近況報告など

約十日ぶりの更新です。

岡山への引っ越しは無事に完了しました。ただ、なにぶん古くなった空き家を購入したので、掃除したり直したりしないといけないところも多々あり、引っ越しに伴う役所の手続きなどもいろいろあったので、あんまり腰を据えて文章を書く時間がありませんでした。

 

ひとまず近況報告など。

約3年前から交際していた女性と、こちらに引っ越してきてから入籍しました。長らく一緒に暮らしていたので、彼女との共同生活そのものには慣れているのですが、環境が激変したので今はお互いに新しい生活に適応するための努力をしているところです。

妻は妊娠中で、もうすぐ妊娠9ヶ月目に入ります。今年の6月末に出産予定です。助産院での出産を考えていて、先日、お世話になる予定の助産師さんと会ってきました。お子さんを二人お持ちのお母さんで、話していてとても信頼できる人だと感じました。

その人は、自然の中で子ども達を育てる「森の幼稚園」も夫婦で運営していて、お会いした日にそちらも見せてもらいました。ボランティアの人たちの手で管理されている山の中に、小さなキャンプ場のようなスペースがあって、そこで数人の子ども達が遊んでいました。山の中はよく手入れがされていて、草木は豊かに生えていますが、「繁茂している」というほどではなく、そこには落ち着いた、親しみやすい雰囲気がありました。

ちょうどお昼時だったので、子ども達と一緒に焚き火で昼食を作って食べたのですが、助産師さんの旦那さんが火をおこして飯ごうでご飯を炊き、彼らの長男くん(たぶん8歳か9歳くらい)が率先してみそ汁に入れる野菜を切ってくれました。ナイフが余っていたので私も野菜を切るのを手伝ったのですが、長男くんが残っている野菜を随時渡してくれて、一緒に楽しく作業することができました。

そこの「森の幼稚園」には保育士の女性も一人いて、その人がとてもきめ細かく子ども達の様子を見ていたのが印象に残りました。子ども達が何か作業をしているときも、決してやり方を押しつけたり急かしたりせず、しっかり見守ってフォローをしているように見えました。

 

子どもといえば、私たちの自宅前の道を、毎朝何人かの男の子達が大きな声で「おはようございまーす!」と挨拶しながら通り過ぎていきます。声の感じからして通学途中の小学生たちだと思います。きっと通行人や玄関先にたまたま出ていた人たちに向かって、挨拶しているのでしょう。

うちのまわりはだいたい上の写真のような景色が広がっています。物理的に遮る物がなく、空は広いです。子ども達の声が大きくなるのも、なんとなくわかるような気がします。建物と人が密集している都会の子達が失いがちな「オープンな心」を、このあたりの子達は自然と保持することができているのかもしれません。

ただ、中高生くらいの年齢の子を見ると、都会の子達と様子が似ています。顎を突き出し、腰は抜け、胸が潰れて呼吸が浅くなっています。顔は表情に乏しく、声にも抑揚がありません。特にスマートフォンへの依存の傾向が都会の子以上に顕著で、彼らが2~3人くらいでたむろしてはそれぞれ自分のスマホの画面を注視し、ときおり独り言のように言葉を発することで「会話のようなもの」をしている光景を、この一週間ほどの期間だけで私は何度も見ることになりました。

おそらく、都会に比べてここには娯楽がなさ過ぎるのだと思います。それで、「娯楽の詰め合わせ」のようなスマートフォンの世界に、容易に心と身体が巻き込まれていってしまう。

きっと彼らが大学に進む年齢になったら、もっと娯楽が豊富な都会へと出て行くことでしょう。彼らはそれによって「退屈な田舎」から解放されたと思うかもしれませんが、私は本当の問題は娯楽の多い・少ないではなく、「娯楽なしではやっていけない心の寒々しさ」のほうにあると感じます。たとえ都会に行ったところで、娯楽によって「埋められるもの」と「埋められないもの」があるという点は変わらないからです。

大事なことは「娯楽を充実させること」ではなく、一人ひとりが日々の生活の中にどうやって喜びや充実感を根付かせていくかということのほうです。ただ単に歩くことの中にも喜びはあるし、深く呼吸することの中にも快さがあります。目に映る木々の様子に気持ちを向け、流れていく川の水音に心から耳を傾けると、そこにはたしかに懐かしい静けさがあります。家事をしたり働いたりするときに身体を使う充実感を、個人個人が内側でしっかり味わうことも大切なことです。

そういったものを一つ一つ丁寧に拾い上げて、自分の生に根付かせていくことを私たちそれぞれが自分自身で学ばない限り、社会に娯楽は増え続けると思います。そして、娯楽をただ享受するだけの受動的な心が社会の中に根付けば根付くほど、私たちは能動的に自分の手で何かを創造する力を失っていくように私には思えるのです。

このあたりでは、小さい子達は伸び伸びした環境からか、とても開放的な心を持っているように見えます。年を取った世代の人たちも、自分の田畑で作物を育てることに誇りと喜びを見出しているように感じます。

しかし、その中間にいる青年たちだけが、私の目には、まるでどこか他の時代や文化圏から連れてこられたかのように、周囲から浮き上がって見えます。もちろん、そういう人たちだけではないですが、まるで「窓のない小さな箱」の中に閉じ籠もりながら生きているように見える若者達の姿を目の当たりにすると、彼らこそが、「現代」という非常に病的で狂った時代の影響を、最も色濃く受けてしまった被害者なのだと感じずにはいられません。

耕し中
家の裏にある畑(予定地)

自宅の裏になかなかの広さの空き地があり、この家の前の所有者はここで作物を育てていたようです。

ただ、4年近くほったらかしだったので、土は固くなり、草も生い茂っていました。なので、ひとまず土を掘り返して雑草を根っこごと取り除き、掘って出た土に堆肥を混ぜて馴染ませてから元に戻す作業を今は進めています。まずはじっくり「土作り」です。

うちの夫婦は時間と体力なら余っているのですがお金はあんまり持ってないので、「余っている時間と体力を使って、食べ物はなるべく自分で作る」という方針で行くことにしました。作物が取れるようになるのはまだ先ですけど、ここで生きていく上で、畑はきっと私たちの役に立ってくれると思います。

 

それと、倉庫の床を畳敷きに改装して道場にする計画も進行中なのですが、そちらはまだ材料が手に入っていないので、もう少し進展してから進捗状況を報告しようと思います。

それでは、また。

 

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