今日を生きる

1ヶ月ぶりの更新です。

このところ、壁にぶつかってもがいていました。

 

6月に自分の子どもが産まれ、生まれて初めて育児というものを経験する中で、自分自身の未熟さを再認識しました。

自分の愛情や気遣いがどれほど表面だけの浅薄なものか、そして、その飾り付けられた表面の下にどれほどの「毒」を隠していたかを、我が子に教えられました。

 

私たちは、「自分自身の真実」と直面するしかない状況に陥ることを、無意識に避けようとする傾向があります。なぜなら、「真実」を知ってしまったら、私たちは真剣に行動を起こすしかなくなるからです。

もし私たちが「自分は起きてから寝るまでの間、無数の『間違ったこと』をし続けている」と気づいてしまったら、もはや「そのままの自分」に留まることはできません。そんな状態に留まることを、誰も自分に対して許容することはできないからです。

たとえ他人の目は誤魔化せても、自分の心は誤魔化せないものです。もし「自分は変わるべきだ」と気づいているのに何も行動を起こさないでいるとしたら、「自分は自分を欺いている」という感覚が徐々に心と身体の全体に染み渡っていき、ここから罪悪感や自分に対する不信感が生まれてきます。

そうして、やがては生きること全体が何か色彩を欠いたものとして感じられるようになっていきます。というのも、自分で自分を欺いている限り、私たちは「与えられた命」を精一杯に生きることはできないからです。

コントロール可能な範囲に自分の命を押し込めている限りにおいてしか、私たちは自分を欺き続けることはできません。「真実を直視して全面的に生きる」か、「自分を欺いて部分的に生きる」か、どちらかしか道はないのです。

そして、せっかく与えられた一度きりの人生を「部分的に生きる」だけで満足できる人間はどこにもいないので、自分を欺くことを続けるならば、遅かれ早かれ私たちは欲求不満に取り憑かれます。

「部分的に生きる」ということを続けながら、同時にこの欲求不満を解消しようとすると、私たちは無数の「慰め」や「夢」や「出来合いの娯楽」によって「自分の嘘」を埋めねばなりません。しかし、この「悪あがき」が私たちの内側にかえって「埋めがたい空虚感」を作り出してしまう。そして、「空虚感は埋めたい。でも、全面的に生きるのは恐い」というこの「宙づりの状態」にあるとき、私たちはますます「浅薄なもの」で自分の空白を埋めようと必死になって駆けずり回るようになります。ここにこそ、全ての依存症の本当の原因があるのです。

 

もし「変わるべきは自分だ」と気づいたら、私たちは少しずつでも自分の中の変えられる部分を変えていく努力をしなければならなくなります。その過程で、「できたら見たくない部分」にも意識の光を当てなければならなくなる。そうして慣れ親しんだ「これまでの自分」に別れを告げて、「新しい自分」を創造することを、真剣に試みることへと私たちは向かっていきます。

しかし、もしこの「自己変容のプロセス」を避けようとすると、私たちは「自分自身への肯定感」、つまりは「自己愛」が機能しない状態で生きていかねばならなくなります。というのも、人生が私たちに与えている「試練」の存在を心の奥底では自覚しているにもかかわらず、そこからいつまでも目を逸らしている場合、私たちは自分のことを決して受け容れることができなくなってしまうからです。「試練」から逃げ続けること、それは自分自身の可能性に対する「侮辱」であり、自分で自分を「侮辱」することは「自己愛」や「自己肯定感」を破壊することはあっても、決してそれらを養いはしないのです。

 

また、「私は私を愛する」「私はありのままの私を肯定する」という感覚は、深い安らぎとくつろぎをもたらすものでもありますが、この充足感こそが「利他」の基礎となります。というのも、自分自身の内側が満ちるほど安らいだとき初めて、私たちは一切の見返りを求めることなく他者に何かを与えることができるようになるからです。

反対に、もし「自己愛」が機能不全に陥ってしまった状態のまま他者との関係に入っていくと、私たちは「自分の中で足りていない分の愛」を相手にねだることを避けることができません。たとえ表面的には与えているように見えても、奥深くで私たちは計算してしまいます。「これだけ与えたのだから、きっとこれくらいは返してもらえるだろう」と。

私たちは「自分が与えたもののリスト」をこっそり作り、「まだこれを返してもらっていない、あれも返してもらっていない」と不平不満を募らせ始めます。しかし、その不平不満を相手に直接言ってしまうと何も与え返してもらえなくなる可能性が高くなるので、私たちはそれらを呑み込んで隠そうとします。そうしておいて、「これだけ自分の不平不満を呑み込んで耐えているのだから、その分だけ相手はこちらに報いて然るべきだ」と内側で密かに考え始める。

こうして、「自己愛」が機能しなくなった人は他者と「取引」しかすることができず、いつまでも「愛」の関係に入っていけなくなります。「自己愛が機能していない」ということは「自分自身から切り離されている」ということでもありますが、それはまた、「他者からも切り離される」という結果を招くのです。

 

このような状態が、苦しくないはずがありません。

しかし、「この苦しみを味わい続けることになってもいいから、一歩も踏み出さないでいたい」と願うことは私たちによくあることですし、「慣れ親しんだ苦しみの中に留まること」を選ぶのか、「たとえ痛みを伴ってもいいから前に踏み出すこと」を選ぶのかは、最終的には本人の自由に属することです。

「踏み出すこと」が「正しい選択」だと私は言いません。ただ「事実」を言うだけです。「踏み出さなければ死ぬまで苦しむことになるが、もし踏み出す場合は勇気が要る」と。

それだけが「避けようのない事実」です。

 

ところで、私たちが「前に踏み出すこと」に失敗し続けるとき、そこには一つの諦念と一つの楽観が共存していると私は思います。

それは、「自分にはどうせ何も変えられやしない」という自分自身の可能性に対する諦念と、「まだ明日があるさ、そのときになってから本気でやればいい」という未来の可能性に対する楽観です。

ですが、私はそのどちらも「正しい認識」だとは思いません。まず、私たちは自分で思っているよりもずっと多くの可能性を持っています。私たちには「真実」を見通す知性が備わっており、その知性は私たちの「自己欺瞞」をあばくことができるほどに光り輝いています。もし私たちに知性がないならば、「自分を欺すこと」はもっと容易なはずです。私たちが「正しくない生き方」を続けて苦しむのは、「正しい生き方」とは何かを直観することができるだけの知性を、私たち自身が持っているからに他ならないのです。

そして、「明日」は決してやってきません。私たちは「今日」をしか生きることができないからです。あるいは、「今日」をさえ生きられないかもしれない。なぜなら、夜が来るまでに死ぬ可能性が全ての人に常にあるからです。

また、「今日」を生きそびれた人は、「明日」が「今日」としてやってきたときも、同じように生きそびれる可能性が高くなります。「明日」は「今日」によって支えられ、形作られていくからです。

それゆえ、「今日」を十全に生きることに成功した人は、「明日」が「今日」としてやってきたときも、同じように十全に生きることのできる可能性が高まります。「今日」一歩踏み出すことに成功した人は、「明日」には同じ方向へもう一歩踏み出すのがより容易になり、「明後日」にはもっと容易になっていきます。「今日」作ったものが「明日」を方向付けるのです。

 

しかし、まだ一歩も踏み出していないうちは、「昨日」も一歩も踏み出せなかったのだから、「今日」も無理に決まっていると、私たちはつい思ってしまいます。「最初の一歩」が難しい理由はここにあります。私たちは「踏み出さなかった昨日」によって、「またしても踏み出さないまま終わる今日」を方向付けてしまうことがあるのです。

「今日」踏み出した人が、「明日」さらに踏み出すのが容易になるように、「昨日」踏み出し損ねた一歩が「今日」を破壊してしまうように私たちを方向付けます。

でも、それも単なる「方向付け」の問題に過ぎません。もちろん、何年も何年も踏み出し損ねてきた人が、「今日」思い切って一歩を踏むのはとても勇気の要ることです。数年間にわたる「絶え間ない方向付け」が、そこには強固に存在しているからです。たとえ勇気を奮い起こして何かを変えようと思っても、「お前はもう何年もの間、ずっと踏み出していないじゃないか。今日になっていきなりそれができると思うのか?」という疑いの声が内側で頭をもたげてきて、私たちのことを縛り付けます。

 

たしかにそのような状態で一歩を踏むのは難しい。それは私もわかっています。

でも、「不可能」ではありません。

「昨日」は「今日」を決定できない。ただ方向付けることができるだけです。「今日」はいつも「未決定」なままでやってきます。「今日」作った方向性が「明日」には台無しになるかもしれないのと同じだけ、「昨日」までに作ってきた方向付けを「今日」は台無しにできる可能性がいつもある。「今日を死なずに迎えることができた」ということは、「昨日を台無しにするためのチャンスを自分は与えられた」と言うに等しいのです。

そして、「昨日までの過去」が作ってきた方向付けを台無しにするチャンスは、「今日」を逃したらもう二度とやってこないかもしれない。なぜなら、今夜眠ったらもう二度と目覚めないかもしれないからです。

いつか誰にも「そんな日」がやってきます。「今日を逃したらもう明日は来ない」という日が。

そのような日がやってきたときになって、「それでも今日一歩を踏み出してみよう」と思えるほどに勇敢な人はそう多くありません。

それゆえ、「今日」を「明日」へと延期し続けて寿命を迎え、「もう延期はできない」と悟るしかなくなったとき、ほとんどの人は「深い後悔」と「まだ生きている他人への憎悪や嫉妬」に苛まれながら死んでいくことになります。それは耐えがたい苦しみとなって、その人を襲うことでしょう。

 

私たちの多くは、部分部分で自分を欺しながら生きています。一切の「夢」を放擲し、「自己欺瞞の闇」を完全に払うことのできた人はほとんどいません。

でも、だからといって、「夢」や「嘘」にすがらないと生きられないほど、人間は弱くもない。

「強く在ろうとする意志」は、誰の心にも眠っている。

あとは「今日」という日にそこへ水をやるか・やらないか、「自分自身の選択」があるだけです。

 

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