命の使い方

畑で毎日作業をしていると、天地自然や自分の心身からたくさんのことを教わります。

たとえば、長いあいだ身体を屈めていると背中や脚が痛くなることがあるのですが、そういうときはだいたい心が「留守」になっていて、頭の中で考え事をしていたりします。考え事に夢中になっていると、頭のほうに重心が引っ張り上げられてしまうので、「身体を屈めている」という「外側の形」と、「頭の中に引き籠もっている」という「内側の在り方」とが調和せず、心身が分裂してしまうからだろうと思います。

 

また、なんとなくぼんやりした意識で作業をしていると、手の先や足の先まで呼吸が通わなくなるので、すぐ疲れます。

多くの現代人が勘違いをしていますが、人間は「全身全霊」であるときが一番疲れません。「まあ、やってもやらなくてもどっちでもいいのだけれど」と思いながら手を抜いてやっていると、身体の中で「使われない部分」が大量に発生してしまい、「各部の連携」がちゃんと取れた身体の運用ができなくなるからです。

また、中途半端な気持ちでやっていると、そのまま居眠りしても倒れないくらい脚や腰の一部を突っ張って、その部分に寄り掛かってしまうこともあります。無意識になんとなく作業をしていると、私たちは自分でも気づかないうちに地面や壁に寄り掛かり、腕や脚を単なる突っ張り棒のような「死んだ状態」にしてしまいます。

こうしたことをずっと続けていると、そういった「死んだ部分」が身体の中のエネルギー循環を阻害する「ブロック」になってしまい、血液や酸素の運搬がそこで堰き止められてしまいます。その結果として、すぐに息切れがしたり疲労感を覚えたりもするのです。

 

そうかといって、「よし、今から一所懸命にやるぞ」と頭の中だけで唱えても無意味です。頭は、私たちの存在全体のほんの一部でしかないからです。

私たちが本当に全身全霊で物事に向かおうと思ったら、頭でだけ号令を出しても言うことを聞くのはせいぜい頭だけなので、首から下の部分が「えー、こんなことやりたくないよ」と思っていると、全く力が引き出されません。心(ハート)の底から「やりたい!」と欲することや、肚の底から「やってやるぞ!」と自分で決意したことでなければ、私たちは全身全霊でそれを行うことができないように元からできているのです。

なので、いくら頭だけで「自分はやるんだ!」と自己暗示をかけても、ハートや肚の協力を得られなければ、ほとんど何もやり抜くことができません。頭では「やろう」と思っていても、ハートや肚を通して「根源的な力」を受け取ることができないとすぐにエネルギーが枯渇してしまうので、そのまま無理してやればやるほど「拭いがたい疲労感」だけが内側に蓄積していきます。

 

そうした状態に至ったとき、現代の多くの人たちは「自分はなんと意志薄弱なのだろう」と思って、自己嫌悪に陥ってしまいがちです。

でも、ちょっと待って欲しいと思います。それは必ずしも「意志が弱い」というわけではなくて、単に「命の使い方が間違っている」というだけのことだと私は思うからです。

命は、生きているなら誰もが持っています。そして、それはとても大きな可能性を内に秘めているのですが、「使い方」を間違えてしまうと全く力が引き出されません。

先ほども書きましたが、頭というのは私たちの存在全体のほんのごく一部に過ぎません。それゆえ、「自分はこれがやりたいのだ」と頭でいくら考えていても、胸の内で「いや、でもそんなのやっぱり無理なんじゃないか」と疑っていたり、肚の底で「そんなことやって、もしも他人から嫌われたらイヤだな」と怯えていたりしたら、自分の命を余すところなく使い切るのは無理なのです。

 

もしも私たちが自分に与えられた命を思い切り使うことを望むなら、頭という「浅いところ」だけではなく、ハートや肚のような「自分の存在の深部」に至るまで「やるぞ!」という意志を染み渡らせなければなりません。それによって、頭という「部分」よりも大きな「全体」の力を引き出して使うことができるようになります。

頭で「やるぞ!」と思うときに、ハートや肚がそれと矛盾することなく、同じように「よし、やろう!」と呼応することのできる状態。それが私たちに与えられた命の「本来の姿」なのです。

 

しかし、私たちが「部分」としてではなく「全体」として生きることができるようになるためには、私が思うに、どうしても必要なものが一つあります。

それは「勇気」です。

現代社会に生きる私たちは、頭という「部分」でばかりあれこれ計算して生きていますが、そのような傾向が助長されてしまうのは、突き詰めると、私たちがそれだけ「臆病」だからだと私には思えるからです。

 

私たちは「こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう」と、まだ起こっていないことを、ついつい無意識にシミュレーションし続けてしまいます。

または、「どうしたらもっとお金を得られるか」とか「どう振る舞ったらもっと他人から大事にされるか」とかいったことを頭の中で計算しては、心に思ってもいないことを言ったり、相手によって意見や態度をコロコロ変えたりしてしまう。

こういった私たちの傾向について、その原因を探っていくと、最も深いところにあるのは「恐れ」なのではないかと私には思えます。

 

「先のことはわからない」ということは子どもでも知っている「事実」ですが、そのことを受け容れるためには「勇気」がいります。「一瞬後に自分が何を失うことになるのか全く予想がつかない」ということを意識しないようにして忘れるのは簡単ですが、それを「ありのままの事実」として直視し続けるためには、人は勇気を振り絞らないといけません。

家を失うかもしれないし、家族を失うかもしれない。財産を失うかもしれないし、人からの信頼や保護を失うかもしれない。ある日突然目が見えなくなるかもしれないし、二度と自分の足で歩けなくなるかもしれない。今日の晩寝たら、明日は目が覚めないかもしれない。

そういった可能性は「常に」在ります。私たちの住んでいるこの世界をよくよく観察してみると、そのことがわかる。

そして、「全てはいつ失われてもおかしくない」ということを「事実」として受け容れるのではなく、「なんとかして自分の持っているものが失われないようにできないものか」と思ってジタバタするときに私たちが最もよく使うのが、実は頭なのです。

 

どうして自分自身を曲げてまで、他人によく思ってもらいたいのか?

それは、他人から見捨てられて、独りきりで死ぬことになるのが恐いからです。

どうしてそこまで強迫的にお金や物をたくさん溜め込んでしまうのか?

それは、自分を保護してくれる友人や知人を失っても、お金や物を利用すれば自分を守れると期待しているからです。

よくよく観察してみると、私たちの虚栄心や我欲、暴力性や支配欲などの根底にも、「死への恐れ」が存在していることがわかります。

「物や人を支配すること」や「自分の力を誇示して他人を屈服させること」それ自体に、私たちを「陶酔」させるものがあるのは確かですが、私の見るところ、より根源的なのは「恐怖」です。「力の感覚」に酔ってでもいないと、「自分もいつか必ず死ぬ」ということを思い出してしまう。それが恐ろしいので、私たちは自分の怒りや暴力性を引っ込めて冷静になることがなかなかできないのです。

 

たとえば、もし私たちが自分の得た地位に寄り掛かっていると、その地位を剥奪しようとする人間が現れたとき、私たちは心穏やかでいることが難しいものです。きっと頭を働かせてライバルの足を引っ張るための妨害工作をしたり、自分より下の立場の人間が頭角を現わす前に芽を摘んでおこうとしたりするでしょう。

また、自分の蓄えた知識や理論的な正しさに寄り掛かっている人は、自分が犯している論理的な誤りを正確に指摘する人に対して、没論理的な仕方で感情的に非難することがよくあります。そういった人は、「自分が実のところ大した知者ではない」と何かの拍子に他人にばれてしまうのではないかと、いつも心中ではびくびく・いらいらして過ごしているものです。だから、ちょっとした刺激で簡単に感情が「噴火」してしまうのです。

 

私たちが「失うこと」を恐れれば恐れるほど、私たちはより多くの「寄り掛かるもの」を必要とします。そして、「寄り掛かるもの」が増えれば増えるほど、それらを失うことへの恐れがさらに付け加わっていくことになる。

反対に、「寄り掛かるもの」が減ると、私たちは身軽になっていきます。

たとえば、地位に寄り掛かっていない人は、「他人に地位を奪われるのではないか」と恐れる必要がないので、そのぶん地位を失う未来について思い悩んだり、地位の保持とかかわる他人の思惑を推し量るために頭を働かせなくて済みます。

また、「自分は無知だ」ということがわかっている人は、新しいことを学ぶのにも抵抗がないですし、「あなたは無知だ」と他人から言われることを恐れません。

お金に寄り掛かっていない人はお金を失うことを恐れないし、いざというときに他人から守ってもらうことを見返りとして期待していない人は、たとえ相手から嫌われても「言うべきこと」を告げるのを躊躇わない。

このように、「寄り掛かるもの」が少なくなればなるほど、私たちはまわりに振り回されなくなり、自分の心を裏切ることなく生きていくことができるようになっていきます。

 

しかし、それは「本当は寄り掛かりたいけれど、事情があって寄り掛かることができない」という状態とは違います。

たとえば、本当は高い地位を得たいけれど、あるいは、「頭が良い」と他人から思われたいのだけれど、生まれ育った環境に恵まれなかったり、自分がいま持っている能力が足りなかったりしてそれが叶わないという場合もあります。「だったらそれでいいや」と心から思えるのであれば、寄り掛からずにやっていけますが、どうしても諦めきれないと、いくら頭で「これが自分には分相応なのだ」と言い聞かせてみても、嫉妬や羨望といった感情から自由になることはできません。

「寄り掛かるもの」が幸運にも手にはいった人は「いつか失うのではないか」と恐れ、不幸にして何も手に入らなかった人は、世の中や他人を呪いながら苦しみ続けなければならない。

 

「寄り掛からない」ということは、その両方から離れることを意味します。

そして、そのためには勇気がいる。「たとえ何を失っても構わない」と肚の底から思えるだけの勇気が必要なのです。

勇気はいつも私たちの肚から出てきます。実際、私たちが何かに本気で挑戦しようとするとき、私たちはお腹や脚のあたりに「震え」を感じるものです。

ひょっとしたら失敗するかもしれないし、誰かに嗤われるかもしれない。自分が大事に守ってきたものを失うかもしれないし、それらを取り戻す術はまったく残らないかもしれない。「それでも自分は挑戦しよう」と決意するとき、「最初の震え」は必ずお腹や足腰のあたりに感じられます。

それは、私たちの勇気がそれらの部分でこそ試されているからです。

 

人によって何に「挑戦」するかは違います。

ある人は「ずっと出られなかった自分の部屋から外に出ること」に「挑戦」するかもしれないし、別な人は「いつも無言ですれ違っていくだけの隣人や知人に自分のほうから挨拶してみること」に「挑戦」するかもしれません。

大事な面接の前に呼吸を落ち着けようと努力することや、大切な発表会の直前まで自分の中の緊張や恐れと面と向かい続けることが「挑戦」となる人もいるでしょう。

ずっと前から好きだった人に思い切って「好きだ」と言うことが「挑戦」となる人もいれば、相手から殴られることも覚悟したうえで「あなたのやっていることは間違っていると思う」とはっきり言ってあげることが「挑戦」になる人もいるかもしれません。

 

その人の「現在地」によって、「次の一歩」は違ってきます。でも、全ての「挑戦」には固有の価値があり、それらは必ず当人の肚を強くしてくれる。

勇気を振り絞って踏み出した結果、たとえ失敗して何かを失っても、「失われずに残るもの」がある。その「決して失われないもの」を携えて私たちがもう一度立ち上がると、以前だったらお腹や脚が震えていたはずの状況でも、自分が「震え」を感じなくなっていることに、私たちは気づきます。

 

もちろん、また「次の挑戦」に臨むときには、「震え」が起こります。より危険で、より大きな「挑戦」を前にして、再び私たちは震え出す。

いつだって「挑戦」を前にすると「震え」は起こり、「恐れ」は自分の目の前にある。しかし、何度も「震え」や「恐れ」と直面して、それらと面と向かうことを繰り返していると、私たちは「震え」や「恐れ」が、実のところ、この自分に対して大したことはできないのだと知るようになります。

 

そもそも、私たちが震えたからといって、それでいったい何が失われるのでしょうか?

私たちが本当に誠実に生きようとしたら、震えて当然です。物事を「ありのまま」に見るなら、これから何が失われるか、この世の誰にもわからないのですから。

でも、「震え」そのものは私たちを震えさせるだけで、何も奪いはしません。「恐れ」もまた、それ自体では私たちから何も奪いはしない。「何かを奪われるのではないか」という予感が、「恐れ」という形を取って、私たちを引っ張りこもうとするだけです。

もし私たちが「恐れ」に引っ張り込まれないように努め、ただ自分の「震え」を直視するなら、「恐れ」がどれほど無力なものか、次第にわかるようになります。

「恐れ」には、私たちを震えさせるということ以外にはなにもできないと、わかるようになる。

 

このことがわかると、私たちは他人の意見を恐れなくなります。

もっと正確に言えば、「他人の意見に対する恐れ」の奴隷になることを、自分の意志でやめることができるようになります。

私たちが誰かや何かの奴隷になってしまうのは、結局のところ、「自分の恐怖」の奴隷になってしまっているからです。実際、もし私たちが恐れなければ、誰も私たちのことを奴隷にすることはできなくなります。

「言う通りにしたらこれをやろう」と言って釣ることができるのは、「得られないことを恐れている人間」だけです。

「言う通りにしなかったらこれを取り上げるぞ」という脅しが通じるのは、「奪われることを恐れている人間」だけです。

だから、「『自分の恐れ』に呑み込まれない人」は、何かで釣ることもできなければ、脅すことできない。そして、そういう状態になったときにだけ、私たちは、自分の命を本当に燃焼し尽くすということが可能になるのです。

 

「失う恐れ」を恐れないとき、私たちはどんな状況にも全身全霊で対応しようとします。なぜなら、彼/彼女は「これから何が起こっても不思議はない」ということを「事実」として知っているからです。

この「全身全霊の構え」が、普段は賢しい計算でいっぱいの頭を剣のように研ぎ澄まし、不平不満で塞がっていた心に熱い火を灯し、すぐに腑抜けてしまいがちな腰肚に「中心の感覚」を生じさせます。

と、こう書くと、なんだか「特別な状態」のように感じるかもしれませんけれど、上でも書きましたように、それが私たちの命の「本来の姿」なのです。

 

しかし、私たちの社会は、よってたかって人々を「臆病」にしています。

子どもの頃から「あれを得て、これを溜めて」と駆けずり回るように仕向けられ、一呼吸置いて夕焼け空を眺める時間さえ与えてもらえない。

目の前の花々や鳥たちの鳴き声に心を向けることさえも、子ども自身の知的な能力や感情の発達に良い影響を及ぼすかどうかといった「計算」を一切抜きにして語ることが、私たちにはほとんどできません。

そうして、何もかも先回りしてレールを敷いて、「保険」と「保証」の話ばかり。当の子ども達は、大人になったあとでさえも、親や教師の期待を裏切ることを恐れるあまり一歩も身動きが取れなくなっている。

安全に守られ、自分自身では何も考えたり感じたりしなくても生存し続けられるほどあらゆることが「保証」された未来に、知的に早熟な子ども達は、文字通り「死にたくなるほど退屈」しています。

そして、頭に知識を詰め込むことばかり強いられ、自分の心を正直に表現すると「みっともない」と叱られ、勇気を出して「これをやってみたい」と言うと、「どうせできっこない」と頭ごなしに否定されてしまう。

 

先日、ある話を読みました。

小さな男の子が太陽の絵を描いた話です。その子は、自分の描いた太陽を青い絵の具で塗りました。きっとその子の「心の目」には、太陽は青く見えていたのだと私は思います。

しかし、それを見た先生は、「太陽というのは青じゃなくて、赤いものなんだよ」と言って、その子の許可も得ずに勝手に赤い絵の具を上から塗ってしまったのです。

きっとその先生は、「正しいことを教えた」と思っていたことでしょう。でも、この「教育的な指導」によってその子が学んだことは、「太陽は、青より赤で塗ったほうが自分の心にあるものを正確に表現できる」ということではなくて、「太陽は、たとえ青く見えても赤く塗らないと大人から拒絶されるかもしれない」という恐れだったろうと私は思います。

 

多くの子ども達は、自分の心にあるものをちっとも表現させてもらえません。太陽を青く塗ることさえ許してもらえない。

本当に太陽を青く塗ろうと思ったら、大人から怒られたり友達からよってたかって馬鹿にされたりすることを覚悟の上で、勇気を出して肚を決め、「私には太陽はこう見える」とはっきり言えるようにならないといけない。

でも、そんな勇敢な子どもが、世の中にいったいどれだけいるでしょうか?

 

私たちは心を育てる機会を奪われ、頭にばかりものを詰め込まれて大人になります。

そして、それが「安全な生き方」だと言われる。

でも、「危険な生き方」のどこがそんなにいけないのでしょうか?

「安全なところ」で「まあ、どうでもいいけど、とりあえずやっておくか」と中途半端に命を使っている人は、必ず欲求不満になる。なぜなら、「せっかく天から与えられたものを十分に使い切っていない」ということが、本人にも深いところではわかっているからです。

「安全なところ」から、「危険に生きている人」を他人と集まって嗤っているだけの人も、欲求不満になります。そして、やがてはその「空虚な心」を埋めるために、「寄り掛かれるもの」を求めてやまない人になる。とても寂しい人になる。

 

自分がなぜ「本気」で生きることができないのか、その理由さえわからずに苦しんでいる人が世の中にはたくさんいます。

ほんの少しだけ、勇気が必要なのです。

自分の「ちっぽけな歩み」を決して嘲笑しないだけの勇気が。

やっとの想いで踏み出した「何でもないような一歩」を、自分だけは軽蔑しないでいられるだけの勇気が。

自分自身に対して深い敬意と愛を抱くための勇気が、私たちには必要なのです。

 

次の記事へ

前の記事へ