「始める」ということ

かつて、私の恩師である、舞踊家の櫻井郁也先生のダンスクラスに出ていたとき、たまに即興のレッスンをすることがありました。

当時の私は、この即興のレッスンが大の苦手でした。苦手というか、恐かった。クラスの中で、「じゃあ、どうぞ始めてください」と言われると、私はまるで自分が丸裸で立たされているような気分になり、いつも息が詰まるような恐さを感じたものです。

そもそも「動いてください」ですらなく、「始めてください」です。そんなこと言ったって、いったい何を「始め」たらいいものやら、そのときの私には皆目わかりませんでした。

 

私はそれまでにたくさんのダンスの教師から多種多様なテクニックを習っていました。でも、そういったテクニックをわざわざ即興のレッスンの最中に再現してみせることが、櫻井先生の言う「始めること」なのかどうか、私には確信が持てませんでした。

かといって、何をしたらいいかわからずにただジッと佇んでいることが果たして「ダンス」と呼べるのかどうか?

これも当時の私にとってはわからないことの一つでした。

 

そもそも、どうして「何かしなければならない」と自分は思い込んでいるのか?

「ダンス」にテクニックは本当に必要なのか?

「ダンス」とはいったい何なのか?

 

内側で疑問は尽きることがなく、私はいつも落ち着かない気持ちのまま、即興の時間を過ごしていました。

それまでの私は基本的に勤勉な生徒で、多くの教師からテクニックを教わり、それらを忠実に再現できるようになっていました。そうして私が上達すると、どの教師も満足げに見えた。私が教わった動きを言われた通りに再現できるよう懸命に努力している姿を見て、彼らの指導者としての「育てる喜び」は刺激されていたのだと思います。

次第に私は、教わったテクニックを忠実に再現することが「ダンス」なのだと思い込むようになっていきました。というのも、教わった動きが上手にできれば、レッスン仲間からも一目置かれ、教師たちからも高く評価されたからです。

 

でも、櫻井先生だけは違いました。

私は一生涯、彼に感謝し続けるだろうと思います。なぜなら、私が師事した多くのダンス教師達の中でただ一人、櫻井先生だけが、私に「単なるテクニックよりも大切なものを自分は見失っている」と気づかせてくれたからです。

 

私は、櫻井先生の前で自分が何も「始める」ことができないことを知って、全てのダンス教師のもとを去りました。私に目をかけてくれていた教師もいましたが、私はもう一切ダンスの稽古に出なくなりました。というのも、私はいかなるダンスのテクニックにも、もはや「本当の価値」を見出すことができなくなっていたからです。

そして、櫻井先生の前で怯えて震えながら、「始める」ということについて学び始めたのです。

 

即興のレッスンを重ねる中で、私は少しずつ、自分がどういう人間なのかを知るようになっていきました。

自分がどれほど教師に評価してもらいたがっていたか、仲間から尊敬されたがっていたか、そして、それらの評価や尊敬を手に入れるために、どれほど健気に練習を積み重ねてきたかということを私は知りました。

また、他者から攻撃されないことを願い、いつも「無難な選択」ばかりしていたこと。

他人の価値観に迎合し、見た目だけ取繕っては「敬意」や「愛」を得ようと必死になっていたこと。

嫌われることや陰で嘲笑されることを恐れるあまり、「自分が本当にしたいこと」を固く封じ込め、いつの間にか、いったい何がしたいのかが自分自身でもわからなくなってしまっていたこと。

そういったことにも、私は時間をかけて一つずつ気づいていきました。

 

櫻井先生に会うまでの私は、「自分はいったい今何をするべきなのか」ということばかり考えていました。

でも、即興の時間は最も自由な時間です。そこでは「すべきこと」ではなく、「したいこと」こそが、スポットライトを浴びるのです。それゆえに、「したいこと」が内側に見出せない限り、私たちは何も「始める」ことができない。

いえ、正確には、「したいことが見つからない」という気づき自体が、「一つの始まり」なのです。なぜなら、その気づきによって、当人は「いったい自分は何がしたいのだろう」と、問い「始める」ことになるからです。

 

即興のレッスンをするようになってしばらく経った頃、私は自分の内側に「こういう動きがしたい」という欲求をポツポツと感じるようになっていきました。たとえばそれは、「思いっきり腕を回してみたい」とか、「これ以上は無理だと思うほど爪先立ちをしてみたい」とかいったような、一見すると馬鹿馬鹿しいような欲求でした。

ストリートダンスのクラスみたいにスタイリッシュな動きでもなければ、クラシックバレエのクラスのように優雅な動きでもありません。動きのバリエーションもへったくれもなく、「とにかく腕を回したいんだ」というような調子なのです。

でも、不思議なことに、ただただ自分の「内発的な欲求」に従って腕を回していると、何とも言えない「味わい」がそこにはあるのです。スタイリッシュでもなければ、優雅でもないけれど、ただただ夢中になって腕を回していると、その一回一回の回転の中に自分自身がまるごと溶け込んでいくような感覚が徐々に生じてきました。

そして、教わったことをいくら上手に反復しても決して得られなかった深い充足感が、そこにはあった。どれだけ教師やレッスン仲間たちに誉められても癒されなかった「内側の渇き」が、こんな「馬鹿げた動き」を必死になってやることで満たされるなんて、それまでの私は夢にも思いませんでした。

 

自分を満足させることは、なんて簡単なことだったのだろう。

別に誰かに認めてもらう必要はないし、何かを証明する必要もない。

ただ、外側から押しつけられた無数の「すべし」を退けて、内側から湧いてくる「したい」に、心身をありったけ委ねればよかったのです。

他人からどんなに馬鹿馬鹿しく見えたって、構わない。

ついつい過去の考え方の習慣から、自分自身でも、自分のやっていることを馬鹿にしたくなってしまうことがありますけれど、「馬鹿馬鹿しいこと」に一生懸命になる姿は、全然カッコ悪くなんてないものです。

 

また、そうやって夢中で腕を回していると、「どうしたらもっと気持ちよく腕を回せるんだろう」といったことを自然と考えるようになります。

そのとき初めて人は、心の底から自発的に「テクニックを学びたい」と願うようになる。

「上手く見せるための目眩まし」や、「誰かに誉めて貰うための取引材料」としてではなく、自分自身の純粋な喜びのために、テクニックを追求するようになるのです。

 

そんな風に、自分の喜びのためにテクニックを追求する人は、もういかなる教師にも「隷属」しなくなります。彼/彼女はたとえ誰かに技術や理論を習うことがあっても、そのつど「自分にとっていま何が必要であり、何を優先的に守るべきなのか」を自分自身で考え、常に自分の判断で取捨選択します。

そして、遅かれ早かれ、ダンスのテクニックは「権威ある教師」からだけでなく、「無邪気に遊ぶ幼児」や「水の流れ」や「風の感触」などからも大いに学ぶことができると、知るようになる。

幼い子ども達はなんと自由で闊達に動くことか。また、無碍自在に変化する水の有り様や、風が通るときにできる空気のネットワークに、どう動いたら「法則」に適うのかを教えられることもある。

 

結局、私は櫻井先生のもとからも去りました。

私はもう誰のところにもレッスンに行っていません。それでも毎日、学ぶことだらけです。見渡す限り、「師」しか存在しません。

 

私が「ダンスの教師」からテクニックを学ばなくなって、15年経ちます。

私は15年かけて、ほとんどダンスの技術は上達しませんでした。でも、私は「15年前よりも深い喜びとともに今は手を上げることができる」となら、確信を持って言えます。

他人の目から見て「上手に手を上げられる」ようにはならなかったかもしれませんが、私はそれで満足です。

 

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