与えるために

妻のお腹がだいぶ大きくなってきました。出産予定日は今月の末ですが、どうも私たち夫婦の「予感」としては、今月の中頃あたりに生まれるように思えます。

先月末、突然妻のお腹が痛み出しました。妻に聞くと、「生理痛に似た痛みで、これまでの妊娠の期間中には感じたことのないものだ」ということでした。また、妻のお腹を触ってみると、下腹部のあたりに前に触ったときにはなかった「弾力」と「充実感」がありました。胎児自身が、出産に向けた準備として骨盤のほうに降りてきているように、私には感じられました。

その時は「ひょっとするとこのまま出産ということになるのだろうか?」とも思って経過を観察していたのですが、二日ほど微弱な痛みが断続的に続いた後、状態は安定していきました。どうもその時だけのことだったようです。

後になってネットで調べてみて、妻が痛みを訴えだしたまさにその日が、満月と大潮(潮の干満の差が大きくなる状態)の重なっている時だったのだとわかりました。そして、満月の日が終わり、大潮も終わる頃になって、妻の痛みは沈静化していった。不思議なものですが、人もまた動物の一種ですし、出産はあくまでも「生物としての自然な生理現象の一つ」なので、月の満ち欠けや潮の満ち引きの影響を少なからず受けるものなのかもしれません。

 

妻のお腹の痛みは引きましたが、下腹部の「弾力」と「充実感」はあいかわらず持続しているので、おそらく胎児が下にさがってきてはいます。ちょうど6月14日に新月と大潮が重なるので、そのあたりで私たちの子は生まれてくるのではないかと思います。

とはいえ、実際にいつ生まれるかは胎児自身の命が決めることなので、私たち親は「いつでもいいよ」と言えるような心を保って、心静かに待つよう努めています。

 

しかし、「いつでもいいよ」と言えるときばかりではないのも、事実です。

今朝、私は4時半頃に起きて、日課となっている瞑想の実践と畑での作業をしに、寝室から出て行こうとしていました。少し目を開けかけていた妻に向かって、私は「畑に行ってきます」と告げたのですが、妻から「行く前にお腹に少し触ってあげて」と請われました。

普段であれば、「触ってあげて欲しい」と言われれば私はなるべくすぐ触りますし、妻にそう言われる前に自分のほうから「我が子のことを感じたい」という想いに駆られて、「触らせて欲しい」とお願いすることもあります。

でも、そのときの私はもう「畑に行こうとする心」になってしまっていました。だから、そのまま妻のお腹に触ろうとしたときも、私は「早く畑に行きたい」という想いと、「それでも今は触ってあげなきゃ」という義務感との間で、自分が「分裂」しているのを感じたのです。

 

人は内側に「分裂」を抱えたまま心を定めることはできないようにつくられています。

「畑に行く」というのなら、畑に行って自分が「しよう」と決めたことをする。「お腹に触る」というのであれば、その時だけでも畑のことは完全に忘れて、お腹の中の胎児のことのみを考える。

もし私たちが何かとちゃんと向き合おうと思ったら、そのどちらかしか選べません。中間をとろうと思ったら、「本当は畑に行きたいのにな」と内側で考え、時には「自分のしたいことを邪魔された」という不平不満さえ抱きつつ、形だけ手をお腹に置いているということになってしまうでしょう。

しかし、そのような「中途半端な選択」は、「畑に行きたい」という自分の心に対する裏切りでもあるし、何より目の前にいる妻と我が子の命に対しても失礼なことだと私は思いました。

それで結局、私は妻の前に坐って、自分の心が「畑に行く」ということか、「お腹に触る」ということか、どちらかに全面的に定まるまで待つことにしました。もし心が定まらないまま形だけ手を当てるなら、私は自分の深いところに現に兆していた「自分の邪魔をするな」という静かな憤りを、我が子と妻にぶつけることになったでしょう。

 

私のことを「深刻に考えすぎている」と思う人もいるかもしれませんが、そう思う人は、「自分がいつもしていること」をあまり真剣に観察したことがないのだと私は思います。

たとえば、私たちが真剣に何かを伝えようとしているとき、相手がその話を熱心に聞いていないと、私たちはすぐそれに気づきます。ただ単に自分の中に溜まった「重荷」を下ろしたくて話しているだけなら、相手がちゃんとそれを聞いているかどうかはさして重要ではないので、極端なときには聞き手が途中で眠ってしまっても話し手はそれに気づかないことがあります。

でも、「本当に伝えたいこと」があるときには話が別です。私たちは相手がちゃんと聞いていないと、必ずそれに気づきます。相手の「無関心」が私たちにはすぐにわかる。それはまるで「オーラ」のようにありありと目の前の空間に広がっているからです。

 

他にも、たとえばこんな経験はないでしょうか?

学校で、教師が授業のために教室に入ってきて、教壇の所まで歩く間に、生徒の側には「あ、この人、今日はすごく機嫌が悪いんだ」ということがわかってしまうということがある。教師がまだ何も言葉を口にしないうちに、教室中の生徒にはそれがわかる。教室の空気が張り詰めて、息苦しさが満ちていくのを、そこにいる全員が自分の肌でひしひしと感じるからです。

そして、教師自身にもそれはわかる。しかし、どうすることができるでしょう?彼/彼女は現に怒っているのです。どれほど取繕おうとしても、何かの拍子に怒りは飛び出します。「私は怒ってなんかいない」と口で言ったところで、その「言い方」の中に怒りは必ず表現されます。そのことが本人にもわかっているし、生徒にもわかっている。

しかし、今の日本においては、学校の中に人為的に設けられた「規律」や「規則」が「人間の側の事情」よりも常に優先される傾向にあるために、教師は「気分が優れないので今日は授業はしない」と言えないし、生徒は「不機嫌な人の話なんか黙って聞くのは真っ平ごめんだ」というようなことを公然と言うわけにもいかない。

また、仕事場の「怒りっぽい上司」を前にした部下達は、毎日の朝礼の度に「上司の今日のご機嫌」を気にかけて、その上司に対する自分の接し方をあれこれ工夫しないと、まともに仕事することさえできません。一番上の立場にある社長などであればまだしも、その人が中間管理職だったりすると、「気分が優れないので今日は帰る」とは口が裂けても言えないし、理不尽に怒りの矛先を向けられる部下としても「こんな不機嫌な人の下で働くのはイヤだから今日は帰ります」とは言えない。

もちろん、「自分は今とても怒っている」と教師や上司は一言も言わないでしょうし、生徒も部下も「あの人また今日も怒っているな」とは相手の目の前では言わないでしょう。

でも、ちゃんと伝わる。

たとえ言葉を介さなくても、「心の中にあるもの」は、ちゃんとみんなに伝わるのです。

 

また、もしも深い悲しみにとらわれた人が部屋に入ってきたら、部屋にいた人たちにはそれがわかる。そうなるともう楽しげに歌を歌うことは「道徳的に」許されなくなります。私たちは歌うことも喜ぶことも禁止され、新しく部屋に入ってきたその人になるべく同情するよう、内側で強いられることになります。誰もそれを言葉では命令しませんが、「社会的なエチケット」としてそうせざるを得ない。

あるいは、部屋に元からいた人たちが、悲しんでいる人をより深く悲しませることによって安心感を得ようとするほどに「心の弱い人」だったならば、悲しみの渦中にある人を集団の圧力を使って孤立させ、遠くから笑い物にするかもしれません。そして、そういう「凍てついた心」を抱えた人たちの中にある彼ら自身の孤独や恐れや寂しさも、悲しんでいる人は、独りでひっそりと感じていたりするものです。

 

もし私の心が満たされていないなら、私は自分の手で触れる人たち全てから、少しずつ何かを「奪う」でしょう。それを私は避けることができない。

でも、もしも私の心が満たされているなら、私は自分の手で触れる人たち全てに、少しずつ何かを「与える」でしょう。それもまた私は避けることができない。

もしも私が真に「幸せ」ならば、そのとき私は「分かち合うこと」を手控えることに、むしろ「心痛」を感じるでしょう。そうならざるをえません。そして、私が本当に心から「幸せ」を感じているならば、与えても与えても尽きないほど既に内側が満ちているがゆえに、たとえ私が与えたものを相手がそのままどこかに捨てても、私はそのことで相手に恨みを感じないでしょう。

でも、もしも私が満たされていないなら、私はたとえわずかなものを与えるときにも、必ず内側で「計算」するでしょう。「これを与えることによって、相手は自分に何を返してくれるだろうか?」ということを気にかけながら、私はもったいぶって与えるでしょう。

 

私たちの誰もが、それに気づく。

「搾取」されていれば、言葉にしなくてもそれがわかる。たとえ手で触れることさえしなくても、同じ部屋にいるだけでわかる場合もある。頭では気づいていなくても、心ではきっと感じている。

また、誰かから「無条件の愛」を注がれたなら、それもまた私たちにはちゃんとわかる。たとえ手で触れなくたって、そばで一緒に坐って呼吸しているだけでも、「怒り」を抱えながら坐っているのか、「愛」に溢れながら坐っているのかは、自分にも相手にもわかってしまうものなのです。

 

頭ばかりが発達して感覚の鈍りがちな大人にさえそれがわかるのに、どうして「この上なく新鮮な生」を現に生きている胎児にそれがわからないはずがあるでしょうか?

子どもを「未熟な大人」だと思っていると、彼らの鋭敏さに気づきません。

子ども達はちゃんと全部わかっていると思います。「何もかもお見通し」なのだと思うのです。

そのことを畏怖するということが、「親になる」という決意の礎石の一部なのだと、最近私は感じ始めました。自分の未熟さを我が子に教わるばかりの日々です。

しかし、その日々の、なんと有り難いことか。

 

結局、私は今日の朝、妻と我が子の前で自分の心を黙って坐ったまま見つめ、30分試みたところで諦めて、妻と子どもに向かって謝罪して言いました。「今の心のままでは、君たちに触ることが私にはできない」と。

私は「偽り」を与えたくはない。与えるのなら「本物」を与えたい。そして、妻と我が子に対しては、「本物の怒り」を与えるのではなく、「本物の愛」を与えたい。それが私の願いと誓いです。

というのも、「偽りの愛」で包まれた「本物の怒り」ほど、子どもの心を傷つけるものはないと、私は深く知っているからです。

「本物の怒り」に対しては、子どもはいつか成長して力をつけたら、公然と反抗することができます。そして、きっとその反抗を通じて、子ども自身もより強く大きく成長していくでしょう。

でも、「偽りの愛」で包み隠された「本物の憎悪」に対しては、子どもは面と向かって反抗することができません。なぜなら、それは表面的には「愛」にしか見えないからです。

でも、子どもは心で感じています。それが「愛」ではなくて「憎しみ」なのだと。

このような経験が繰り返されることによって、子どもの中には「分裂」が作られていくことになる。というのも、親から与えられているものが「愛」なのか「憎しみ」なのか判断がつかなくなって、子ども自身は内側で困惑し続けることになるからです。「愛」に応えるために親に向かって歩み寄ったらいいのか、「憎しみ」を避けるために親から遠ざかったらいいのかがわからず、その子はどちらの振る舞いに対しても「全身全霊」になることができなくなっていってしまう。

そのような状況に長く置かれてきた子は、思春期にさしかかる頃にはきっと、親から与えられている「愛」を「憎しみ」として感じてしまう自分自身の「醜い心」を、人知れず責め苛むようになるだろうと私は思います。「表面的な愛情」しか与えてくれなかった親に対する「憎悪」と「怒り」のエネルギーを、その子は親を乗り越えて成長していくために使うことがもはやできず、自分自身を内側から破壊するためにしか使えなくなってしまうのです。

 

「愛に偽装した憎しみ」ほどに、子の魂をねじ曲げるものはありません。「偽装されていない憎しみ」は子どもの魂を砕くことならありますが、不自然にねじ曲げることはない。だから、いつか強くなる機会がめぐってきたら、子どもは心の中で親を「殺し」て、「親よりもずっと大きな大人」になる可能性が残る。そして、もしそこまで成長することができたなら、そう遠くないうちに、「我が子にさえ『本物の愛』を与えられないほど親もまた苦しんでいたのだ」ということが、きっとその子には理解できるようになるでしょう。

 

でも、「偽装された憎しみ」は、そういう「子どもの成長の可能性」をあらかじめ摘んでしまいます。親の側の「善意でコーティングされた無意識な悪意」が、子どもたちの中にある「人間として成長していくための回路」を深く破壊してしまうからです。

私はそれが恐い。自分もまた、そういうことを我が子にしているのではないかと思うと恐い。

そして、たびたび、「実際に自分はそれをしてしまっていた(あるいは、現に今している)」ということに気づく時もあります。私はそれがいつも悔しい。

 

でも、その悔しさが、私をもっと成長させてくれます。

悔しい想いをする度に、「どうすれば惜しげも無く与えられるだけの幸せを自分の中に育てられるのか」を、私はもっと知りたくなる。そして、私はそのためにできることを力いっぱい実践したいという気持ちに自然となる。妻と我が子がいてくれるおかげで、そういう気持ちで自分自身と向き合うための勇気が持てる。

 

家族というのは、本当にいいものだと思います。

私の妻と子どもほど、私を成長させてくれた人間は他にいません。「いま生きている人間」の中では、彼らが私にとっては「最上の師」です。

彼らのおかげで、私は自分の心がいかに満たされていないかに気づくことができる。

私がどれほど「目の前の命」に無関心なまま「自己中心的な生」を生きているかに、気づくことができる。そういう風にしか生きられないほど、私の中は「苦しみ」や「寂しさ」でいっぱいなのだと、彼らがいつも教えてくれる。

私は、「自分の不幸の原因」とちゃんと向き合うための機会を、毎日家族にもらっているのです。

 

私は今朝、妻と我が子に謝罪して、畑に行って瞑想をしました。そのまま1時間ほど坐って、それから台所に行ってゆっくり朝ご飯を作りました。そして、妻と一緒にちゃぶ台でそれを食べ、「自分の今の心」をもう一度見つめ直してから、妻のお腹に触りました。

 

もし私が「自分の不幸」を乗り越えられるなら、私は遅かれ早かれ溢れ出します。そうすれば、きっと私は誰かに何かを与えることができる。

しかし、もし「溢れ出し」がまだ起こっていないなら、私は自分の家族に対してさえ、「本物の善」を為すことはできない。何をやっても、それは表面だけの「偽善」になるでしょう。

 

昔々、ある瞑想のマスターがいました。そのマスターはいつも輝くばかりの静寂を放ち、誰が自分の元に来ても、恭しい態度で朗らかに相手と接していました。

あるとき、そのマスターの元に一人の青年がやって来て、一つ質問をしました。

「自分はこの世の中をより良くするために何かを為したいのです。いったい私は何をしたらよいのでしょうか?」と、その青年は尋ねたのです。

マスターはしばらくその青年の目を深く見つめ、それから静かにこう言いました。

「まず、もっと幸せになりなさい。あなたがもしも幸せならば、あなたはきっと世の中のためになることを、たとえ自分ではそれと意識しなくても、結果としておこなってしまうだろう」と。

 

誰もが経験のあることですが、「幸せな人」のそばにいると、他の人まで「幸せな気分」になるものです。そして、そういう「幸せな気分」が、それまで不機嫌だった人の表情さえも溶かしてしまうことがある。

私たちがもしも十分に「幸せ」ならば、私たちはついつい歌を歌いたくなる。花を静かに見つめたくなり、誰かに笑顔で挨拶したくなる。それも、何の見返りも求めずに。

 

マザー・テレサは、ある人から「世界平和のために何かできることはありますか?」と問われて、「家に帰ってあなたの家族を愛してあげなさい」と答えたそうです。

私はここに、もう一言ぜひ付け加えたい。

「あなたの家族を愛するためにも、まずあなた自身を愛しなさい」と。

 

私たちが自分自身に対する深い敬意と愛情を持ったとき、私たちの「幸せ」は、物やお金や他人に依存することなく、自立して鼓動し始めます。

そして、そのような「自立した幸せ」を内に携えているときにだけ、私たちは「本物の愛」を他人に与えることができる。

しかし、もしも私たちの「幸せ」が十分に自立していないなら、私たちは自分の家族に対してさえも「愛」を与えるができず、逆に「愛」をねだって何かを奪おうとしてしまうでしょう。

そのような「愛をねだる心」がどこまでも広がっていった結果が、「第三次世界大戦」の到来を先延ばしにしながらどうかこうか存続している、この世界の現状なのだと私自身は思っています。

 

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