この世界は

六月も半ばになりました。

そろそろ妻のお腹にいる子が生まれるんじゃないかと予測していたのですが、昨日妊婦検診に行ってきて、「まだ胎児が降りきっていない」と教えてもらいました。もう少しかかるみたいです。

いまのところ、助産院で産むつもりですが、最初は自宅出産を希望していました。しかし、いろいろ事情があってそれが叶わず、一時は「それだったら自分たち夫婦だけでお産をしよう」と決意し、個人的に「家族だけのプライベート出産」についての理論や介助法を調べていたこともありました。その頃は、自分自身で出産を補助するために、身体感覚と手の柔らかさを練る技法を一人で実践したりもしていたのですが、岡山で妻の出産を請け負ってくれることになっていた助産院の主宰者である女性に直接会って、「この人に任せよう」と考えを変えました。一目見て、「この人は信頼できる方だ」と感じたからでした。

 

その方は、助産院以外にも、子ども達を自然の中で育てる「森の幼稚園」という試みを実践している人で、助産師としての知識やスキルだけでなく、個人的に頭蓋仙骨療法という技法を学び、実践していました。昨日の妊婦検診でも、検診が終わった後にその技法による「施術」をしてもらったのですが、そのときの彼女の姿を見ていて、私は何度か頭を下げたくなりました(彼女の邪魔をしたくなかったので自制しましたが)。

私はそれまで、頭蓋仙骨療法についてはその名前と基本的な考え方(頭蓋骨と仙骨の間を流れる脳脊髄液に関与すること)くらいしか知りませんでした。その後も、私はその助産師の方には興味を持ちましたが、頭蓋仙骨療法そのものにはあまり興味がなかったので、それが実際どんなものなのか個人的に調べてはいませんし、今も詳しいことは知りません。それゆえ、昨日の検診後、彼女が妻の身体に触れている間、具体的に何をしていたのかも十分には理解できませんでした。

ただ、そのときの彼女の佇まいが、とても澄んで見えたのが印象的でした。一瞬の隙まもなくしっかりと「軸」が通っていて、同時に、「腰肚」を落ち着けて坐っているように私の目には見えました。

 

私たちが何かしらの芸事を始めると、しばしば「軸を意識するんだ」とか「ヘソの下に集中しろ」とかいった指導がされます。

たしかに「軸の感覚」や「臍下の中心感覚」といったものはとても重要だと私も思います。

でも、私はダンスをやっていた頃から「軸だ、軸だ」と言われ続け、その後は合氣道で「肚だ、肚だ」と言われ続け、自分自身でも繰り返し実践してみて、最終的に、「軸」も「肚」も意図的に作るものではないという結論に達しました。

 

その助産師さんのところで、私はこのあいだ、まだ3歳か4歳くらいの小さな子が長坐(両足を前に伸ばした坐り姿勢)で坐っているのを見ました。その子の背筋は真っ直ぐ天に伸びていて、いかにもすっきりとしていて、坐っていても楽そうに見えました。全然努力して坐っていない。

でも、背筋は真っ直ぐでしたし、「軸」も通ってました。単に「軸」をその子が感覚的に自覚していなかっただけです。「軸」を体現はしていたけれど、それを意識的に統御はしていなかった、といったほうが正確かもしれません。

 

私はその子の坐り姿を見たとき、「ああ、『軸』というのは決して頑張って作るものじゃなくて、『もともと私たちの中にある自然な状態』なんだ」と改めて思いました。

もちろん、その子だって生まれたときから首がすわっていたわけでもなければ、重力に対してまっすぐ坐れるだけの筋力や神経回路があったわけでもないでしょう。でも、坐れるようになってまだ間もないその子が難なくできていたことを、どれだけの大人が体現できるのかと考えてみると、むしろ私たちは大人になる過程で「本質的なこと」を忘れていってしまっているのではないかと思えてきます。

 

そして、「肚」というものもまた、「軸」を意識して立ったり坐ったりしているうちに自然と本人の中で心と身体の重みが「然るべき場所」に落ち着いていき、その結果として生まれてくる感覚であると、私個人は思っています。

ですから、そもそも「軸」を通して立ち坐るということは幼児でもできるくらい「自然なこと」であり、その「自然な在り方」に意識的に従うことによって自ずから生成されてくるのが「肚」である、というのが私の基本的な考えなのです。

 

私はダンスを稽古していたときに、教師がヒステリックに「もっと軸を通して!」と叫んでは生徒の身体を強張らせているのを何度も見ました。生徒の側は必死になって「軸を通さなければ」と思うのですが、必死になればなるほど身体が強張って硬くなるので、その人が持っている身体の歪みや偏りがかえって助長されてしまっていました。肩が強張りがちな人は、緊張して肩に力が入ってしまっていたし、腰がいつも強張っている人は、「腰を立てなきゃ」と焦って力み、腰痛になってしまうこともありました。

結果として、「軸が通っている」と指導者から見なされることに重きが置かれてしまって、指導者から注意されることを恐れる生徒たちは「軸が通っているような外観」だけを必死で作り、「内側」はガタガタということが本当に多かったのです。

 

私は基本的に「性善説」によって人を見ています。

人は、余計な介入をされて歪められなければ、「然るべき方向」へと自分の力で伸びていき、「自分に与えられた可能性」を開花させるものと、私個人は信じています。私が「軸」というものを、「人為的に作るもの」ではなく「人が天に従って生きるとき、自然と通るもの」と考えるのも、同じ信念に拠ります。

だから、私が他人の身体にあえて介入するときには、相手が「天に従うこと」を何によって妨げられているかを分析することから始めます。言い方を換えると、相手が「もっと活き活きと幸せに生きられるようになること」を何によって妨げられているのか理解しようと努めます。

たとえば、世の中には「他人から嫌われること」を恐れて「自分の心」を常に引っ込めながら生きている人もいるし、「自分を守ってくれる地位やお金の獲得」を優先するあまり「心の満足」をないがしろにしている人もいます。

「対話」を重ねることでそういった「個人的な事情」が理解できたら、次に私は、そういった「恐れ」や「我欲」がどうしてその人の中でいつまでも残存しているのかを理解するように努めます。

ひょっとすると、「他人から嫌われたくない」という恐れは、その人が幼児期に親や保護者から嫌われた時に感じた「死の恐怖」と関連しているかもしれません(まだ社会的に非力な幼児にとって、保護者に見捨てられることはそのまま「死」を意味するからです)。もしそうだとしたら、その人は何かしらの技法を利用して、もう一度「自分の死」と面と向かわないかぎり、本当に幸せに生きることができるようにはならないでしょう。

また、「自分を保護してくれる地位やお金」にしがみつく人も、「それらなしでやっていける心」を自分の中に見出さない限り、夕暮れ時の空を見てホッと一息つくことさえできるようにはならないでしょう。そういう人はたとえどんなに美しい景色を見ても、「自分が欲しいもの」に向かって脇目も振らずに突き進んでいるために、それらの「美」の前を通り過ぎ、自分が逃した「幸せな一瞬」の存在に、決して気づくことはないと思います。

 

もしも私たちが本当に「幸せ」になれば、そのとき、「軸」は自然と通ります。私はこの現象を、何度も自分自身や他人の中に見ました。

そして、もしも私たちが「自分の幸せ」を簡単に放棄することなく、意識的にそれを守って生きていくならば、やがてその人の中には「肚」の感覚が生まれてくるものと私は思っているのです。

 

また、瞑想の諸技法も、本来、「軸」や「肚」を意図的に作るために使うものではないと私個人は思っています。

これは本で読んだ話ですが、禅のお坊さんの中には、無理やり下腹部に息を詰める呼吸法を続けて、お腹の形を解剖学的に変えてしまった人もいるそうです。そういう人は「これが禅腹だ」と言って、歪に突き出たお腹を自慢げに人にさらすのだそうですが、私はそれは「やっていること」が根本的に間違っていると思う。

「物理的に突き出た腹」なら意図して息を詰めればいつかは作ることができるでしょう。でも、「落ち着いた肚の感覚」だけは、「人間の意図」によっては作ることができない。それは「当人の幸せ」によってしか育つことがないものなのです。

 

瞑想の技法は、私たちに「自分の現状」を痛いほど思い知らせてくれます。

独り坐って技法を実践していると、自分が「全くの凡夫」だとイヤでもわかります。

自分がどれほど他人に対して無関心か。

いかに「詰まらない自己利益」の追求にあくせくして日々を過ごしているか。

どれほど多くの怒りや憎しみや悲しみを抱えているか。

そういったことを、瞑想の技法は教えてくれます。

 

私自身もそうでしたが、瞑想技法の実践を始めて少し経った頃、もしその実践が「真剣」なものであったなら、多くの人は「このまま進むと自分は狂うのではないか」という恐れと直面します。

自分の中に収まりきらないほど巨大な「混沌」が、内側から噴出してくるのを実践者は感じ始めるからです。

ここで「瞑想というのは実に危険だ。もう試みるのはやめよう」と考える修行者もいますが、それは勘違いというものです。

というのも、瞑想は決して「狂気」を作り出さないからです。「真の瞑想」が作り出すのは、いつだって「正気」だけです。

瞑想を真剣に実践していく過程で当人が感じ始めた「狂気」は、「瞑想によって新たに付け加わったもの」ではありません。そうではなくて、瞑想を真剣に実践したことによって、当人が「自分の狂気」を自覚できる程度には「正気」になった結果として、それまでずっと自覚されずにきた「混沌」が可視化されただけのことなのです。

 

本当に瞑想のことを理解しているマスターであれば、こういうときに弟子にちゃんと「心配しなくていい」と言ってあげることでしょう。

「あなたは『自分の狂気』に気づいた。主観的には『正気』から『狂気』に後退したように感じているかもしれないが、あなたは確かに前進している。だから、自分を信じてもっと前へと進みなさい」と必ず言うと思います。

私たちの住んでいる「この社会」はひどく狂って病んでいます。地球や他の星々も含む「この世界」は、「宇宙の法則」に従って美しく存在していますが、私たち人間だけが、多くの場合「宇宙の法則」に従って生きていない。だから、「人間の社会」はいつの時代も多かれ少なかれ狂って病んでいたし、醜かった。

私はそう思っています。

 

昨日、助産師さんが妻のために頭蓋仙骨療法の施術(彼女自身は「お手当」という表現をしていました)をしてくれている間、私は頭を下げたくなりました。それは、朝、山の向こうから太陽がのぼり、蛙や鳥たちの鳴き声が響いてくるのを聞いたときに、なぜか頭を下げたくなるのと、心情的によく似ていました。

そういうとき、私は「ありがとう」と言いたくなり、「自分も頑張ろう」と思います。「今日一日、私も『自分のこと』を精一杯やろう」という気持ちになる。

たぶん、「そういう気持ち」になるきっかけを与えてもらったことに対して、私は感謝しているのだと思います。「ありがとう」と言って、頭を下げたくなるのは、きっとそのためです。

 

「世界」は美しいものです。

もちろん、私たち人間の住む「社会」は狂っているかもしれないし、深く病んでいるかもしれない。そこは「醜い泥」だらけで、「美しい花」なんてまるで無いようにも見えます。

しかし、私はたとえ見渡す限り「泥」しかないように思えても、「きれいごと」を言い続けたいと思っています。

「それでも世界は美しい」と、「泥にまみれたきれいなこと」を言い続けたいと願っています。

なぜなら、「そういうこと」をちゃんと声に出して言う人が、今の世の中には少なすぎるように感じるからです。

 

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