技法の全体像

・技法の全貌

 前項で述べましたように、これから提示していく技法には「自己の変容」、つまり、「『我が家を見失った状態』から『我が家に帰り着いた状態』へとシフトする」という大きな目的があります。「自己の根本的な変容」、それが技法の最終的な「成果」となります。

 この「成果」を得るために私は大きく分けて「二つの目標」を設定しました。そして、それらの目標は「三つのアプローチ」によって達成されていくことになります。

 まとめると、以下のようになります。

 

 「技法の目的」

  • 自己の変容

 

 「自己変容のための二つの目標」

  • 生命力を高め、活き活きと日々を生きられるようになること
  • 自分自身を理解すること

 

 「目標達成に向けた三つのアプローチ」

  • 感覚を深める
  • 思考を観察する
  • 感情を乗りこなす

 

 「自己の変容」がいわば「ゴール」であり、「二つの目標」はそこに至るための「進むべき方向性」のことを意味します。そして、その方向性に沿って私たちが進んで行く際、「具体的に何をするか」ということが、「三つのアプローチ」という形で、ここでは示されているのです。

 

・「生きること」と「知ること」 

 前回、「技法の目的」である「自己の変容」については概説したので、今回は「二つの目標」について詳しく説明していこうと思います。

 そもそも「自分自身を根本から変容させる」ということは、並大抵の覚悟と努力ではできません。

 もちろん、私は「今すぐここで『新しい自分』に生まれ変われ!」というような無茶な要求をするつもりは全くありません。それだけの覚悟が既にあるなら、そもそも他人に技法を習う必要などないはずだからです。

 技法は私たちを内側から徐々に強くしていきます。技法の実践を積み重ねることによって、私たちは「未知の世界」へ入っていくことを恐れなくなっていき、困難に立ち向かう決意を身に宿すようになっていきます。そして、この「実践によって練り上げられた強さ」が、「自分を変えるための一歩」を勇気を持って踏み出すことを容易にしてくれるのです。

 

 自分を変えるには勇気が要ります。それまで持っていたものを手放して、「新しい自分」に適応していく努力が必要になるからです。変わっていく過程で何を失うことになるかわからないし、何を得ることになるかもわかりません。

 しかし、それでも勇気を振り絞って前に踏み出すことができたとき、そこには「新鮮な世界」が現れてきます。それは「慣れ親しんだもの」ではないかもしれませんが、私たちはもう一度「生まれたて」のようなまっさらな心で世界を眺めることができるようになります。そして、このような心を取り戻すことによって、それまで何も感じないまま過ぎ去っていた日常が豊かな彩りを伴って体験されるようになり、私たちは日々の小さな物事の中にも「発見の驚き」や「成長の喜び」を感じることができるようになっていくのです。

 

 「生命力を高めること」によって、私たちの心身は活き活きしていきます。新しいことに挑戦する勇気や自発性は、こういった「溌剌とした心身」から生まれてくるものです。

 たとえば、もしも身体がいつも重だるいように感じていて、気分が常に憂鬱でふさぎ込んでいたら、誰が新しいことに挑戦しようと思うでしょうか?仮に頑張って挑戦してみたところで、心身に力が満ちていなければ、十分な成果が得られるまで自分の試みを続けることはできないでしょう。

 また、「自分の中に力が満ちている」という感覚を信頼できるようにならない限り、私たちはなかなか勇気を持って前進することはできません。それゆえ、私たちが「新しい自分」に向けて未知なる旅に出かけるためには、まず「前に進むための土台」を作る必要があるのです。

 

 この「前に進むための土台」こそが、私たちの「生命力」、つまり「心と身体の強さ」です。身体が生気に満ちていれば物事を前向きに考えることが容易になりますし、何かに取り組むときにも積極的に実行できるでしょう。心に力が満ちていれば、たとえ失敗することがあっても簡単にはへこたれなくなりますし、なかなか望むような成果が手に入らなくても、忍耐強く日々の実践を続けていくことができます。

 しかし、「土台」だけあっても、どこに向かって進んでいったら良いのかがわからなければ、せっかく身に宿っている「生命力」も有効に使うことができません。「力の使い方」がわからなければ、せっかく「力」を得たところで、それを役に立てることができないのです。

 

 そもそも「生命力が高まる」ということは、本人にとって必ずしも有益なことばかりではなく、危険な側面もあります。なぜなら、それまでなかった「力」を手に入れることで、当人はより勇敢に前へと進むことができるようになるだけでなく、自分や他人をより深く損なうこともできるようになってしまうからです。

 たとえば、原子力エネルギーそれ自体は「善」でも「悪」でもありませんが、それを純粋に「兵器」として使えば、私たち自身を一瞬で滅ぼすことも可能です。もちろん、日常生活のためのエネルギー源として発電などにも使えますが、その場合には「十分な注意」が必要不可欠です。もし原子力エネルギーを使う私たち自身が「不注意」であれば、たとえどれほど「善いこと」のために使っているつもりであっても、それが「破滅」をもたらす可能性は常にあるのです。

 

 私が技法の目標として「生命力を高めること」だけでなく、「自分自身を理解すること」も挙げたのはこのためです。

 もしも私たちが「力」を得ていくならば、得た「力」の大きさに比例するだけの「注意深さ」がどうしても必要になります。自分の中にある「愚かさ」や「傲慢さ」、「暴力性」などを十分に理解していなければ、私たちは容易に自分や他人を損なうような「力の使い方」をしてしまうことになるでしょう。

 技法の目的はあくまでも「自己の変容」であって、「力を得ること」はそのための手段に過ぎません。自分自身を生まれ変わらせるためにも、「前に進む力」は必要であり、「力」が暴走しないためにも、「自分を知ること」が必要となるのです。

 

・「内なる知性」を研ぎ澄ます

 ところで、ここで私が言っている「自分自身を理解すること」というのは、ちょうど「散らかった部屋を片付ける作業」に似ています。それは「何かを新しく付け足していく作業」というよりも、「『要らないもの』をそぎ落として、『必要なもの』を整理すること」に近いからです。

 私たちが努力をするとき、そこには二つの「仕方」があります。一つは「もっと何かを得よう」として為される努力であり、もう一つは「余分なもの」を捨てるために為される努力です。前者の仕方で努力をすると、私たちは結果として多くのものを得るかもしれませんが、自分自身を見失いがちになります。反対に、後者の仕方で努力をすると、私たちはあまり有名にもならなければお金持ちにもならないでしょうけれど、「自分にとって本当に大切なこと」に全エネルギーを注ぎ込むことができるようになっていきます。

 基本的に私が提示する技法は、前者から後者へと「努力の仕方」を切り換えるための方便です。というのも、多くの場合、私たちは前者の仕方、つまり「もっと得ようとする努力の仕方」しか知らないからです。

 

 そもそも私たちは「自分が必要としているもの」を、どれくらい自分自身で見極めることができているでしょうか?

 テレビのコマーシャルや、ネット上の広告などに刺激されて、「別にそれほど必要でも無いもの」を無闇に追い求めてはいないでしょうか?

 

 「本当に必要なもの」は、実はそれほどたくさんはないものです。私たちの心が本当に求めているものが手に入るなら、私たちはわずかな物だけでも十分満足することができます。

 しかし、もし「心が求めていないもの」をいたずらに集め続けるならば、私たちはどれだけ物を手に入れても、真の満足を感じることはありません。そして、物を集めれば集まるほど、「もっと何かを得なければ」という飢餓感はかえって強まり、結果として、休む間もなく走り続けることになってしまうのです。

 

 技法の実践は私たちをより「知性的」にします。世の中に溢れる「偽り」を見抜き、「真実」を見通す目を、技法はもたらしてくれるのです。

 私たちの多くは、親や教師の言葉とか、マス・メディアが流す情報などに影響されて、「あなたはあれを手に入れなければならない」「あなたはこういう人間にならなければならない」といつも急き立てられています。それゆえ、往々にして私たちは、「今ここの自分」に落ち着くことができないまま、どこまでも走り続けてしまうのです。

 

 「知性的になる」ということは、こういった「自分の現状」に対して目を開くということでもあります。そして、もし私たちの目が開けば、自分自身がいつの間にか「自分らしく生きること」から遠く離れてしまっていたことに、私たちは気づくことになります。

 「他人が語った知識」に寄り掛かるのではなく、「内なる知性」を働かせることで「自分の答え」を探していくこと。それが、「自分らしい人生」を納得して生きるためには必要不可欠です。

 しかし、私たちはみんな多かれ少なかれ「自分で感じ、自分で考える」という在り方に不安を抱えているものなので、どうしても「他人の知識」に寄り掛かりたくなります。そして、そのようにして「感じること」や「考えること」を自分でやめてしまうことによって、私たちの「内なる知性」はどんどん錆び付いていってしまうのです。

 「他人に『道』を聞けば聞くほど、かえって『道』に迷ってしまう」ということが私たちの人生で頻発するのはこのためです。あちこちの他人に「道」を聞いて回ることによって、私たちは知らず知らず自分自身の「知性」の上に「借り物の知識」という埃をかぶせてしまっているのです。

 

 もちろん、日常生活において、仕事や家事などの遂行に必要な「実際的知識」を他人から教えてもらうことは大事なことです。しかし、もっと根本的で重要なことについて、たとえば「他でもない自分自身はこの人生をどう生きるのか?」とかいったことに関しては、他人から教えてもらうわけにはいきません。仮に教えてもらったとしても、本人がそれについて自分で何も考えていないなら、「内側の問い」は手つかずのままです。それゆえ、他人に教えてもらった通りの生き方をしていても、きっとそう遠くないうちに、同じ問いが浮かんできます。「これで自分の人生は本当にいいのだろうか?」と、その人は再び問わずにはいられなくなることでしょう。

 

 私たちには「自分の問題」を解決することができるだけの「知性」が生まれつき備わっています。しかし、もしその力を信じることができないと、私たちは「他人の知識」にすがることによって徐々に「知性」を錆び付かせてしまうことになります。

 反対に、もしも私たちが自分自身に深く根付くなら、「知性」は徐々に研ぎ澄まされ、「他人の知識」によって無闇に振り回されることなく、「真実」を見通すことができるようになっていきます。

 「自分の知識」だと思っているものは、ひょっとするとそのほとんどが「他人からの借り物」かもしれませんが、「知性」は紛れもなく自分自身のものです。本当は、誰もがそれを持っているのです。

 

 私はこの文章を読んでいるあなたに「知性的」であって欲しいと思っているので、私の言葉にもできたら寄り掛からないでいて欲しいと願っています。そもそも私はあなたに「知識」を伝えようとは思っていません。私はあくまでもあなたが「自分の一歩」を踏み出すための「方便」を考えているだけに過ぎないのです。

 そういう意味で、私の言葉は全て「ジャンプ台」です。それを「踏み台」にして跳んだ後は、私が「言ったこと」は全て忘れて、「自分の内側」に進んでください。なぜなら、「あなたにとっての答え」というのは、私の言葉の中にではなく、あなたの中にあるものだからです。

 

 私たちが「自己の内側」へと入っていく際に踏み台として使う方便、それが技法です。内側に入れば入るほど、私たちの「知性」は鋭敏になり、私たちは「自分自身の答え」を導き出すことができるようになっていきます。

 「自分の内側深くへ入っていけば、『大事な問題』について、他人に聞かなくても答えを出せる」というのは、人によっては信じがたいことかもしれません。「それでは内に籠もって独りよがりになってしまうのではないか?」と心配になる人もいるでしょう。

 しかし、事実は全く逆なのです。私たちが「答え」を導き出せないのは、むしろ外側のあらゆるものによって私たちが毎日24時間ずっと掻き乱されているからです。実際、何が「外側」で何が「内側」なのかさえわからなくなるほど、私たちは混乱しています。もしもこの混乱を静めることができれば、「答え」は自ずから浮かび上がってくるものなのです。

 

・次回予告

 次回以降、技法についての具体的な説明に入りますが、この記事の最初に書きましたように、それらのアプローチは大まかに三つに分けることができます。すなわち、「感覚に働きかける技法」「思考に働きかける技法」「感情に働きかける技法」の三つです。

 まずは三つのアプローチ全ての基礎となる「感覚」から、話を始めていきたいと思います。

(2018年10月3日加筆修正)

 

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