のような情報化社会においては、そういったものを自力で探し出すことは、さして難しいことではないと思います。

おそらく問題は、技法を探し出すことではなく、いったいどれが「優れた技法」で、どれが「ひどい技法」かを自分で判別することのほうでしょう。

 

ところで、そのような「技法の判定基準」について書いている人は、「技法のやり方」について書いている人より少数派なんじゃないかと個人的には思っています。

私は「技法の具体的なやり方」についてはあまり「書けること」も「書きたいこと」もありませんが、代わりに「技法の真偽を判別する仕方」についてなら、いくらか書けることがあると思いますので、今回はそれを書いていってみようと思います。

 

まずは技法の判別のための大前提を確認します。

それは、「優れた技法」とは、実践者の生命力を高めるものであり、「ひどい技法」とは、実践者の生命力を減衰させるものである、ということです。

これに異論のある人はたぶんいないでしょう。もしも技法が「優れたもの(なおかつ、その人にとって合っているもの)」であれば、技法を実践していく過程で当人の生命力は高まります。知性は鋭敏になり、感覚は深く豊かになって、苦しみが和らいで幸福感が増大します。反対に、技法が「ひどいもの」であった場合、技法を実践すればするほど、私たちの頭は徐々にうまく働かなくなり、感覚は鈍磨し、苦悩や惨めさ、欲求不満感や無力感が深まります。

しかし、当たり前ですが、技法に対する何の予備知識も無い人が、まったく技法を実践しないうちから、「これをやったら自分の生命力は高まるかどうか」ということを判別することはほとんど不可能です。それゆえ、最初はある程度実際に技法をやってみて、それから出てきた結果を元に判定することにならざるを得ません。

そういう意味で、技法を実践するということは一種の「賭け」みたいなものです。やってみないとわからないのです。

 

それでは、いったいどれくらいやってみたらよいかということになりますが、「まず一週間~二週間にわたって、なるべく毎日一定の時間以上おこなうこと」を私は提案します。現代人は忙しいのでまとまった時間は取れないでしょうけれど、毎朝30分だけ早く起きると言うくらいなら、ちょっと心掛けて工夫すれば誰でも手が届くと思います(なお、「毎朝30分早く起きる」ということを実行するための心の力さえも枯れきってしまっているような深刻な鬱状態の人の場合、技法を試すよりも前に、少し休息して心の力を回復させることのほうが優先順位が高いと思います。自分を責めることなくゆったり休息できる期間がある程度取れれば、技法を実践するために最低限必要な自発性や意欲が徐々に回復してくるはずです)。

人によっては辛いかもしれませんが、最初の一週間くらいは毎日やる方がよいと思います。それによって、技法に少しだけ「慣れる」ことができるからです。

技法に慣れてくると、いくらか気持ちに余裕を持って実践することができるようになるので、技法をする前と後とで自分にどういう変化が起こっているかを冷静に観察することが容易になります。そうしたら、技法の実践をする前と終わった直後とで、心や身体にどういう変化が出ているか、または、技法を朝に実行した時としなかった時とで、その後、日中の心身のパフォーマンスにどういった変化があるかを観察してみるのです。これをさらに一週間ほど続ければ、その技法が効果の優れた「本物」かどうか、また、自分の適正に合っているかどうかということも、おそらく自分自身で判別できるようになっているでしょう。

 

ですが、世の中に出回っている技法の数は膨大にあります。それらをいちいち全て一週間から二週間試していくだけの気力が既にある人は、たぶん最初から技法なんて求めないでしょう。

ですので、ここからはさらに、「一個ずつ実践して試す前に技法の数をある程度しぼる方法」について書こうと思います。

 

私たちは、ある程度修練を積んで自分で技法を編み出せるようになるまでは、他人が考えた技法をとにかく続けてやってみるという過程を踏む必要があります。最終的には技法は「内側」からやって来ますが、(ごくごく一部の大天才を除いて)誰もが最初は「外側」から技法を取り入れることになるのです。

ということは、私たちが最初の頃に取り組むことになる技法というのは、必ず「他人」からやってくると言うことです。この点を利用します。

 

もしあなたが何かしら心を惹かれる技法を見つけたのであれば、その技法を教えている指導者がどんな人間なのかをよくよく見極めてください。本やネットの文章だけで技法を学ぶ場合、これは難しい場合もあるかもしれませんが、行間から伝わってくるものもいくらかあると思いますし、気になるのであれば、実際に書き手の元に足を運んで自分の目で本人を見てみるのもいいと思います。

指導者という立場にある以上、自分が教えている技法を長期間にわたって実践してきているはずなので、「指導者がどういう人間であるか」ということを見れば、「この技法を実践するとどういう人間になるか」ということが透けて見えてくることはよくあります。

そして、私は指導者が「どんな人間か」ということを観察するべきであって、「どんなすごいことができるか」はあんまり重視しなくていいとも考えています。たとえ神秘的な奇跡を行うことができたとしても、人間性の面で見た時に強欲そうだったり傲慢な言動が散見されたりする場合には、そういう人にはついていかないほうが得策です。「うちのところではこういうのが『普通』なのだ」と言われても、その「内輪における普通」が「人としての道」から外れているように思えたなら、さっさと立ち去ったほうがいいです。外部の人間や内部にいる生徒から指導者が一方的に搾取するような構造になっていたり、指導者の言っていることとやっていることが明らかに矛盾している(愛について説きながら暴力的な態度ばかり取っているとか)ように思えたりしたら、「私はまだ初心者だから」と言って判断を留保せず、自分の直観を信じたほうがよろしいかと思います。

 

しかし、ここで次の問題が浮上します。

それは、「人としての道」とはそもそもいったい何なのか、という疑問です。

「この人は肩書きはたしかに立派だけれど、なんだか人として信用できない」とか、「この人は世間的にはまったく無名だけれど、信頼できるような気がする」とかいった判断を私たちはすることができるわけですが、そのとき、私たちは何を基準に判断を下しているのでしょうか?

私は上で、「指導者が『人としての道』から外れていないかどうかをよく見て判断してください」と書きましたが、それができるためには、「人としての道」がどのようなものかが前もってわかっていないといけません。つまり、「人としての道」がどんなものなのかについて、ある程度以上の期間にわたって自分自身で考えてきて、他人にそれについての意見を聞かなくても自分だけで判断できるようになっているに人しか、私が上で書いた「指導者の判別方法」は実践できないのです。

 

ここに「指導者選び」のジレンマがあります。

指導者を選ぶことができるためには、その人自身の中に、おぼろげであれ「人を判別する基準」が確立されていないといけません。しかも、その「基準」は偏ったものであってはならず、普遍性を持っている必要があります。言い換えれば、偏見や思い込みだけで人を判別することなく、公平な目で他人を見ることができる必要があるということです。

でも、もしそんなことが既にできるのであれば、その人は指導者に何から何まで教えてもらわねばならない「無知で無力な素人」ではないということになります。

それでは、もしも入門する前の現状の自分が「無知で無力な素人」であった場合、その人はいったいどうやって指導者を選んだらいいのでしょうか?

 

私の考えは次のようになります。つまり、私たちの「修行」は、指導者を見つけて師事してから始まるものでなく、指導者を選び始める段階から、既に始まっているということです。

もし私たちが心の目で「普遍的なもの」を見る力をまだ持っていない場合、私たちは何度も「間違った指導者」のもとに引き寄せられます。何度も何度も間違い、何度も何度も失望し、少なくはない傷を負います。

ですが、そうやって「選ぶ道」を間違えば間違えるほど、その人の内側では「この世界において本当に大切なものは何なのだろう?」という疑問が徐々に深まっていきます。

「信じるに足るもの」とは何か?「真に価値あるもの」とは何か?

そういったことを自然と考えるようになっていきます。

この過程において、その人は自分では気づいていないかもしれませんが、徐々に「普遍的なもの」を見通す力を内側で育てています。そして、そのような内的な成熟が十分に進んだとき、「信頼できる指導者」を私たちは確信を持って見出すことができるのです。

 

最後にもう一つ、付け加えて言っておかねばならないことがあります。

それは、「修行」がある程度進行してくると、私たちは一時的に「混沌とした状態」に陥ることがあるということです。技法を実践していくうちに、知性が鋭敏になり、感覚が深まっていくわけですが、そうなると、私たちはそれまでと同じように生きていくことが困難に感じられる時期に必ず直面するのです。

知性が内側で花開き始めると、私たちは今まで何の疑問も持たずにいたことを、見過ごすことができなくなります。「どうして他のみんなはこのことを疑問に感じないのだろう?」と思うようなことに、いちいち心が引っかかるようになります。

また、「内なる感覚」が深まっていくことによって、私たちは今の社会がどれほど人間の心身に対して暴力的なもので溢れているかを、徐々に実感するようになります。「何でこんなに明るくしないといけないのだろう?どうしてこんなに大きな音を鳴らさないといけないのだろう?食べた後に心身に不調をきたすような食べ物がどうしてこんなにたくさん供給されないといけないのだろう?」といったような疑問が、またしてもひっきりなしに噴出してきます。

このとき、自分の周りにいる大多数の人たちを見ていると、自分の方が「異常」で、周りの人たちのほうが「正常」に見えてきます。なぜなら、「向こう」のほうが圧倒的に多数派に見えるからです。

こうして、技法によって生命力が高まって自分は「正しい方向」に進んでいるという確信が芽生え始めたまさにそのとき、私たちは「ひょっとして自分は『間違った方向』に進んできてしまったのではないか?」という疑いにも取り憑かれることになるのです。

 

この時ほど、技法の実践が苦しく感じられるときはありません。私たちは何が「正しく」て何が「間違っている」のかわからなくなります。

果たしてこのまま技法を実践することは「正しいこと」なのだろうか?

技法を続けていったら、自分はこの社会に居場所がなくなってしまうのではないか?

そういった疑問や不安が次々湧いてきて、技法を実践していてもまるで集中できません。かといって、もしも技法をやめた場合、自分の知性が鈍り、感覚が鈍磨することが自覚できる段階には辿り着いているので、「今さら逆戻りしても、『人間らしさ』を失うだけだ」ということが本人には感覚的にわかります。

 

このまったくの「宙づり状態」の中で、私たちはさらに前進していかなければなりません。

しかし、世の中の指導者の中にはこの段階にそもそも到達するまで誠実に技法を実践したことのない人がけっこういます。自分の師から教わったことをただ無批判に暗記して、教条的に指導しているだけの人は思いのほか多いものです。

ですが、このような「混沌とした宙づり状態」をなんとか自分自身でくぐり抜けてきた指導者達も、確かに存在しています。そういう人たちは、自分の弟子や生徒がこの「闇夜」のような時期を通過する段階に入ると、必ずそれを察知することができます。そして、きっとそのような指導者は「心配することはない。たとえ世間全てが自分に反対するように思えても、あなた自身の『内なる声』を信じてそのまま前進し続けるのだ。必ず『夜明け』はやってくる」と告げることでしょう。

 

彼らの言葉には深い「確信の響き」があります。ですが、言葉の「内容」だけを見ると、どう考えても「正気の沙汰」とは思えません。「たとえ世間全てが反対しても、あなたはあなたの道を行け」などというようなことを言う人は、(非常に愛情深い親を除けば)今のような社会においてたいへん希有な存在です。

このとき、弟子や生徒が、自分の師匠や指導者を信頼しているかどうかが死活的に重要になります。

「混沌とした闇夜」のただ中、たった一人で震えている実践者は、自分の師や指導者を信頼できなければ恐くて前に進めません。しかし、信じて進んだ先に何が待っているのかは、やはり進んでみないとわからないのです。

「私の師が『言っていること』は確かに狂っているように聞こえる。でも、『この人そのもの』を私は信頼すると決めた」と言えたとき、自分自身の心で見定めた師が語る言葉に「魂の有り金」を全部掛ける覚悟ができたとき、初めて私たちは「闇夜」を突き進む勇気を手に入れることができます。

そして、もしも信じて進み続けるならば、いつか「闇夜」は終わり、まさに「夜明け」が訪れたことを、実践者は自分自身ではっきりと理解することができるでしょう。その時になってようやく、かつて師が語った「一見すると不条理な言葉」が、実は深い慈悲から告げられた真実だったとわかるのです。

 

以上、私が個人的に考えた「優れた技法を選別する方法」について述べました。

「どの先生についたらいいかわからない」、「どんな技法をやったらいいか迷っている」といった悩みを抱えている方の参考になれば幸いです。

 

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