子どもが産まれました

報告が遅くなりましたが、先日、妻が無事に出産を終えました。

6月19日の朝から妻が軽い陣痛を訴え始め、その日の夜中に出産を予定していた助産院へ一緒に向かいました。

その後、いったん陣痛が弱まったのですが、20日の昼過ぎに妻が入浴したのをきっかけに陣痛が再び強まり、16時頃には2~3分間隔で陣痛が現れるほどになりました。私は妻と一緒にずっと助産院にいたので、「これはそろそろか」と思って助産師さんを部屋に呼び、私と妻と助産師さんの三人で力を合わせて、一つの命を産みました。

2018年6月20日18時17分に、こうして湯浅みなとは産声を上げたのでした。

 

出産の時は、助産師さんに医療的な介助をしてもらいつつ、私は私で、これまでに学んできた呼吸法や整体の手当法を自分なりに応用して、妻が子を産むのを手伝いました。

この時に限らず、基本的に妻の日常的な「身体のケア」は私がしていたので、そういった日頃からの積み重ねもあって手助けができたように思います。普段からやっていることでしたので、私のほうは「大丈夫、いつも通りやればできる」と思えましたし、妻のほうでも私の判断や手技を信じて身を委ねてくれました。

普通の医療機関では、出産の場面でこういう「勝手なこと」を夫婦にほとんどさせてくれないと思うのですが、私たちが介助を依頼していた助産師さんは、私たちの希望をいろいろと聞いてくれる人でした。詳しくはお聞きしなかったのですが、その方は一般的な病院でのお産の在り方について疑問に思っているところもあったようで、個人で助産院を開業していました。「開業していました」と言っても、助産院ができたのはつい最近のことで、実のところ、私たちがその助産院でお産をした最初の夫婦でした(私たちの前にも一人だけその助産院で担当していた妊婦さんがいたようなのですが、何かトラブルが発生したらしく、途中で病院に移されたらしいです)。

 

私も妻も、「自然なお産」をずっと望んでいました。妻はできるかぎり薬物や外科的な処置を用いることを避けたいと思っていましたし、自宅出産を希望してもいました。

私としても、何から何まで医療者に頼ってしまって、「自分たちの力」を十分に使わないままお産が終わってしまうとしたら、こんなに悔しいことはないと思っていました。妻の心身は健康でしたから、彼女にはちゃんと「産む力」があると思いましたし、お腹の中の子も妊娠期間中ずっと元気に動き続けていましたから、ちゃんと「産まれてくる力」があるはずだと私自身は思っていたのです。

また、私としても、妻と子どもが命がけで出産に臨んでいるときに、ただの傍観者でありたくはなかったので、可能な限りお産にかかわりたかった。私の中には「誰かに産ませてもらうのではなく、できることなら自分たちで産みたい」という想いが強くありましたし、お産に向けて日頃から「地道な積み重ね」を続けていく覚悟もあった。

だからこそ、医療的な介入は可能な限り無しで済ませたかったのです。

 

もちろん、もし妊産婦の心身が衰弱していたら、薬物や医療者にフォローしてもらって、ひとまず出産を無事に乗り切ることが優先されて然るべきですし、胎児に何か問題があれば帝王切開をしたり、吸引器や鉗子を使って胎児を早めに子宮や産道から引っ張り出したりすることも「緊急時の措置」として必要になるかもしれません。

長時間にわたるお産によって母子に過度な負担がかからないようにするために、陣痛を誘発・促進する薬物を投与することも時には有効でしょう。

産後の身体的な負荷を減らして後々の育児が軌道に乗りやすくする目的から、出産の時はひとまず麻酔を使った無痛分娩を試みるというのも一つの戦略だと思います。

私は「こういうやり方が正しくて、こんなやり方は間違っている」といったことを言うつもりはありません。妊産婦にも個人差があるし、胎児の状態だってみんな違います。全てはケースバイケースであり、「ベストなお産の方法」は家族の数だけ在っていいと思います。

ただ、原則として、出産においては母子の安全と健康が優先されるべきであり、産後の母親の速やかな回復と新生児の健やかな成長が重視されるべきだとは思います。そして、それらを優先的に考慮した上で、個々の夫婦がどういうお産を望んでいるかがちゃんと医療者によって尊重されるなら、これほど素晴らしいことはないと思います。

 

そういう観点からすると、母親の身体に特に異常があるわけでもないのに、「病院のマニュアルで決まっているから」という理由だけで機械的に薬物を投与したり、医療者の勤務スケジュールに支障が出ないようにすることを主目的に陣痛誘発剤や陣痛促進剤を投与してお産を早く済ませようとすることは、物事の優先順位が転倒していると私は思います。

「医療者が処置をしやすいから」という理由だけで、胎児が産道を下りてくる際に重力を利用しにくくなってしまう「仰向け姿勢」を産婦に強い、点滴や分娩監視装置をつけて分娩台に産婦の身体を固定しようとすることにも、私は全く納得がいかないです。

「医療者が産道の様子を確認しやすいから」といって、約40週間にわたって薄暗い子宮の中にいた胎児に、ギラギラとあまりに強い光を当てることにも、私は簡単に同意できない。ある程度の状況がわかるだけでよければ産科の分娩室のような強烈なライトでなくても足りるはずだと思うからです。それほどまでに強い光が本当に「胎児の安全のために必要なもの」なのか、私には疑問です。

リスクを最小限にするために投与される数々の薬物、そもそも出産には不向きな仰向け姿勢の強要、陰部を照らし続けるライトとその周りを取り囲んでいる医療関係者達の視線。

このような状況において、いったいどれだけの産婦がリラックスできるものでしょうか?

たしかに薬物と外科的な処置によって、「いざというときのリスク」は避けられるかもしれません。でも、薬物や外科的な処置が「余計な介入」をしてしまったために、かえって産婦の「産む力」と胎児の「産まれる力」が削がれてしまい、その結果として「危険な事態」を招き寄せてしまってはいないかどうか?

これは、医療関係者はもちろん、妊産婦自身も出産に臨む前に一度ちゃんと考えるべきことだと私は思います。

 

そういった考えに基づいて、私個人としては夫婦だけでのプライベート出産を望んでいました。

私の中には、「きっと今の私たちなら乗り越えられるだろう」という確信がありましたし、実際にそれを成し遂げるための努力をする用意もありました。また、もしも何かあった場合には、全ての責任を自分で負う覚悟もあった。

ただ、妻は私ほどには夫婦だけでのお産に対して意欲的ではなかったので、何度か話し合った後、最終的には私が折れました。

なんと言っても子どもを産むのは私ではなくて妻なのですから、彼女自身が自分で納得のいっていないお産をするとなると、リスクは確実に跳ね上がることになります。人間というのは「自分自身で納得のいっていないこと」を他人に強要されておこなっているときには、決して心身に蔵された力が十分に発揮されません。家族だけでのプライベート出産となると、医療者にしか入手できない医薬品も、高度な外科的処置も利用できないわけですから、妻自身の「産む力」が最も重要になってきます。それゆえ、もし妻がプライベート出産に納得がいっていないなら、たとえ私が一人でどれだけ努力しようとも、きっと失敗するだろうと思ったのでやめたのです。

 

ただ、助産師さんの介助による自宅出産についても、私たちがお願いしていた助産師さんからNGが出ました。自宅出産中に万が一「何かしらのトラブル」があったときの母子の受け入れを、助産院と提携している病院が断ったからです。

夫婦だけでのお産を諦めている以上、「最終的な責任」は医療者側が負うことになるので、向こうが「無理だ」と言ったらこちらとしてはそれに従うしかありません。お産に限らず何でもそうだと思いますが、自分で責任を負うことを避けるなら、責任を避けたぶんだけ選択の自由はなくなります。どこまで自分で責任を負って、どこから先を他人に任せるかは、それぞれの人の生命力の強さや覚悟の深さ、決意の固さによって違ってきますので、一概に「こうするのがいい」とは言えませんが、「責任を避ければ選択の自由はない」ということについては、普遍的な法則だと思います。

 

結果としては、病院側から「出産前の妊婦検診を病院で受けてもらった上で、自宅ではなく助産院でお産するのであれば、いざというときの受け入れもOKします」という返事をもらえたので、助産院に私も一緒に泊まり込んで、助産師さんによる介助のもと、私と妻の二人三脚でお産をするという形に落ち着きました。

私個人としては「全く不満がなかった」とは言い切れませんが、医療的な介助を引き受けてくださった助産師さんはとても信頼できる方でしたし、助産院はとてもアットホームな雰囲気で落ち着きました。いただいた一日三食のご飯も、助産師さんの家族が手作りしたもので、素朴な味付けながらとても美味しかったです。そして、助産師さんには入院中に私たち夫婦の「わがまま」をたくさん聞いてもらえたので、そのことについては非常に感謝しています。おかげで、とても良いお産を経験することができました。

 

父と子(助産院にて)
父と子(助産院にて)

助産院からは昨日、6月25日の夕方に退院して、そのまま我が家に戻ってきました。

家族総出でお産に行っていたので、畑は草が伸び放題。建設途中だった道場の天井に作られていたツバメの巣では、いつの間にか雛が孵っていました。

プランターで育てていた野菜たちは、葉に少し力が無くなってしまっていた子もいましたが、ひとまずみんな生き残っていました。妻の入院に付き添っている間、野菜たちのことが心のどこかで常にひっかかっていたので、ひとまず私はホッとしました。

 

私たちの子、みなとはとても元気で、エネルギーが有り余っています。

泣くのも動くのも全身全霊。大人顔負けの体力の持ち主です。

入院中に一度、助産師さんと妻の二人がかりで彼にお乳を飲ませようとしたことがありました。でも、彼は必死で顔を背け、腕を突っ張って、頑として押えられた方向に口をつけようとはしなかったのです。どうやら私に似て「頑固な性格」のようです。

結局そのときは、大人二人がかりでもお乳を飲ませることはできませんでした。同じようなことは他にも入院中にたくさんあって、彼は一度でも自分で「イヤだ」と思ったら、テコでも動かない。そんな子に見えます。

しかし、こちらから無理強いしなくても、妻が胸元に抱いているだけで自然とお乳を飲み始めることも何度かありました。反対に、それまで静かに呼吸していたのに、こちらが「飲ませよう」と思って抱き上げた瞬間にいきなりフルパワーで泣くこともよくあったのですが、飲むときはちゃんと飲むのです。そういう時は、まるで磁石のS極とN極が吸い付き合うように、妻の胸と彼の口とが引き合って融和していく感触が、見ていても伝わってきました。

おそらく彼の中には「明確な基準」があるのだと私は見ています。決してデタラメに飲んだり飲まなかったりしているわけではないと思う。

今は、妻と一緒に授乳の記録をつけながら、その規則性を探っているところです。なんとかして規則性を見つけ出さないといけない。

もしも彼に授乳を無理強いしたら、せっかく持って生まれたその強い生命力を、親へ反抗することでいたずらに浪費してしまう結果になるでしょうし、かといって、便利な医療機器にばかり頼って授乳を楽にし過ぎてしまうと、彼の「吸おうとする意欲」だけでなく、妻の側の「お乳を与えようとする力」までスポイルしてしまう可能性があります。私はそのどちらも避けたい。

そして、「無理強い」と「スポイル」の両方を避けようと思ったら、どうにかして「彼の規則性」を見つけ出し、「どのような条件が揃ったときに彼が自発的にお乳を飲むのか」をこちらがある程度理解しておくことが必要不可欠だと私には思えるのです。

 

とはいえ、私も妻もかなり楽観的です。まだ彼が産まれてから1週間と経っていませんが、彼は日に日に成長しているからです。

昨日は見せなかった表情を今日はする。昨日はしなかった手足の使い方を今日はする。

毎日多くの発見があります。そういった我が子の変化を見ることは、親としてシンプルに嬉しいことですし、この調子で成長していくなら、私たちと言語を介さずにコミュニケーションを取る術も、彼はきっとそう遠くないうちに学ぶはずです。

だったら、私たち親のほうも、彼の「言葉」を理解する術を地道に学んでいかなければならないと思います。

 

私はこれまでに育児の経験がありませんから、今は新しく覚えねばならないこともたくさんありますし、助産院から帰ってきて彼の世話を全て自分たちでするとなると、当然手間もかかります。

でも、私たち親の側も彼を育てることを通じて、既に多くのことを彼から学ぶことができていますし、彼の生きている姿をそばで見ることができるおかげで、私も妻も幸せです。

 

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