優しさ

畑(予定地)を相変わらず耕しています。

腰を落として作業し続けるので、身体の使い方が間違っていた場合、すぐに背中が痛くなったり、息が上がってしまったりしますし、心の有り様が間違っていると、疲れやすくなって身体が活き活きとは動かなくなります。

一日の作業が終わった後、うまくいくと身体の芯にずーんと響くような心地よい疲れが残りますが、身体のどこか一カ所だけ痛かったり、意識がなんとなくぼんやりする不快な疲れ方をした場合には、どこかで心身の使い方を間違えたのだと考えるようにしています。

 

また、こんな風に、山と空と畑の土に囲まれて、鳥や蛙の鳴き声を聞きながら、草いきれのただ中で畑仕事をしていると、自分の思考に「不純物」が混じったときに、そのことに気づきやすいようです。

私は身体を動かしながら、内側でいつの間にか考え事を始めてしまうことがよくあります。もうとっくに終わったことや、昔の古い心の傷、人知れず味わった苦しみや、恨み辛みなど、「そんなことをいまさら考えたって仕方がない」と自分でも思うようなことを、何度も何度も考えてしまうときがあるのです。

実際には、「考えてしまうときがある」なんていうレベルではないかもしれません。私の内側では、そういった思考がずっと木霊し続けているようにも感じます。

瞑想の技法を実践している最中は、特にそのことを強く感じます。私は「今ここ」で展開している世界に目を向けるよりも、過去の傷をもてあそぶことや、誰かを恨むこと、自分の境遇を憐れむことを無意識のうちに優先してしまうのです。

 

最近は、家の畑の脇に坐って瞑想を実践することが多いのですが、私がそういった思考の「虜」になってしまっていると、山の蒼さも、空の広さも、鳥の歌声の美しさも、風にそよぐ草花の柔らかさも、全て見えなくなります。自分が息をしていることも忘れ、私の身体が生きようとして瞬間毎に力強く血を巡らせていることにも気づかなくなります。私はそういった「自分を取巻く命」や、「自分の中で息づく命」を深く味わうことよりも、「何かを許さないこと」のほうをいつの間にか優先してしまっているのです。

田舎の自然は、私がどれほど多くのことを許さずにいるかを、いつも教えてくれます。そして、そのたびに、私が無意識のうちに優先している「断罪」や「自己憐憫」は、いま目の前にある彼らの命に感謝することよりもそんなに大事なことなのだろうかと、自問します。

 

しかし、何かや誰かを心の中で裁くことによって、または、自分がどれほど惨めで可哀想であるかを言い募ることによって、私はたしかに何かを得てもいます。

まず何かを許さないでいることによって、私は自分の恨みや憎しみを強化することができます。そして、自分の中の恨みや憎しみを育てることによって、私は「力の高まり」を感じることができる。「いますぐ何かを叩き壊してしまいたい」と感じるほどの「力の高まり」を、私は味わうことができるのです。

また、自分の境遇を憐れむことによって、「自分には怒る権利がある」という考えに正当性を与えることができます。自分は「奪われた側」なのだから、「もらうべきだったもの」をまだ受け取っていないのだから、「抗議する権利」があるはずだと、固く信じることができます。

人もまた命であるので、「内なる力の高まり」を無意識のうちに求めます。いつもビクビクして怯えたまま、自分の命を引っ込めて生きていたいと本心から願っている人なんて、どこにもいません。誰だって本当は「もっと力強く生きたい」と願っています。

私たちの内側には「生きようとするエネルギー」の源泉がありますが、怒りや憎しみといった破壊的な感情は、実のところ、この源泉から「力」を効果的に引き出す道具として、使えないこともないのです。

私たちが怒るとき、私たちの鼓動は速まります。私たちが誰かや何かを思いっきり憎むとき、私たちはその憎しみに自分の全エネルギーを注ぎ込みます。それ以外の時には、そこまで全身全霊で何かに没頭するということはできないだろうというくらいに、私たちは自分の怒りや憎しみに入れ込んでしまいます。そして、「つまらない日常」をただ無気力に生きているだけでは感じることのできなかった「高揚感」が、確かにそこにはあるのです。

 

だから、私たちが自分の中の怒りや憎しみを日々育て続けることをなかなか自制できないことについて、私はいくらか理解することができます。そこには「それなりの理由」があるからです。

でも、怒りや憎しみは一種の麻薬のようなもので、私たちに「持続的な高揚感」をもたらしてはくれません。それは「服用」し続けないと効果がなくなってしまうのです。

いつもイライラし続けている人、常に責める相手を探している人は、怒りや憎しみという「興奮剤」の常用者です。そして、そういった「刹那的な高揚感」なしでは「自分が生きている」ということを十分に実感することができなくなってしまったとき、私たちは怒りや憎しみの「依存症患者」となる可能性がある「危険な位置」にいると言えます。

 

また、怒りや憎しみによる「高揚感」が長続きしないのにも理由があります。それは、怒りや憎しみが基本的に「破壊的な言動」を通じて解放される傾向を持った感情だからです。

イライラしているとき、何かを壊すと私たちは「スッキリ」します。心の中で何かが叫びたがっているとき、誰かを思いきり罵ったり非難したりすると、私たちは一時的に「落ち着き」ます。そういった「破壊的な言動」によって「内なるエネルギー」が消費され、自分の中で溜まっていた「力」が解放されて無くなるからです。コップに溜まった水をぶちまけて空にするように、怒りや憎しみを破壊的に解放することによって、私たちのエネルギーは空っぽになります。

しかし、それは同時に、内側で「力」が失われ、生物としての「活力」も減退することを意味します。このため、怒りや憎しみから「活力」を引き出していた人は、そう遠くないうちに、再び怒りや憎しみを育てることによって、自分のエネルギーを補充したい衝動に駆られる傾向が強いのです。

 

怒りや憎しみに限らず、余分なエネルギーを内側に溜め込んでいると、私たちは落ち着かなくなってしまいます。

たとえば、子どもを雨の日に家に閉じ込めていると暴れるとよく言われます。彼らは障子を破り、コップやお皿を割り、壁に落書きをし始める。活き活きした子どもの内側にはエネルギーがあり、それは溢れんばかりに満ちています。そういう時には、余っているエネルギーをちゃんと使い切らないと、心身の調子が崩れてしまいます。だから、「何かを破壊する」という「最も容易な方法」で、彼らはそれを解き放とうとするのです。

怒りや憎しみもまた、「内的なエネルギーの高まり」が表現されるときの一つの形なので、「怒る力」がある人というのは、まだ内側にそれだけのエネルギーを生み出せる「回路」を持っている人とも言えます。「命の回路」が完全に破壊されてしまうと、その人は「怒る力」さえも失って、社会が押しつけてくる義務を盲目的に遂行するだけの「機械」と化してしまいます。

問題は、怒りや憎しみという形で沸き立っている「生命力」を、どうやって使うかということです。

言い換えれば、私たちをいつも活かしているこの命を、私たち自身はいったいどのように生きるべきなのかということです。

 

この世界は命で満ちています。

田舎の畑で一人坐って景色を眺めていると、私はそのことを深く感じます。

怒りや憎しみばかりを育てることよりも、もっと創造的な生き方がある、と私は思います。

誰かや何かを許さないでいることよりも、もっと優先すべきことがあると思います。

山や空や鳥や草や土たちが、そのことをいつも気づかせてくれます。

 

妻や、妻のお腹の中にいる子も、私にたくさんのことを教えてくれます。

私の「愛」がどれだけ未熟であるか、そして、私がどれほど「目の前の命に心を向けること」よりも「利己的な欲望を満たすこと」を優先してしまいがちであるかを、彼らはいつも教えてくれます。

 

妻と初めて手を繋いだときのことを、ときどき私は思い出します。私は彼女と出会ってからずっと、彼女の手を握りたかった。彼女が辛そうにしているとき、そばに行って手を握り「大丈夫だよ」と言ってあげたかった。

だから、初めて彼女の手を握ることができたとき、私はとても満たされた気持ちになりました。

そして、その気持ちを私が忘れてしまったとき、それが私の中で「優しさ」が死ぬときなのだと私自身は思っています。

 

この世界には多くの「優しい人々」がいました。彼らはいざとなったら「不当な暴力」に対抗して闘うだけの力を内側に育てながら、決してそれをいたずらに使おうとはしませんでした。彼らは決して自分の力を破壊的には使わなかったのです。

彼らは多くの場合、言葉をむやみに費やすことなく、ただ日々の生活の中で自分の愛を実践し続けていました。

私はできることなら彼らのことを、ずっと覚えておきたいと願っています。

なぜなら、彼らこそが、この星を少しだけ優しくしてくれた人々だからです。

 

怒りが高揚感をもたらすように、愛もまた高揚感をもたらします。

でも、愛は「何かを破壊すること」によってではなく、「何かを与えること」によって実践されます。そして、愛を実践することを通じて初めて、私たちの「内なる力」は破壊的に浪費されることなく、創造的に増大していくのです。

 

「ありがとう」という一言や、「大丈夫だよ」という一言、一緒に食べるご飯を作ることや、寒くないように布団を掛けてあげること。

そういった「小さなこと」の中に、私たちの「優しさ」は溶け込んでいます。別に「大きなこと」じゃなくていいのです。日々の生活の中で無数に生まれている「小さなこと」の中に、私たちがあとほんの少しだけ「優しさ」を溶かすことができたなら、私たちの住むこの世界はきっと「優しい場所」になる。

私はそう思います。

 

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