「美しさ」について

「美しい」とは、どういうことなのか?

 

ダンスを集中的に稽古していた十代後半の頃、こうした問いを内側に抱えることがときどきありました。

ただ、私が最初にのめりこんだのはブレイクダンスだったので、「美しい」というより「カッコイイ」という言い方のほうが、当時は考えやすかった。ステップの時の膝を曲げる角度、内股の筋肉のほどよい緊張感、背中の丸め方など、ずいぶんいろいろとこだわって研究したのを思い出します。

しかし、私がブレイクダンスを始めて二年ほど経ったとき、縁あって吉川太(ふとし)さんという人のところでブレイクダンスを習うようになって、私は「美しい」ということについても考えるようになっていきました。というのも、彼がレッスン中に説明しながら動くのを見て、私は初めて人の身体を「美しい」と感じたからです。

 

単に「難しい動き」をする人ならそれまでにもたくさん知っていましたが、そういう人を見て私たちは「感心」はしても「感動」はしないものです。ただ、「うあー、こんな難しいことができるなんてすごいなぁ」と思うだけです。

でも、太さんの動きは、「感心」程度のもので片付けてしまうには、あまりに圧倒的でした。たしかに、技術的にも難しいことはしていましたが、私は「何気ないステップ」や「初歩的な技」を見せているときでさえも、そこに引き込まれずにはいられなかった。

 

太さんは別に「すごいこと」をしようとは考えていなかったのだと思います。彼はそんな「小さなこと」を考えるにはあまりに突き抜けすぎているように見えました。

太さんは、ブレイクダンスが日本に伝わってきたばかりの頃に活躍していた、伝説的なダンサーの一人でした。しかし、その頃は今ほど練習法がきちんと確立されていなかったので、無理な練習がたたって身体を壊す人も少なくなかったそうです。

太さんも例外ではなく、いちど完全に身体を壊してしまいました。医者にも匙を投げられて、「一生車イスの生活になる」と宣告されてしまったそうです。

ですが、太さんは療養生活中に、今は亡き伊藤昇師範に出会いました。伊藤師範は、ヨガと少林寺拳法をベースに身体の研究をされた方で、胴体の使い方を練り上げていく独自のメソッドを教えていました。

おそらく太さんは、伊藤師範の道場へ最初は「リハビリの一環」として通っていたのではないかと思います。車イス生活を余儀なくされるほど身体を壊していた太さんが、具体的にどういった練習メニューをおこなっていたのか私は何も聞いていませんから、今となっては私なりに想像してみることしかできません。

しかし、太さんはそこで「何か」を突き抜けたようでした。伊藤師範のもとで胴体の体操や拳法の修行に明け暮れて、車イス生活からの脱却どころか、彼は前以上に身体のポテンシャルを引き出すことができるようになったのです。

 

私は、太さんからこの話を何度も聞きました。きっと太さんにとって一生忘れることができないくらい、「意味深い出来事」だったのだと思います。

少し後になってから知ったのですが、実は伊藤師範自身もまた、太さんと似たような過去を通り抜けていました。

幼少期にヨガと出会い、青年期を武道にのめりこんで過ごした伊藤師範は、二十歳過ぎにして自分の道場を開きました。しかし、あまりにも無茶な稽古を続けすぎたために、伊藤師範は完全に身体を壊してしまったのです。

身体は思うように動かなくなり、医者からも匙を投げられ、友人からも「このまま死ぬのではないか」と言われたそうです。しかし、伊藤師範は諦めることなく、自分の身体の使い方をもう一度徹底的に見直すことを決意して、独自に身体の研究を開始しました。

そのとき、おそらく伊藤師範も「何か」を突き抜けたのだと思います。しばらくして、自力で健康を回復した伊藤師範は、前以上に「すさまじい動き」ができるようになって道場を再開しました。その道場では、以前と違って突きや蹴りの練習ばかりではなく、胴体の使い方を丁寧に見直すための体操の時間が長く取られていたと聞いています。

 

伊藤師範が亡くなられたとき、太さんは「自分なりに師範の教えを伝えられる方法は何か無いか」と考えて、「胴体の体操を基礎にしたブレイクダンススクール」を始めました。しかし、太さんは伊藤師範が生前に立ち上げていた組織の中ではそれほど「古いメンバー」ではなかったようで、「胴体のメソッドをブレイクダンサーに教える」という太さんの試みに対して、伊藤門下の他の人たちからは「新参者が思い上がっている」と言って、非難される傾向が強かったようです。

太さんの口から伊藤師範の名前はしばしば聞かれましたが、それ以外に伊藤師範の道場での稽古仲間の名前などは一度も聞いたことがありません。おそらくもう関係が切れてしまっていたのではないかと思います。

 

そんな太さんのダンススクールでは、いつも生徒が私を入れても3人とか4人しかいませんでした。

私は不思議で仕方ありませんでした。どうしてこんな「すさまじい人」が世の中に知られていないのだろう、と。

当時の太さんは自分の方からは積極的に「宣伝活動」のようなものは何もしていませんでした。また、「有名になってしまったらおしまいだと思っている」というような言い方を太さん自身がしていたのも一度だけ聞いたことがあります。それゆえ、実際に太さんのところに通っている生徒の人と縁あって知り合いにでもならないと、一般の人はその存在に気づくきっかけさえありません。

 

それでも、「すさまじい人」はこの世にいます。

私は高校を卒業した後、音楽関係の専門学校に進学してダンスを専攻したのですが、その学校にも「すさまじい人」はいました。他の人と同じ動きをしているはずなのに、明らかに「何か」が違うのです。

そこの学校のカリキュラムにおいて必修になっていたクラシックバレエでは、手の角度や足の角度も指定されていることが多々ありました。「膝の角度はこうなっていると美しい」とか、「爪先の形はこうなっていると美しい」とかいったことまで理論的にかっちり決まっていて、そこから外れたら「美しい踊りは不可能」という風に結論づける風潮さえあった。

それでも、「すさまじい人」の動きを見るたびに、私はそれを「美しい」と思いました。幼年期からバレエをやって来た女の子ほどに脚は高く上がらなくとも、たとえ爪先の形にバレエ的な「欠陥」があろうとも、彼らの動きは「美しかった」。

 

私は不思議でした。

高く脚が上がるとそれだけで誉められ、爪先の形が良いと級友からは羨ましがられる。でも、そういったものをいくら積み重ねても決して生むことのできないものが、たしかに在る。

「それ」はいったい何なのだろう?

 

合氣道の稽古をするようになって、私は呼吸法という技法体系に初めて触れました。

今だから言えますが、私は合氣道を習い始めて最初の4年くらいは、呼吸法の時間が大嫌いでした。なぜなら、あまりにも「退屈」だったからです。

道場でおこなっていた呼吸法は、ただ立って、あるいは坐って、自分の呼吸を見つめ、自分の身体を見つめるという、非常にシンプルなものでした。

しかし、合氣道を始める前に、様々なバリエーションで跳んだり回ったりする各種のダンスをやっていた私にとって、「ただ立って自分の内側を観察しているだけ」なんて、退屈極まりない。だから、私は呼吸法の時間が来る度に、内心では「ああ、早く終わってくれないかな」と思ったものです。

でも、5年目くらいからちょっと様子が変わってきました。だんだんと、自分の動きの「質」が変化してきたのです。

それは「たくさんの動きを覚えて色んなコンビネーションができるようになった」といったようなこととは違う。「『新しい動き』ができるようになった」のではなくて、「何でもない動きを『かつてと違った仕方で』おこなうことができるようになった」といったほうが近いです。

ただ腕を前に出すだけでも、かつてと違う。ただ歩くというだけのことでさえ、まるで自分が生まれて初めて歩いているかのような新鮮さを伴って体験されることがありました。

 

そのことに気づくようになってから、まわりの稽古仲間達を見てみると、みんな「同じ事」を「違う仕方で」しているように見えました。道場での稽古中は、各自でバラバラに違う技をすると初心の人が危ないので、だいたいにおいて全員で一緒に同じ技をやっていることが多いです。しかし、それにもかかわらず、というかだからこそ、明らかに「『同じ技』を『違う質』で体現している人」が存在していることが私にはよくわかりました。「難しい技」を「つまらない仕方で」している人もいれば、「何でもない動き」を「胸を打つような仕方で」している人もいた。

そして、そういう「見る者の胸を打つような動き方」をする人が自分の順番になって場に出ると、道場の中の空気まで変わるような気がしたものです。

ダンサーの中にもそういう人がいます。ただステージに出てくるだけで、観ている側が「何かが始まる」と予感せずにはいられなくなるような、そんな人が。

 

私は最近、庭にプランターを置いて、そこで茄子を二株育てています。1ヶ月くらい前に苗を買ってきて植えました。

私は野菜を育てるのはこれが初めてでしたが、「何を大事にするか」ということだけは自分の中で明確に決めていました。それは、「どうしたらこの子達はもっと活き活きするか」ということでした。

 

合氣道の道場にいたとき、私は子どもクラスの指導の補助をよくしていました。私はそこで、子どもたちの表情がどういうときに活き活きするか、また、どういうときに彼らの表情は曇るのかを興味深く観察していたのですが、わかったことは「『こうすれば必ず子どもは活き活きする』という決まった法則のようなものはない」ということでした。

たとえば、稽古中は元気がなかったある子は、学校で経験したことを話したがり、それにこちらが熱心に耳を傾けているとどんどん活き活きし始めました。

空き時間に道場内を走り回っていると活き活きする子もいれば、稽古で習った動きを一人で黙々と繰り返していると呼吸が深くなる子もいた。

いつも指導している先生のことが大好きで、先生のそばで呼吸法や準備体操をしているとそれだけで楽しそうな子もいれば、道場の大人たちが困るような悪戯をしているときがいちばん活き活きしている子もいた。

そんな具合で、「何をしたら活き活きするか」は子どもによってバラバラで、たとえ同じ子であっても、時と状況が変われば、前と同じことをしても活き活きしないことがよくありました。

 

私は子ども達を相手にいろいろ試してみて、たくさん失敗を重ねた末に、「どうやったら彼らが確実に活き活きするか」については結局はっきりしたことはわかりませんでしたが、「『活き活きする』とはどういうことか」なら、明確にわかるようになりました。

こう言うと、私は結局一歩も前進しなかったように思われるかもしれませんが、私自身にとって、そのときの経験は非常に大事な「宝物」になっています。

というのも、「相手が活き活きしているかどうか」を他人に聞かずに自分で判断できるということは、「相手がより一層活き活きする方向」を意識的に目指して、無数の試行錯誤をすることが私にはできるということだからです。

もし私が「活き活きする」ということを自分自身の目と感覚ではっきり見分けることができなかったら、私には試行錯誤さえできません。私が「自分なりの基準」を持っていなければ、私は「自分の一歩」が果たして前進なのか後退なのかさえ判断できないでしょう。そして、きっとそう遠くないうちに「出来合いの教育理論」に寄り掛かって、自分のすぐ目の前で現に生きている子どもの様子にさえ、ほとんど関心を持たなくなると思います。

でも、もしも私がささやかではあれ「自分なりの基準」を持っているならば、私が諦めないで歩き続ける限り、私は無限に前進することができます。つまり、「自分の内側に基準を持つ」ということは、人が無限に進み続けられるようになるための「大事な一歩」と言えるのです。

はたしてこれほど「決定的な前進」が、他に何かあるでしょうか?

 

茄子を育てることにしたときも、私の中には確信がありました。

「どうすれば茄子たちが活き活きするか」については何もわかりませんでしたけれど、「今この瞬間に茄子はどれくらい活き活きしているか」についてならはっきり見極めることが自分にはできると私は思っていたのです。

 

ホームセンターには、茄子用に調合されたインスタントな肥料がたくさん売っていましたが、私はしばらく考えた末、それらを買わないことにしました。これは「一般的なセオリー」には反することのようでしたが、まだ育て始めてもいない段階で、「これがないと育たないだろう」と決めてかかるのは茄子たち自身の生命力に対して失礼なことだと思えたからです。もし実際に育てていくなかで茄子たちが元気を失い、他の方法をいろいろ試しても再度活き活きしないようであれば、そのときになってからもう一度肥料の投入を検討してみようと決めました。

「花や実に栄養が集中するように葉っぱを間引く」という説明も聞きましたが、これもやらないことにしました。というのも、そもそも私はたくさん茄子を取って食べたいからこの子達を買ったのではなかったからです。私はただ、彼らが活き活きと生きている姿を毎日そばで見てみたかったから、彼らのことを連れてきたのです。

それゆえ、葉っぱを人為的に間引くことも一切やっていません。もし「成長を阻害する余分な葉っぱ」が出てしまっても、それもまた彼らの命から出た葉っぱです。だとしたらその面倒は、まず彼ら自身に一度引き受けさせるべきだと私は考えます。その上で、どうしても茄子が自分で引き受けきれないと判断したら、そのときだけの緊急措置として、何かしらの「人為的な介入」をしようと思っています。

 

結局、私は堆肥さえ混ぜ込んでいない庭の土をそのままプランターに詰め、枯れたセイタカアワダチソウの茎を支柱代わりにして立て、肥料を一切与えずに茄子たちを育てています。

そして、毎日朝と夕に水をたっぷりあげ、その時の葉と茎の様子がどれくらい活き活きしているかを観察し、少しだけ話しかけるようにしています。私の様子を見た妻には「娘でもできたみたいだ」とからかわれましたが、自分で育てているとやはり愛着が湧くものです。

 

もちろん、これまでにも何度か彼らの葉や茎が元気をなくしたことはありました。

でも、そのたびに私は「何がいけないのだろう?」と考えて、水をあげる量や時間帯を変えてみたり、土に直接日光が当たらないように刈った野草を敷いてみたり、風の強い日には倉庫の中にプランターごと移動させたりしてみました。肥料を加えることもそのつど考えましたけれど、毎回、二日以内には葉と茎が再度活き活きし始めたので、今のところは肥料は入れずに済ませています。

防虫剤なども使っていないので、虫にずいぶん葉っぱを食べられている箇所もありますが、一度食べられて萎れかけた葉っぱも、しばらくすると葉の一部が欠けたままで大きくなり、前より丈夫になることさえありました。

もちろん、自然に枯れる葉っぱもあります。彼らの中にも新陳代謝がありますし、「避けようのなかった傷」もあります。枯れたり虫に食べられたりして傷ついた葉っぱを見ると悲しくなることもありますが、時間を経て葉や茎がさらに大きくなり、より活き活きとしていく様子を見ていると、そういった部分も含めて彼らは生きているのだという風にも感じます。

 

命というのは、「美しい」ものです。少なくとも、私はそう感じます。

時としてそれは理不尽に傷つけられることもあるし、外から「余計な介入」をされてねじ曲げられてしまうこともある。でも、這いつくばってでも困難を乗り越え、より活き活きと成長していこうとする「強さ」もまた、命は内側に持っている。

 

高校で、知識を詰め込むだけの勉強がイヤになって不登校になったときも、私は「生きないほう」を選ばなかった。そして、どうかこうか学校に戻った私は、私以外の同級生が全員大学受験に駆り立てられていたときに、一人ぼっちで踊ってばかりいました。

ダンスの専門学校を卒業はしたものの、自分の進路をまるで見出せず三年間引き籠もり生活をしていたときも、毎日死ぬことばかり考えながら、それでも私は「生きないほう」を選ばなかった。

内田樹の思想書と村上春樹の小説に勇気づけられながら社会復帰をして、神戸に引っ越して合氣道を始めてからも、私は何度も何度も倒れました。でも、そのたびに私はなんとか立ち上がって歩き続けることができました。

 

つい先日、私は34歳の誕生日を迎えました。天は34年もの間、私に命を与え続けてくれました。

私が自分の命を呪っていたときも、命は私を活かしていた。

私が自分の境遇を恨んでいたときにも、天は私にメッセージを送ってくれていた。

どうすれば「痛み」を乗り越えられるか、どうすれば「もっと活き活きした人生」を生きられるか、天はいつもひっそりと私に教えてくれていた。

 

命というのは、本当に「美しい」ものです。

今日もあちこちで「名もなき花」が咲いている。「名前を求める花」もあれば、「黙って咲いている花」もある。そして、みんないつかは枯れて、消えていきます。

 

「既に死んでしまった花」を生き返らせることは誰にもできません。

でも、「まだ生きている花」の内側には、自分自身をもっと活き活きと咲かせる力が必ず在る。

全ての命には、そういう「強さ」が在ると思う。

 

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