「喜び」の育て方

岡山に引っ越してきて、2週間が経ちました。

あいかわらず、庭の畑(予定地)の土を掘り返す日々です(道場の建設は材料の木材がなかなか手に入らなくて、ペンディングになっています)。庭は4年近く放置されていたので、多種多様な草たちが繁茂しており、草刈りも並行しておこなっています。ひとまず、刈った草は発酵させて堆肥にしてから、また土に戻していくつもりでいます。

草刈りのほうはもっぱら妻がしてくれていて、私はひたすら土を掘っています。土を掘っているのは、固くなってしまっている地盤を少しほぐすのと、地中深くまで根を張っている野草たちに一度退場してもらうためです。

 

妻は大学生時代にサークルで農業の手伝いなどをしていたので、いろいろアイデアを出してくれています(ちなみに、刈った草を堆肥にするのも妻の発案です)。

私は農業については知識も経験もほぼゼロの状態ですので、妻の意見を参考にしつつ、今は試行錯誤しています。また、私個人としては、なるべく畑に元からあったものを「排除」するということはしたくないと思っていますが、どういう形でその気持ちを実現させたらいいのかもまだ模索中です。

 

そういえば、兵庫にいたとき、私は農業の勉強会のようなものに参加したことがあるのですが、そのとき、「野菜というのは弱いものだ」と教わりました。そのとき教えてくれていた先生によると、もともと野生の植物だったもののうち、人間が育てて食べるのに都合の良かった種を選び出して、長い時間を掛けて人為的に品種改良していったものが現在私たちが食べている野菜なのだということでした。実や根っこなどの可食部分がもっと大きくなるように、栄養価がもっと高くなるように、人間が食べて美味しいと感じる味になるように、少しずつ少しずつ改良されて作られたのだということです。だから、完全に野生の植物と比べると、脆い部分や弱い部分がたくさんあるそうです。

たしかに、そのへんの山の野原に野菜の種を蒔いてほっておいても芽は出なそうですし、収穫できるところまで大きくなるとも思えません。仮に大きく育つことがあったとしても、収穫する前に野生動物によって食べられてしまうでしょう。

タンポポやスギナなどはコンクリートの小さな割れ目からでも元気に伸びていきますが、野菜の種をコンクリートの隙間に蒔いて、それで放置していても芽を出して実を結ぶということは、ちょっと想像できないです。

 

そういうわけで、どうも野菜というものは、私たち人間が意識して守ってやらないと育つことができないものらしいです。

それゆえ、庭で元気に活き活きと生い茂っている野草たちを刈り取ってどけないと、私たち夫婦は野菜を育てることができないわけで、毎日毎日、たくさんの草たちを「殺して」います。草だけでなく、鍬で土を掘り返す過程で、たまたまそこにいたミミズやカブトムシの幼虫などを殺傷してしまうことも多いです。掘った土の中にミミズやカブトムシの幼虫を見つけたとき、まだ生きていればこれから掘る予定のない隅っこの土に埋め直していますが、殺してしまった場合、死骸は土に混ぜて有機物のサイクルに戻すようにしています。

他にも、掘り返した土に含まれる有機物を目的にしてか、小さな羽虫がたくさんやってきます。そして、その羽虫を狙っているのか、小鳥たちもやってくる。いろんなものが私たちの家の庭で生き死にしている様を、日々、目の当たりにします。

そんなこんなで、土地をあれやこれやと引っかき回し、たくさんの草や虫を殺すことで、やっと私たち夫婦は野菜を育てられる環境をちょっとだけ整えることができます。弱くて脆い野菜たちを、育てきれるかもまだわからないのに。

そして、その野菜もまた、私たちは最後に殺して食べるつもりでいるのです。

 

都会で生活しているとついつい忘れがちですが、「生きる」ということは「殺す」ということと切っても切れない関係にあります。毎日毎日、私たちは様々な命を直接的・間接的に奪って生きています。「善い・悪い」という話ではなく、それが「自然の摂理」だと思います。

太陽が輝き、水が巡り、草が育ち、虫たちがそれを食べ、鳥たちが虫を食べ、その鳥がどこかで糞を落とすことで、土が肥えたり種が運ばれたりする。そういった「自然のサイクル」の中で、命は別な命を食べて生きています。それは、たとえば人間が怒りや恨みから殺人を犯すのとは違って、「自然なこと」だと私は思うのです。

 

でも、だからといって「食べられる側の命の目方が軽い」ということでもないと思います。

命は命です。「『自然なこと』なんだったら、いくら殺したって構わない」ということではもちろんないし、何かを「殺す」以上は、生きるだけの意味がある生を私たちもまた生きようとするべきなのではないかとも思います。

「殺す」のであれば「ちゃんと殺す」。「殺した」以上は「ちゃんと生きる」。それが「道理」というものだと思います。

…というようなことを、私はほとんど考えないまま、30年以上生きてきてしまったのだなぁとしみじみ感じる今日この頃です。

 

田舎の時間の流れはゆったりしていて、畑で作業をしていると、いつの間にか1時間くらい経っていたりします。都会での生活よりも、「時間の区切り方」がなんとなく大きめになっているのかもしれません。

身体を動かしながら、時間をたっぷり使って土に触れ、ご飯を作るときも、ときどきちょっとだけ手間のかかるものを作っては、ゆっくり味わってそれを食べる。こういう何でもないところに、じわじわっと臓腑に染み入るような喜びがあるように感じます。

 

瞑想の実践をしていても、「この瞬間だけでもう十分だ」と感じる時があります。

独りきりで坐って静かに呼吸をしていると、内側に静けさが満ちていき、「もう他に何も要らないな」と思うことがあるのです。

妻と付き合い始めた頃にも、同じような感覚をたびたび経験しました。彼女といるだけで、「他にはもう何も要らない。この瞬間だけで十分すぎる」とよく感じたものでした。それはきっと、私たちが固く閉じた「内側の殻」を破って、他者と深くかかわることができたときにいつも感じるであろう「喜び」の感覚です。他者に対する「恐れ」が消え、「安らぎ」と「温かさ」が、内側で満ちて溢れ出す。そして、時にそれは稲妻のような鋭さをもって、私たちを撃つこともある。

しかし、私たちはいつも再び恐れだしてしまいます。たとえば、「この人がいなくなったらどうしよう」と恐れる。「この人の気持ちが変わってしまったら、自分の言動や好みが相手の気に入らなかったら、いったいどうしよう」と恐れる。

そして、遅かれ早かれ、私たちは相手を支配しようとし始めます。「愛する人」をコントロールしようとしてしまう。そうして、あの最初にあった「恐れの無さ」は消えてしまい、「安らぎ」も「温かさ」もいつのまにかどこにもなくなってしまっています。気づけば、お互いに搾取し合い、支配しようと我欲をぶつけ合い、「相手が自分のことを理解してくれない」と嘆き、疑いや憎しみが内側で兆すようにもなる。

あるいは、相手の存在に慣れきってしまって、居ても居なくても何も違いを感じなくなってしまう場合もあります。それで、相手が話していてもそれを真剣に聞かなかったり、相手に感謝する機会があっても、ちゃんと口に出して「ありがとう」と伝えることを怠ったりするようになる。

 

どうやって私たちは、自分の中にある「愛する力」を育てたらいいのか?

私が思うに、「鍵」は二つあります。

一つは、私たちの内側の「恐れの無さ」、つまり「安らぎ」や「温かさ」を相手に依存したものではなく、きちんと自立したものへと育てることです。相手をコントロールしたり支配しようとしたりし始めるのは、自分自身の「喜び」がまだ内側で十分に根付いていないためです。相手の存在に頼らないと「喜び」を感じることができないから、相手を縛り付けたり搾取したりすることを自制できないのです。

「内側の喜び」を育てるための機会は、よくよく探してみると一日のうちに何回もあります。たとえば、朝に目が覚めて、布団の暖かさや太陽の光の眩しさを感じるとき、その中にたしかな「喜びの種」があります。ご飯を食べるとき、その一口一口の味わいの中にも、通学や通勤のために道を歩いているときの足裏の感覚や呼吸のリズミカルな循環の中にも、「喜びの種」はあります。職業的な義務としてではなく、真心から私たちに声を掛けてくれる人に出会う機会も多くあります。そこには「喜びの種」だけでなく、「感謝の種」も埋まっています。

自分が過ごしている「何でも無い一日」をよくよく観察してみると、「喜び」を育てるための機会が全くないという人はいないはずです。もちろん、それは「種」に過ぎません。それも、私たちが意識して守って育ててやらないと決して芽を出すことのない「種」なのです。それゆえ、悲しみや不平不満によって、それらの「種」があっという間に洗い流されてしまうことも実際によくあります。

それでも確かに「種」は在ります。そして、それを意識して育てていけば、そう遠くないうちに、内側で「喜び」が芽を出し花を咲かせるのを、誰もが自分の目で見ることができます。

そのとき、私たちは他人に依存することなく、純粋に「喜び」で溢れます。「何か理由があって嬉しい」というのでなく、「とにかく自分は嬉しいのだ」としか言いようのない状態が生まれてくるのです。

 

子ども達はみんなこの「秘密」を知っています。実際、彼らは何の目的もなく走り、何の目的もなく笑うものです。

「どうして走っているんだい?」と聞いても、彼らはきっと質問の意味がよくわからないでしょう。それは、彼らの内側に「走らずにはいられないほどの生命力」が脈動しているというだけのことなのです。彼らの走りと、彼らの笑いが、彼らの命を表現しています。

彼らは、「ただ嬉しい」のです。

 

子どものように走ったり、子どものように笑ったりできる大人は非常に少ないです。

でも、それは不可能なことではありません。それだけではなく、大人は子ども以上の「深い喜び」を内側に根付かせる可能性をも持っています。

そもそも子ども達が感じている「喜び」は、本人によって意識して選び取られたものではありません。だから、それは何かの拍子に簡単に奪い去られてしまうことがよくあります。実際、ほとんど全ての子ども達が、大人になる過程で「内側の喜び」を失います。自分の「内なる喜び」と接触するための通路自体を徹底的に破壊されてしまっている人も少なくありません。それは大事大事に守って育てないと、簡単に枯れてしまうものなのです。

 

大人になってから、自分が「かつての喜び」を失ってしまっていることに気づいた人は、それを取り戻すための「意識的な努力」を始めます。そして、この「意識的な努力」によって、初めて「喜び」はしっかりと根を張って育つことができるようになっていきます。

根は日に日に太くなって広がり、やがてはちょっとやそっとの悲しみや苦しみによって引き抜かれることもなくなっていきます。このようにして、「内なる喜び」は「本物」になるのです。

 

子どもは「正直である」とは言われますが、「誠実だ」とは言われません。それは、彼らが「自分は何があっても正直であろう」と思って「意識的な努力」をしているわけではないからです。

彼らは嘘をつくときさえ「正直」です。言い換えれば、子ども達は無選択に「正直」なのです。彼らには他にどうしようもないのです。

大人だけが「誠実」であることができます。大人は「うまく人を騙す術」を知っていますし、「自分の嘘を隠す術」についても熟知しているものです。しかし、それにもかかわらず、あえて「正直であること」を意識して選ぶ人のことを、私たちは「誠実だ」と言うのです。

 

子どもは全ての「種」を内側に既に持っています。大人だけが、どの「種」を育てるかを自分で選ぶことができる。

そして、自分で意識して選んで育てたものだけが、「本物」になります。それは、たくさんの時間をかけて、「意識的な努力」をじっくり重ねていくことによって、簡単には負けない「強さ」と、闇をも掻き消す「輝き」を徐々に纏うようになっていくのです。

 

また、自分の中にある「種」を意識的に育てている人は、毎日が「新たな発見」で満ち満ちていることに気づくようにもなります。まるでもう一度「子ども時代」に戻ったかのように、世界が「新鮮さ」を取り戻していく。

これが、私たちの「愛する力」を育てるための、もう一つの「鍵」になると私は思います。それはつまり、この世界を、再び子どものように新鮮な目で見ることができる感受性を少しずつでも磨いていくということです。

「世界は毎日新しい」ということを私たちが忘れるとき、私たちは内側でゆっくりと老い始めます。そして、「もっとも近くで一緒に暮らしている人さえもが毎日新しい」ということを忘れるとき、私たちの中で「愛する力」は死んでいきます。

いつまでもいつまでも変わらない世界、それは「死んだ世界」です。実際には、世界は毎日変わっていますが、私たちの中で「当たり前の物事に驚くことのできる感受性」や「常に何かを学び取ろうとする意欲」が鈍ってくると、世界はまったく変化していないように見え始めるものです。

 

実際のところ、世界は毎日不確定です。今日自分が死ぬかもしれないし、愛する人が死ぬかもしれない。それぐらい、世界は毎日不確定です。

「ありがとう」と言いそびれて、「ごめんね」と言いそびれて、怒ったままでいるうちに、気持ちがすれ違ったままでいるうちに、自分と相手のどちらかが死んでもおかしくないくらいに、この世界は常に不確定なのです。

この事実に対して日々目覚めていることができるかどうか?

その一点に、「ありがとう」と言えるかどうか、「ごめんね」と言えるかどうかは、いつもかかっているのだと私は思っています。

 

次の記事へ

前の記事へ