みなと

2012年の春、PLATFORMは最初、ダンスを教えるための「こじんまりした個人教室」としてスタートしました。

それまで自分で場を主宰したことのなかった私は、おっかなびっくりクラスを開講し、自分のブログに「どういうことを理念にしているか」を書いて、ツイッターを通して「興味のある人は来てください」と呼びかけました。

そのときの私の呼びかけに応えて、何人かの人たちが集まり、私は生まれて初めて「教師」として人前に立ったのでした。

 

ちなみに、いまこのホームページで書いている日誌は、私にとって4つめのブログです。

前の3つのブログは、全て自分で消してしまいました。過去の私も「書きたい」という想いは今と同様に強かったのですが、書いた文章を自分の実名をさらしながら背負うことがまだできませんでした。書いた後に、「ああ、筆が滑ってしまった。あんなこと書くんじゃなかった」と思うことがよくありましたし、恥ずかしかったり、悔しかったり、恐かったりして、正直に自分の考えていることをそのまま書くことがなかなかできませんでした。

それでも、「一度書いた言葉は、理由もないのに簡単に引っ込めない」ということを、なぜか私は自分にとって最優先の課題にしていました。どうして「自分の言葉を引っ込めない」ということにそこまで私がこだわったのか、当時はよくわかりませんでしたが、「簡単に引っ込めるような言葉には、そもそも書くだけの価値がない」という考えだけは、明確に自分の中にありました。これは一種の「美学」に近いものかもしれませんが、今思い返してみると、私がそれまでに読んできた本のなかで、「この作者さん、かっこいいな」と私自身が感じた書物は、どれも同じ「美学」によって書かれていたように思います。

 

「責任を引き受ける覚悟がないのなら、初めから書くな」という、自分自身への戒め。

それが、まだ書き手としても人間としても未熟だった私を何度も苦しめたものであり、また成長させてくれたものでもありました。

私は、文章を書いてネット上にアップしては、おっかなびっくり、読者の反応を見ていました。

私は自分がたいして物を知らないということを自覚していましたから、「バカだって思われないかな」と恐れましたし、世間知らずのわりに理想的なことばかり書きたがるところもあったので、「『青臭いことを言うガキだ』って、鼻で嗤われないだろうか」とビクビクしながら書き続けました。

私の文章の読者の数は昔から今に至るまでだいたい「ほぼゼロ」に近い状態でしたが、それでも「全くのゼロ」というわけではなく、読んでいる人がいつもいるにはいましたから、自分の書いた文章をネットにアップした直後などは、毎回恐くて不安でした。かつてはそういった恐怖や不安に押し潰されそうになって、「自分の言葉を全て撤回して逃げ出したい」と思うこともあった。

そして、実際に私は「それ」を4回しました。かつて文章を書き溜めていた3つのブログは全て閉鎖しましたし、実はこのホームページの日誌も、一度だけ全部自分で削除したことがあります。自分の書いた言葉を背負うのが恐くなって、私はそれを自制できなかったのです。つまり、「自分の恐怖」に私は負けたのでした。

さらに言えば、私は「うっかりして手違いで文章を削除してしまった」という「嘘」の報告を読者に向かってしてもいました。いやはや、なんとも「臆病な書き手」だったなと、我ながら思います。

 

PLATFORMでダンスを教え始めたときも、私は恐くて仕方ありませんでした。

私はダンスの技術ならいろいろと知っていましたし、教える術も心得ていました。

でも、その時の私はダンスの稽古を自分でバリバリやっていた頃から10年近くのブランクがありました。だから、「ただ単に技術を教えるだけなら、街のダンススタジオにでも行ってもらったほうが参加者にとって得るものは多いはずだ」といつも感じていたものです。また、私は「『習った技術』をただそのまま教えるだけじゃなくて、『私にしか教えられないこと』を少しでも伝えられないだろうか?」とも思い、独自に試行錯誤を重ねたのでした。

結果として、私は「ダンス教室」という看板を掲げていたのに、ダンスをほとんど指導しませんでした。私が自分で言ったのか、来てくれていた生徒さんが言い出したのか忘れましたが、「踊らないダンス教室」という「異名」までついたくらいです。

「どうしても踊りたい人は街のダンススタジオに行ってください」と生徒さん達に向かって言いながら、私は「街のダンススタジオには決して提供できないもの」を、ビクビクしながら模索し続けたのでした。

 

それにしても、10年近いブランクがあったのに、どうしてダンスを教えようと思ったのか?

たぶん、当時の私の中には「人に何かを伝えたい」という想いだけがまずあったのだと思います。でも、「伝えるに足る何か」をまだ持ってはいなかった。それで、せめて十代の頃に自分をありったけ懸けて稽古したことのあったダンスを、私は「何かを伝えるための手段」として選んだのだと思います。

実際、当時の私には他に伝えられそうなものは何もありませんでした。

高校で受験勉強一色のムードからドロップアウトし、そのあと進学したダンスの専門学校でも、舞台のオーディションや芸能プロダクションへの入社面接にいそしむ人々から私は離れていきました。そういうことを私は本心から「したい」とは思わなかったし、仮に「しよう」と意志することがあっても、いつも長続きしませんでした。

かといって、「私はこういうことをこそしたいのだ」と胸を張って打ち出せるものも持っておらず、「受験勉強も入社面接もまったくしたくないけれど、やっぱり他のみんなみたいに『そういうこと』を優先しないとダメなのかな」と常に悩んでいました。

そうして私は専門学校を卒業すると同時に引き籠もりになり、三年間を無為のうちに過ごしたのです。

 

いろいろな時期を乗り越えて、なんとか引き籠もりの状態からは抜け出したものの、当時の私は社会的には完全に「ゼロ」でした。

職歴はない。資格も持ってない。知識もなければ、スキルもない。ダンスは昔やっていたけれど、仕事に活かせるほどのレベルではないし、ブランクがありすぎて身体もなまっている。引き籠もっていた間に、友人・知人との関係も切れてしまっていました。

「ゼロ」です。

それでも私はどうかこうか「自分の人生」を立て直そうとして、奮闘しました。

死ぬほど恐かったけれど、合氣道の道場にも通うようになり、毎回恐怖と不安で震えながら稽古していました。引き籠もっていた間になまってしまった身体をひきずって、対人コミュニケーションへの拒絶反応を起こしながら、ぶっきらぼうな教え方をする道場の先輩に囲まれて、よりにもよって「他者との身体接触」を避けることのできない合氣道の稽古に通っていたのです。本当に毎回、恐くて仕方がなかったです。

 

そんな中で、私はネット上に文章を書き始め、「踊らないダンス」を教え始めたのでした。

何度も文章を消したことがあり、教室も一度閉鎖したことがありました。

それでも、あいかわらず私はこうしてPLATFORMを続けています。ずいぶん恐い想いもしたし、辛い目にも遭ってきたけれど、私はこの活動をやめなかった。

どうしてなのだろう?

 

「PLATFORM」という名前は、ダンスのクラスを立ち上げるちょっと前に自分でつけました。

私はその時この名前に、「道に迷ってしまったときに立ち戻る場所」というようなイメージを持っていたと記憶しています。

たとえば、誰かと話をしているうちに、お互いの言っていることが食い違ってきて、話が噛み合わなくなったりした経験が誰でもあると思います。そういうときには、「ちょっと待って、一回落ち着いて状況を整理してみない?」と相手に提案し、手前へ、手前へと話を戻していく作業が必要になってくるものです。

こういう「一回戻って状況を整理する場所」を、当時の私は「PLATFORM」という言葉からイメージしていました。「わけがわからなくなったとき、何かを立て直すために一度戻ってくる場所」とでも言ったらいいでしょうか。

まるで長い旅から船が帰ってくる「みなと」みたいに、そこで人々は休憩し、他の人たちといろいろ話をして、「次の航海」の予定が立ったら去っていく。「PLATFORM」にはそんな場所になって欲しかったのです。

 

私はダンスクラスの他にも、合氣道のクラスを作ったし、体操や呼吸法や瞑想法のクラスも作りました。

私はそれらのどれも「うまく」は教えられなかったと思っていますし、参加しに来る人もたいてい数は少なかった。

でも、数は少なくても、いつも「誰か」はいました。たとえクラスには来ていなくても、メールで私に言葉を送ってくれる人がいた。

彼らは多くの場合、仕事でうまくやっていけなくなって休職中の人だったり、仕事はどうかこうか続けているけれど「いまいち納得がいかない」と思っている人だったりしました。現代の不自然な社会生活に疲れて果て、渇いた心を潤すための「水」を求めて、きっと彼らは私の元にやって来たのだと思います。

しかし、湯浅和海という「さんずい」だらけの名前の割には、私は彼らの渇きを癒すことのできる「水」をあまり渡してあげられなかったように感じます。「そんなことなかった」と言ってくれる「元生徒」の方もおられるでしょうけれど、私はいつも無力感ばかり抱いていたものです。

 

私はただ、「PLATFORM」を作りたかったのです。

私はまず「私自身の航海」を立て直さなければならなかったし、もしも誰かが道に迷っていたら、「一緒にどうしたらいいか考えませんか?」とその人に向かって言いたかった。この気持ちはいまも変わっていません。

 

私は、2012年にダンスを教え始めたときから、「教師」として人の前に立つのがどうもイヤでした。「自分だけ高いところに居て、そこから一方的に教えを授けている」というのは、私には合わないように思えたからです。

かといって、教えることそのものを放棄するのも、せっかく自分の時間とお金を費やしてきてくれている生徒さん達に対して無責任ですから、さっさと「教壇」から降りてしまうわけにもいきませんでした。

「教壇」の上に立つのはイヤだけれど、勝手に降りるのも無責任な気がして、私は途方に暮れたものです。

 

私は結局、「教師」にはなれなかったし、「なりたい」と思うようにも変わりませんでした。

ただ、変わったのは、私を含め世間のあらゆる「教師」たちが立っている「教壇」を、自分の意志で片っ端から壊すようになったことです。私は「自分の教壇」だけでなく、「全ての教壇」に「ノー」を言うようになったのです。

 

もし仮に、「偉い先生」が「深遠な教え」を授けてくれたとしても、「それだけ」で何が変わるというのでしょうか?

「偉い先生」は確かに偉いのかもしれない。でも、「偉い先生」の「深遠な教え」があなたを本当に変えるわけじゃない。もしもあなたが変わったのなら、それらの「教え」を導きにして、あなたがあなたを変えたのだ。

私はそう思います。

 

もしも人が変わるのならば、それは本人が「自分の足」でそれだけの道を歩いたからです。

古今東西の聖者や賢者がどれだけ言葉を費やしても、それを聞いた人が一歩も「自分の足」で進まないなら、私たちはいつまでも「今のまま」でしょう。「なんて素晴らしい教えだろうか」と感動する身振りだけ繰り返して、「さて」と言って「それまで通りの自分」に戻っていってしまうなら、「深遠な教え」は一時の暇つぶしに利用されただけで、聞き手自身を何も変えることがない。

「教え」が私たちを変えてくれるわけじゃない。

いつだって私たち自身が、自分自身を変えるのです。

 

たしかに「教え」は貴重なものです。

でも、それに寄り掛かって「自分の足」を止めてしまうなら、「教え」は私たちにとって単なる「重荷」にしかなりません。

私は、他人に「重荷」なんて背負わせたくない。私はただ、横に並んで一緒に「自分の道」を歩きたい。世界中の人たち全てに、それぞれの「自分の道」を自分自身で歩いて欲しい。私と一緒に。

 

本当は、全ての人に「PLATFORM」はあるのだと思っています。

わけがわからなくなったときに立ち戻る場所。

道に迷ったときに自分を立て直す場所。

私たちの「みなと」。

 

実は、もうすぐ産まれる私の子どもの名前は、「みなと」にすることに決めています。

この名前は、妻の妊娠がわかったあとすぐに、二人で話し合って決めました。

私の名前が「さんずい」だらけでびしょびしょなので、子どもも「水」に関連する名前にしようと前々から思っていたのです。それで、いろいろ候補を考えた後、「みなと」にしました。

字としては「湊」なんですけれど、さすがに「湯浅湊」だと、全部「さんずい」でびしょびしょ過ぎるかと思い、ひらがなで「みなと」と名付けることにしました。

名前をつけてから今に至るまで、妻は毎日のようにお腹に向かって「みーさん、みーさん」と語りかけています。

私たちの「みなと」。

人々が集まっては、また旅立っていく、「みなと」のような人になって欲しい。君がこの名前を気に入ってくれるといいのだけれど。

 

私は「教師」になんかなりたくない。

私は人々の「みなと」でありたいし、「師」であるよりは「友」でありたい。

教えを上から垂れるよりは、肩を並べて話し合いたい。

一人だけ悟りすまして他人を見下すくらいなら、誰かと一緒に泥をすすりながら、この世界をもっと愛したい。

それが、私の願いです。

 

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