全ての一歩に

今日は雨です。

畑での作業はお休みで、妻とそれぞれ、「家の中でできること」をやって過ごしています。ということで、久々に日誌を更新しようと思うのですが、このところは「言葉にできないこと」が多すぎて、あまり書けることはなさそうです。

 

私が畑の脇に一人で坐っていると、色んなことに気づかされます。夜明けと共に鳴き出す鳥たち、山の向こうから顔を出す太陽、風の感触、土の臭い…。そういったものに囲まれていると、次第に自分の命もそこに溶けていくような心地になります。そして、私自身をも呑み込んで、辺り一面に溢れていく「命のスープ」に、私は思わず手を合わせ、「いただきます」と額ずきたくなるのです。

 

西宮で自室に籠もって瞑想の技法を実践していたときにも、私は「自分の命」に触れることがありました。

「瞑想の実践によって何か特殊な能力を得たい」とか、「自分をつかんで離さないこの苦しみから自由になりたい」とかいったような「愛らしくも切実な願いの声」が、ジッと坐っているうちに少しずつ静まっていって、「その向こうにいつもあったもの」、つまり「命そのもの」が、徐々に見えてくるのです。

 

「人から認められたい」「孤独はイヤだ」「お金が欲しい」「仲間が欲しい」「生きるのが苦しくて仕方がない」

瞑想の実践中には、無数の「叫び」が泡のように浮かんでは消えていきます。過去の傷がうずき、復讐心が内側に燃えてこの身を焦がしたり、後悔の念や未来への不安に心をすり潰されそうになったりすることもある。

ちっぽけな虚栄心から、「当たり前の事実」一つさえ認めることができず、頑なに閉じた心。そんな心を抱えたまま、人々から「愛」を注いでもらえるように、安くはない代価を払って表面だけを私たちは着飾り続ける。そうして、着飾った表面の内側には「空虚さ」が広がり、「生の虚しさ」を埋めるために、ますます外側を飾り立てては欲求不満に陥っていく。

「独りぼっち」になってしまうことへの不安と恐れ。そういった、自分の中の存在する恐れを直視できないがゆえに、「自分は恐れてなどいない」と必死で言い立てて、私たちは怒り続ける。そして、そんな風に「怒りの炎」を燃え上がらせることによって自分の目を眩ませ、「本当の姿」が自分自身から見えないようにしようと躍起になってしまう、愛おしいまでのこの「弱さ」。

 

こういった全てを、私たちの命は常に支えてくれています。

この命が、私たちの渇きや切望を、私たちの怒りや憎しみを、私たちの慈愛や喜びを、いつも支えてくれています。それも、何の見返りも求めることなく。

私はそんな命に対して、「ありがとう」と言いたくなります。そして、自分の命に気づくと、他人を生かしている命にも自然と気づくようになります。

他人がどんな価値観を持っているか、どんな意見を持っていて、どんな肩書きの人なのか。

そういったことは、全て「二次的なもの」です。もっと根源にあるのは、その人もまた「生きている」ということなのです。

私は、他人の意見や思想に敬意を払う前に、その人の命に額ずきたくなります。高尚な理論、立派な肩書き、見事な実績、名声や金銭的な富の多寡。そういったものよりも前に、私は「相手の中で今この瞬間にも息をしているもの」にこそ、手を合わせたくなります。

そして、この感謝と祈りを深めることこそが、私の道と感じるのです。

 

もちろん、これは「ただの言葉」に過ぎません。

自分の心から出たものではなく、「他人からの借り物」に過ぎないかもしれませんし、読む人の印象を操作しようとして取繕った「装飾的な嘘」かもしれない。

それでも私は、今この瞬間に、自分のことを際限なく責め苛んだり、この世の非情さに打ちのめされて苦しんでいたりする人たちの命に、精一杯の敬意を表したいと思うのです。

多くのものに守られて安心しきっている人や、自分や他人の中に深い苦しみや悲しみを見たことのない人も、この世にはいます。

同時に、毎日毎日、「今日一日、自殺を選択しないでいること」や「決して自暴自棄になってしまわないこと」を最大の目標にして、どうかこうか日々を生き延びている人たちも、この世には確かにいるのです。

 

つい先日、道場を作るための木材が届きました。

今は、それらを部屋の寸法に合わせて切って、床下に組む根太を作っています。

完成に向けて、いろいろ解決しないといけない課題もありますが、一歩ずつ前進していこうと思います。

 

深い苦しみの中にあるとき、私たちは「この世に光はない」と感じます。どこもかしこも「暗闇」で、「光」なんてどこにも見当たらないように思うのです。

そういうとき、「完成」なんてまるで考えられません。「一筋の光」さえも見えないのに、そんな「先のこと」を考えたら、余計に憂鬱な気持ちになるだけだからです。

それでも、私たちは「一歩」を踏み出し続けます。「とりあえず今日を死なずに生きること」もまた、価値ある一歩だからです。

自分の家族や、自分で世話をしている動物や植物たちに、ほんの少しだけ優しくしようと意識することも、偉大な一歩です。

祈りをもって生き、喜びとともに食べ、そして眠り、感謝とともに隣人に挨拶をする。それは、「暗闇」の中に「光」を灯す一歩です。

何度も失敗するかもしれないし、「自分にはできっこない」と思うこともあります。それでも、「可能な一歩」は常にあると私は思うのです。

 

「ゴール」に到達できるかどうかはどうでもいいと、私は思います。

大事なことは、「自分の足で一歩を踏み出す」ということだと思うからです。

ある人は「そんなちんたら歩いていたら、どこにも辿り着けないうちに人生が終わってしまうよ」と言って嗤うかもしれませんし、別の人は「これはまたずいぶん小さな一歩だな」と言って嘲るかもしれません。

しかし、私は何度でも言いますが、「大きい一歩」にだけ価値があるのではなく、「全ての一歩」に価値があるのです。どんなに小さく思えても、「自分で踏む一歩」には、その人自身の勇気と尊厳が溶けています。それを嘲笑う権利は誰にもないと私は思います。

「新しい一歩」を踏み出すことが、恐くないわけがありません。誰だって、未知に向かって踏み出すときは恐いものです。何の保証も無く、結果は約束されていない。

それでも人は、覚悟を決めて試みる。そして、何度失敗しても立ち上がり、「次の一歩」を踏み出し続ける。そういう人の言動に、尊厳が宿らないわけがないのです。

 

私には、誰かが私のことをいつまでも覚えていてくれることよりも、その人が自分自身の命の価値を忘れずにいてくれることのほうが、ずっと嬉しい。

もし誰かが私のことをずっと覚えていてくれたとしても、その人が自分の命をどうしても愛することができず、悲しみに暮れて日々生きているのだとしたら、私もまた、そのことが悲しい。

 

「私の言葉」はここで尽き、「誰かの一歩」がここから始まることを切に願います。

 

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