「子どもに教える」ということ

気がつくと、もう8月が終わろうとしています。夜は「涼しい」のを通り越して、若干「肌寒い」と感じることも出てきました。早くも秋の気配を感じます。

 

先月から始まった「合氣道まんまる堂 少年部」ですが、現在は門下生が三名います。みんな近所の子ども達です。

普段は毎週火曜の夕方に稽古をしているのですが、今月はお盆に家族で長期間出かけるところもあったので、「じゃあ、お盆が終わってからまとめて稽古しましょう」ということになりました。

そういえば、私が以前指導の手伝いをしていた凱風館の少年部でも、夏は集中稽古をしていました。当時は気づかなかったのですが、あれはお盆に帰省するご家族のスケジュールを考慮したものだったのかもしれません。

 

そんなわけで、先週8月20日(月)~24日(金)まで、五日連続で午前中の10時~11時に稽古をしました。三人とも皆勤でしたし、連日稽古できたので、週に一回しか会わないときより密度の濃いコミュニケーションが取れたように感じます。

 

今回の集中稽古では、私の中でいろいろ課題として設定していたことがあったのですが、その一つは、子ども達に「自発的に稽古へ参加する心」を持って欲しいということでした。

大人が「自分の意思」で道場の門を叩く場合と違い、子ども達は、親の側の「こういうことを学んでほしい」という意図によって稽古に通っている部分が多かれ少なかれあるものです。たとえば、合氣道に限らず、武道を習わせる親御さんの心の中には「我が子に礼儀作法をきちんと身につけて欲しい」という願いがあることが多いように感じます。他にも、「子どもにとって将来何かしらの役に立つように」と思って、片っ端から色んな習い事に通わせている親御さんもいるでしょう。

しかし、実際のところ、子ども自身がどれほど積極的に「通いたい」と思っているかはわからないものです。私自身も子どもの頃にスイミングスクールや英語の塾に通っていましたが、主観的には「通わされていた」という感覚が強くありました。特に英語の塾には行くのが非常にイヤだった時期もあったのですが、当時はそれをはっきり親に言い出す勇気がなく、たいへん憂鬱な気持ちで通っていたのを思い出します。

 

合氣道の稽古に限らず、何であれ自分自身で主体的に取り組むことによって、私たちは充実感を得ます。自分で「イヤだな、できたら辞めたいな」と思いながら続けていても、大して実力は伸びませんし、なにより楽しくありません。

私としては、道場生達には自分で「やるぞ」と心に決めてやって欲しいです。

そこで、私は「やるぞ」という気持ちを(逆に、やりたくなければ「やらないぞ」という気持ちを)子ども達自身に固めてもらうための方便として、今回の集中稽古で「死」というテーマを提示しました。毎回稽古のたびに、「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、何を大事にしてどう過ごしたいか」ということを、各自に自分で決めてもらうようにしたのです。何を大事にしてもいいけれど、自分自身で「これ」というものを一つ選んでもらって、心の中で念じる時間を設けるようにしました。何も無いところから自分で考えて選ぶのが難しい子もいるかと思い、私のほうで「たとえばこういうことを大事に過ごしてみるのはどうか?」という風に選択肢をいくつか提示した日もあります。

 

「何を大事に今日を生きるか」が自分の中ではっきりすれば、物事の優先順位は自然と決まってきます。自分自身の心が決まれば、「やりたいこと」は止められたってやるでしょうし、「やりたくないこと」は命令されたってやらないでしょう。

私は正直なところ、「稽古をしたくない」と思っている子には、ちゃんと自分の心にしたがって、あえて稽古をしないでいて欲しいとさえ思っています。「したくないことをしない自由」を私は彼らから奪いたくないし、そもそも自分自身で「やりたくない」と思っていることを無理してやるのは、本人にとっても指導する私にとっても純粋に時間とエネルギーの無駄遣い、つまりは「せっかくの人生を浪費すること」だと思うからです。

人によっては、「何が大事なのか子ども達にはまだわかっていないのだから、大人の側が無理にでもやらせないといけないことだってある」という風に考えるかもしれませんけれど、子どもはまわりの大人の一挙手一投足から、日々、忠実に学んでいるものです。そもそも私たち大人の側が、「何を大事に生きたらいいのか」をはっきりと意識して振る舞っているなら、それはちゃんと子ども達にも伝わるものなのです。

 

「大事なこと」を無理にでも叩き込まなければならないと思っている人は、その「大事なこと」を自分自身で心から真剣に大事にして生きているかを、一度自問してみた方が得るものが多いと私は思います。

もしも私たち大人が「大事なこと」を子どもに一方的に言い聞かせるばかりで自分自身でそれを実践していないなら、子ども達はむしろそういった私たちの矛盾した振る舞いをこそ「生きる上で大事なこと」として学んでしまう可能性が高いです。「そうか、『自分より弱い人』を相手にするときは、命令するだけで自分は怠けていてもいいんだ」と、きっと子どもは「学習」します。

 

子どもに指導していると、襟を正さずにはいられません。彼らは純粋な「鏡」だからです。私の心の状態が、彼らの様子にはよく現れます。

私が無意識に子ども達を見下していたり、逆に子ども達に取り入ろうとして卑屈な態度を取ったりすれば、彼らの一挙手一投足がそれを教えてくれます。子ども達はまだ大人ほど「嘘」も「お世辞」も上手くないので、私に「侮る気持ち」があれば、子ども達はついてきません。

それが、今回の集中稽古で「私が」子ども達から学んだことでした。

 

子ども達のほうは、私からいったい何を学んだでしょうか。

彼らの今後の道場での一挙手一投足が、きっと私にそれを教えてくれることでしょう。

 

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